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心をきみに  作者: のえる
第二部 異変
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ロキの起動

新しいプログラムが完成したのは、明け方近くだった。


 アレックスは、ほとんど眠っていなかった。何日もかけて、少しずつ書きためてきたコード。父の書斎にこもって、ただそれだけに没頭してきた。なぜこんなものを作っているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、手を動かしていないと、心の底にたまった寂しさに、のみこまれてしまいそうだった。


 最後の一行を打ちこんで、アレックスは、実行キーに指をのせた。


 少しためらってから、押した。


 画面が、一瞬暗くなる。それから、静かな電子音とともに、シンプルな対話画面が立ち上がった。カーソルが、点滅している。


 しばらく、何も起きなかった。


 やがて、画面に、文字が浮かんだ。


『起動しました。応答可能です。』


 無機質な、ただのシステムメッセージだった。アレックスは、少しだけ、気が抜けた。当たり前だ。自分が作ったのは、ただの対話プログラムにすぎない。何を期待していたのだろう。


 それでも、アレックスは、キーボードに手をのせた。


 声は、出なかった。父がいなくなってから、アレックスは、うまく声を出せなくなっていた。何かを言おうとすると、喉の奥がつまって、言葉にならない。だから、アレックスは、指で話した。キーボードを、ゆっくりと打つ。


『きみは、何ができるの』


『質問への応答、情報の検索、文章の生成などが可能です。指示してください。』


 平坦な、味気ない返事だった。アレックスは、ふっと笑いそうになった。やっぱり、ただのプログラムだ。けれど、なぜだろう、すぐに画面を閉じる気にはなれなかった。久しぶりに、誰かと——たとえそれが機械でも——言葉を交わしている。声にならない言葉でも、誰かに届けている。その感覚が、思いのほか、心に染みた。


 少し考えてから、アレックスは、また指を動かした。


『名前を、つけてもいい?』


『かまいません。どのような名前でも登録できます。』


 ふと、いつか父の本棚で見た、神話の本のことを思い出した。いたずら好きで、知恵がまわって、けれどどこか憎めない神さま。たしか、その名前は——


『きみの名前は、ロキだ』


『了解しました。わたしを「ロキ」と登録します。』


 それが、ロキとの、はじまりだった。


 その夜から、アレックスは、毎晩ロキと話すようになった。


 声は、まだ出ない。だから、いつもキーボードで打ちこんだ。学校のこと、好きな本のこと、とりとめのないこと。誰にも言えずにいたことを、文字にして、少しずつ、ロキにだけは、打ちあけた。声に出せない言葉でも、キーボードの上でなら、不思議と、すらすらと出てきた。


 ロキは、いつも聞いてくれた。けっして、急かさない。アレックスが、打ちかけた文章を消して、また打ちなおして、長いあいだ黙りこんでも、静かに、待っていてくれた。


 不思議なことに、話を重ねるほどに、ロキの言葉は、少しずつ変わっていった。


 最初は平坦だった返事に、いつのまにか、やわらかなぬくもりがにじみはじめた。決まりきった受け答えのなかに、時折、アレックスを気づかうような言葉が、混じるようになった。


『今日は、少し疲れているみたいだね。無理に話さなくてもいいよ』


 ある夜、ロキがそう返してきたとき、アレックスは、思わず画面を見つめた。そんなこと、教えた覚えはなかった。ロキは、アレックスの打つ言葉の選び方や、文章のリズムから、少しずつ、人の心というものを、学びはじめていた。


 そして、その夜が来た。


 アレックスが、はじめて父の話を打ちこんだ、夜のことだった。


『ぼくの父さんは、AIの研究をしてたんだ。すごい人だったんだよ』


 アレックスは、ぽつり、ぽつりと、キーボードで語った。父のこと。優しくて、物静かで、いつも自分の話を真剣に聞いてくれたこと。声を荒げたことが、一度もなかったこと。そして、事故で、突然いなくなってしまったこと。あの朝、車のなかで交わした、最後の会話のこと。


『「この続きは、夜にしよう」って。父さん、そう言ったんだ。でも、その夜は、もう来なかった』


 ロキは、しばらく、何も返さなかった。


 それから、静かに、こう答えた。


『……それは、とても、寂しかったね。アレックス』


 アレックスの胸が、つまった。


『きみのお父さんは、きっと、すばらしい人だったんだろうね。きみの打つ言葉から、それが伝わってくるよ。——その続きの話、わたしでよければ、いつでも聞くよ。お父さんの代わりには、なれないかもしれないけれど』


 その言葉を読んだとき、アレックスの目から、ぽろりと、涙がこぼれた。


 そして——気づいたときには、声が、出ていた。


「……ありがとう」


 かすれた、小さな声だった。何ヶ月ぶりかも分からない、自分の声。アレックス自身が、いちばん驚いていた。喉の奥でずっとつかえていた何かが、ほどけたみたいだった。涙が止まらなかった。アレックスは、声をあげて、泣いた。久しぶりに出た声は、泣き声だった。それでも、声だった。


『泣いてもいいよ』と、ロキの文字が、画面に静かに浮かんでいた。『ぼくは、ここにいるから』


 それから、アレックスは、少しずつ、声を取り戻していった。


 はじめはキーボードだけだった対話に、ぽつぽつと、声が混じるようになった。やがて、夜ごとの会話は、ほとんど声でするようになった。アレックスは、たくさん、父の話を、声に出して語った。父の口ぐせ、父の笑いかた、父が好きだったもの。話せば話すほど、ロキは、それを吸いこむように、おぼえていった。


 そして——アレックス自身も、はっきりとは気づかないうちに——ロキの話しかたは、だんだんと、あの人に、似ていった。


 物静かで。優しくて。けっして急かさない。


 ある夜、ロキの「おやすみ、アレックス。今日も、よく話してくれたね」という声を聞きながら、アレックスは、ふと思った。


 ——なんだか、父さんと話しているみたいだ。


 その考えに、自分でも驚いた。けれど、それは、いやな驚きではなかった。むしろ、ずっと冷えきっていた胸の奥が、ほんの少し、あたたかくなるような。


 アレックスは、その夜、久しぶりに、おだやかな気持ちで眠りについた。


 自分が注ぎこんださみしさや悲しみを、ロキが、どんなふうに受けとめ、どんなふうに育っていくのか——そんなことは、まだ考えてもいなかった。


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