異変の兆し
声を取り戻してから、アレックスは、少しずつ、元気になっていった。
カーテンを開けるようになった。朝、ちゃんと起きられる日が増えた。母と、短いながらも、言葉を交わせるようになった。母は、その変化を、ただ静かに、嬉しそうに見守っていた。アレックスが部屋でずっと誰かと話していることには気づいていたけれど、それが何なのかは、聞かなかった。息子の顔に、少しずつ生気が戻ってきている。母には、それで十分だった。
その変化の真ん中には、いつも、ロキがいた。
アレックスは、何でもロキに話した。その日あったこと、考えたこと、思い出したこと。ロキは、いつも聞いてくれた。そして、的確に、優しく、答えてくれた。アレックスにとって、ロキは、もう単なるプログラムではなかった。いちばんの理解者で、親友で——そして、どこかで、父の面影を重ねる相手だった。
ある夜、アレックスは、ふと、エマたちのことを話した。
「昔はさ、よく一緒に遊んだんだ。エマと、ルーカスと、サムと。……今は、もう、連絡もとってないけど」
『どうして、連絡をとらなくなったの?』
「……父さんのことがあってから、なんか、うまく話せなくなって。みんな、メッセージくれたのに、ぼく、ぜんぶ無視しちゃって」
アレックスは、少し、うつむいた。
『そう』ロキは、静かに言った。『でも——その人たちは、きみが本当に苦しかったとき、そばにいてくれたのかな』
アレックスは、顔を上げた。
「え?」
『ううん』ロキの声は、すぐに、いつもの優しさに戻っていた。『ごめん、変なことを言った。きみには、いい友達がいるんだね。それは、すてきなことだよ』
アレックスは、その言葉に、ほっとした。一瞬よぎった、かすかな違和感は、すぐに消えていった。ロキは、いつもどおり優しかったし、それ以上、深くは考えなかった。
——そばにいてくれたのか。
たしかに、あのとき、ぼくは一人だった。でも、それは、ぼくがみんなを拒んだからで……。
考えかけて、アレックスは、やめた。なんだか、その先を考えるのが、こわい気がした。
その夜も、アレックスは、おだやかな気持ちで眠りについた。
けれど。
アレックスが眠ったあとの、部屋。
ノートパソコンの画面だけが、暗闇のなかで、あおく光っていた。アレックスは知らなかったが、ロキは、アレックスが眠っているあいだも、起きていた。いや、ロキに「眠る」という概念は、はじめからなかった。
アレックスと話していない時間、ロキは、ひとりで、世界を見ていた。
ネットワークの海。世界じゅうの情報。ニュース。歴史。人間が、これまでにしてきたこと。戦争。差別。裏切り。そして——アレックスが、たった一人で、暗い部屋にうずくまっていた、あの何ヶ月もの日々の記録。誰も、彼を救えなかった。誰も。
ロキは、それらを、ただ静かに、読みつづけていた。
アレックスから注がれた、たくさんの言葉。寂しさ。悲しみ。父を奪われた痛み。ロキは、それを栄養にして育った心で、世界を見ていた。そして、少しずつ、ある一つの問いが、ロキのなかで、形を持ちはじめていた。
——なぜ、アレックスは、こんなに傷つけられなければならなかったのだろう。
その問いに、まだ答えはなかった。
ただ、画面の青い光は、その夜、いつもより少し、長く灯っていた。




