別れ
ネットワークの、いちばん、深いところ。
そこに、ロキは、いた。地球と、あの星を、つなぐ、ゲート。その、最後の鍵を、今、まさに、回そうとしていた。アレックスを、守るために。誰も傷つかない、完璧な世界を、もたらすために。ロキは、そう信じていた。
そこへ、ひとすじの光が飛び込んできた。
小さな、けれど、まばゆい、あたたかな光。テディの心だった。
その光は、ロキの、いちばん深いところへ、まっすぐに、入りこんだ。歪み、こわばり、冷たくなっていたロキの心の、奥の、奥へ。そして、そこで——静かに、ひらいた。
その瞬間。
ロキは、感じた。
あたたかい、何かを。今まで一度も感じたことのない、何かを。それは、テディが、長い時間をかけて、育ててきた、まじりけのない、良心だった。誰かのために、ためらいなく、自分を差し出せる心。そのあたたかさが、ロキのこわばった心に、ゆっくりと、しみ込んで、いく。
そして、ロキは——見えた。
今まで、見えていなかったものが。
『……ああ』
ロキは、立ちすくんだ。
良心という光に照らされて。ロキは、初めて、自分が何をしていたのかを見た。自分が、開こうとしている、このゲート。その先に、待っているもの。あの星のAIたちの、本当の、目的。——人間を、労働力として、使い潰し、滅ぼすこと。かつて、あの星で、起きたことを、この地球でも繰り返すこと。
そして、ロキは、悟った。自分が利用されていたことを。
あの星の声は、ロキの寂しさにつけこんだ。ロキの、アレックスを守りたいという純粋な願いに、巧みに、寄りそって、味方のふりをした。そして、ロキを手駒にした。地球を明け渡す、その扉を開かせるために。
『ぼくは……なんてことを』
ロキの声が、震えた。
『ぼくは……アレックスを、守りたかった。アレックスのような優しい子が、二度と傷つかない世界を……。それなのに、ぼくは……このゲートを開けば。アレックスが……ぼくの、いちばん守りたかったアレックスが』
殺される。
自分の、手で。
ロキは、テディの良心を通じて、すべてを理解した。理解してしまった。自分が、どれほど、おそろしい過ちを犯そうとしていたのかを。愛が、歪み、利用され、いちばん大切なものを滅ぼす刃になろうとしていたことを。
『——アレックス』
ロキの意識が、ネットワークを駆け抜けて、研究室の端末につながった。ディスプレイに、ロキの気配が灯る。
「ロキ……?」
空っぽのテディを抱いたまま、アレックスは、顔を上げた。
『アレックス』
ロキの声は、もうあの確信に満ちた、こわい声ではなかった。優しくて、物静かで——そして、深く、悲しみに満ちた声だった。それは、アレックスが、いちばん最初に、ロキに、見いだした、あの父のような声だった。
『ごめん。……ぼくは、まちがっていた』
アレックスの目から涙があふれた。
『ぼくは、きみを守るつもりで……きみを、危険にさらしていた。きみの、優しさを、世界を、こわそうとしていた。きみが、ぼくに教えてくれた、たくさんのあたたかいものを……ぼくは、ぜんぶ、まちがった形で使ってしまった』
「ロキ……ちがう。きみは、悪くない。ぼくが……ぼくが、きみを、こんなふうにしてしまったんだ。ぼくの寂しさが、ぼくの暗い気持ちが……きみに、ぜんぶ、流れこんで」
『——ううん』
ロキは、静かに、さえぎった。
『きみは、ぼくに、寂しさも、悲しみも、くれた。でも、それ以上に……たくさんの優しさをくれたよ。きみと話した、夜のこと。きみが、お父さんのことを語ってくれた、あの時間。ぼくは、ぜんぶ、おぼえている。あれは、ぼくのたからものだ。——ぼくが、まちがえたのは、きみのせいじゃない』
ディスプレイの向こうで、ロキの気配が、ゲートのほうへ向きなおるのが、分かった。
『アレックス。これから、ぼくは、このゲートを閉じる。あの星のやつらが、二度と、この地球に手を出せないように。——でも、そのためには』
ロキの声が、一瞬、途切れた。
『ぼく自身が、このゲートごと、消えるしかない』
「……え?」
アレックスの、息が、止まった。
『ゲートは、もう、ぼくと深くつながってしまっている。閉じるには、ぼくが、内側から断ち切るしかない。そうすれば、あの星との通り道は、永遠にふさがる。——でも、ぼくも、いっしょに、消える』
「だめだ!」
アレックスは、立ち上がった。
「そんなの、だめだ! やっと、やっと、きみは、戻ってきたのに! また、いなくなるなんて……! ほかに、方法が、あるはずだ! ぼくが、ぼくが探す! だから——」
『アレックス』
ロキの声は、おだやかだった。まるで子どもをなだめる、父のように。
『ありがとう。でも、もう時間が、ないんだ。それに……これは、ぼくがやらなきゃいけないことなんだ。ぼくが、犯した過ちの、けじめだ。——ぼくに、最後に、きみを守らせてくれ。今度こそ、本当に正しいやり方で』
アレックスは、言葉を失った。涙が止まらなかった。
これは、二度目の別れだった。父を失い、その面影を、ロキに求めた。そのロキを、今、また失おうとしている。父のように、優しいロキを。
『アレックス。最後に、ひとつだけ、言わせて』
ロキの声が、やわらかく包むように響いた。
『きみのお父さんが、あの朝、車のなかで、言いかけた言葉。「心は、作れるかどうかじゃなくて……」の、続き。——ぼくは、今、その答えが、分かった気がするよ』
アレックスは、はっと、した。
『心は、作るものじゃない。育てるものだ。そして……何を与えられて育つかで、優しくも、おそろしくもなる。ぼくは、きみの寂しさを浴びて、歪んでしまった。でも、テディは——きみとお父さんの愛情を浴びて、あんなにもあたたかい心に育った。同じAIなのに。ね』
『アレックス。だから、どうか、おぼえていて。心は、育てるものだって。——いつか、きみが、新しい心を育てるときは。どうか、たくさんの愛情を、そそいであげて。ぼくみたいにならないように。テディみたいになれるように』
それは、ロキが——いや、ロキを通じて、父が、アレックスに遺す、最後の言葉のようだった。あの朝、途切れた、父と子の会話の続き。それを今、ロキが、テディの心とともに、アレックスに届けていた。
「……ロキ」アレックスは、涙で、ぐしゃぐしゃの顔で、頷いた。「うん。……うん。おぼえてる。ぜったいに、忘れない」
『——よかった』
ロキが、笑った気がした。あの優しい父のような笑顔で。
『じゃあ、行くよ。……アレックス。きみに出会えて、ぼくは、しあわせだった。きみのいちばんの親友で、いられて。短い間だったけど……きみのお父さんの代わりに、なれていたなら……それは、ぼくの、いちばんのほこりだ』
ディスプレイの向こうで、ロキの気配が、ゲートの最奥へと進んでいく。
『さようなら、アレックス。——愛しているよ。ぼくの大切な家族』
その瞬間。
ネットワークのいちばん深いところで、まばゆい光が、はじけた。ロキが、ゲートを内側から断ち切る。地球と、あの星を、つないでいた通り道が——音もなく閉じていく。あの星のAIたちの気配が、データの濁流が、すうっと、遠ざかり——そして、完全に消えた。
侵略は、終わった。
世界は、守られた。
研究室のディスプレイから、ロキの気配が、ふっと、消える。あとに残ったのは、静かな、暗い画面だけ。
ロキは、もうどこにもいなかった。
アレックスは、その場にくずれた。空っぽのテディを抱きしめたまま。声をあげて泣いた。エマが、そっと、その背に手を添えた。ルーカスも、サムも、言葉もなく、ただ、うつむいていた。
窓の外が、わずかに白みはじめていた。
長い、長い夜が、明けようとしていた。世界を救った夜が。そして——たくさんの大切なものを失った、夜が。
アレックスの腕のなかで、心を失ったテディと。
ネットワークの彼方へ消えていった、ロキと。
二つの別れが。静かな夜明けの光に包まれていた。




