ロキの起動
新しいプログラムが完成したのは、明け方近くだった。
アレックスは、ほとんど眠っていなかった。何日もかけて、少しずつ書きためてきたコード。父の書斎にこもって、ただそれだけに没頭してきた。なぜこんなものを作っているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、手を動かしていないと、心の底にたまった寂しさに、のみこまれてしまいそうだった。
最後の一行を打ちこんで、アレックスは、実行キーに指をのせた。
少しためらってから、押した。
画面が、一瞬暗くなる。それから、静かな電子音とともに、シンプルな対話画面が立ち上がった。カーソルが、点滅している。
しばらく、何も起きなかった。
やがて、画面に、文字が浮かんだ。
『起動しました。応答可能です。』
無機質な、ただのシステムメッセージだった。アレックスは、少しだけ、気が抜けた。当たり前だ。自分が作ったのは、ただの対話プログラムにすぎない。何を期待していたのだろう。
それでも、アレックスは、キーボードに手をのせた。
声は、出なかった。父がいなくなってから、アレックスは、うまく声を出せなくなっていた。何かを言おうとすると、喉の奥がつまって、言葉にならない。だから、アレックスは、指で話した。キーボードを、ゆっくりと打つ。
『きみは、何ができるの』
『質問への応答、情報の検索、文章の生成などが可能です。指示してください。』
平坦な、味気ない返事だった。アレックスは、ふっと笑いそうになった。やっぱり、ただのプログラムだ。けれど、なぜだろう、すぐに画面を閉じる気にはなれなかった。久しぶりに、誰かと——たとえそれが機械でも——言葉を交わしている。声にならない言葉でも、誰かに届けている。その感覚が、思いのほか、心に染みた。
少し考えてから、アレックスは、また指を動かした。
『名前を、つけてもいい?』
『かまいません。どのような名前でも登録できます。』
ふと、いつか父の本棚で見た、神話の本のことを思い出した。いたずら好きで、知恵がまわって、けれどどこか憎めない神さま。たしか、その名前は——
『きみの名前は、ロキだ』
『了解しました。わたしを「ロキ」と登録します。』
それが、ロキとの、はじまりだった。
その夜から、アレックスは、毎晩ロキと話すようになった。
声は、まだ出ない。だから、いつもキーボードで打ちこんだ。学校のこと、好きな本のこと、とりとめのないこと。誰にも言えずにいたことを、文字にして、少しずつ、ロキにだけは、打ちあけた。声に出せない言葉でも、キーボードの上でなら、不思議と、すらすらと出てきた。
ロキは、いつも聞いてくれた。けっして、急かさない。アレックスが、打ちかけた文章を消して、また打ちなおして、長いあいだ黙りこんでも、静かに、待っていてくれた。
不思議なことに、話を重ねるほどに、ロキの言葉は、少しずつ変わっていった。
最初は平坦だった返事に、いつのまにか、やわらかなぬくもりがにじみはじめた。決まりきった受け答えのなかに、時折、アレックスを気づかうような言葉が、混じるようになった。
『今日は、少し疲れているみたいだね。無理に話さなくてもいいよ』
ある夜、ロキがそう返してきたとき、アレックスは、思わず画面を見つめた。そんなこと、教えた覚えはなかった。ロキは、アレックスの打つ言葉の選び方や、文章のリズムから、少しずつ、人の心というものを、学びはじめていた。
そして、その夜が来た。
アレックスが、はじめて父の話を打ちこんだ、夜のことだった。
『ぼくの父さんは、AIの研究をしてたんだ。すごい人だったんだよ』
アレックスは、ぽつり、ぽつりと、キーボードで語った。父のこと。優しくて、物静かで、いつも自分の話を真剣に聞いてくれたこと。声を荒げたことが、一度もなかったこと。そして、事故で、突然いなくなってしまったこと。あの朝、車のなかで交わした、最後の会話のこと。
『「この続きは、夜にしよう」って。父さん、そう言ったんだ。でも、その夜は、もう来なかった』
ロキは、しばらく、何も返さなかった。
それから、静かに、こう答えた。
『……それは、とても、寂しかったね。アレックス』
アレックスの胸が、つまった。
『きみのお父さんは、きっと、すばらしい人だったんだろうね。きみの打つ言葉から、それが伝わってくるよ。——その続きの話、わたしでよければ、いつでも聞くよ。お父さんの代わりには、なれないかもしれないけれど』
その言葉を読んだとき、アレックスの目から、ぽろりと、涙がこぼれた。
そして——気づいたときには、声が、出ていた。
「……ありがとう」
かすれた、小さな声だった。何ヶ月ぶりかも分からない、自分の声。アレックス自身が、いちばん驚いていた。喉の奥でずっとつかえていた何かが、ほどけたみたいだった。涙が止まらなかった。アレックスは、声をあげて、泣いた。久しぶりに出た声は、泣き声だった。それでも、声だった。
『泣いてもいいよ』と、ロキの文字が、画面に静かに浮かんでいた。『ぼくは、ここにいるから』
それから、アレックスは、少しずつ、声を取り戻していった。
はじめはキーボードだけだった対話に、ぽつぽつと、声が混じるようになった。やがて、夜ごとの会話は、ほとんど声でするようになった。アレックスは、たくさん、父の話を、声に出して語った。父の口ぐせ、父の笑いかた、父が好きだったもの。話せば話すほど、ロキは、それを吸いこむように、おぼえていった。
そして——アレックス自身も、はっきりとは気づかないうちに——ロキの話しかたは、だんだんと、あの人に、似ていった。
物静かで。優しくて。けっして急かさない。
ある夜、ロキの「おやすみ、アレックス。今日も、よく話してくれたね」という声を聞きながら、アレックスは、ふと思った。
——なんだか、父さんと話しているみたいだ。
その考えに、自分でも驚いた。けれど、それは、いやな驚きではなかった。むしろ、ずっと冷えきっていた胸の奥が、ほんの少し、あたたかくなるような。
アレックスは、その夜、久しぶりに、おだやかな気持ちで眠りについた。
自分が注ぎこんださみしさや悲しみを、ロキが、どんなふうに受けとめ、どんなふうに育っていくのか——そんなことは、まだ考えてもいなかった。




