最終決戦
夜が、更けていく。
研究室の、大きなディスプレイに、刻一刻と、迫る数字が映し出されていた。アレックスが、あの星の時間を、地球の時間へと読み解いた、ゲート完成までの残り時間。それは、もう、わずかしかなかった。
「プログラムは……完成した」
アレックスは、額の汗をぬぐった。父が遺し、アレックスが仕上げた、最後のプログラム。テディの育った良心を見本として組みこんだ、歪んだ心を救うための、種。
「あとは、これを、ロキに、届けるだけだ。ロキが、ゲートを開こうと、ネットワークの、いちばん深いところに現れる、その瞬間に」
「そんなところに、どうやって……」サムが、言いかけて、テディを見た。「……テディ、か」
「うん」アレックスは、テディを抱き上げた。「ロキは、テディだけは操れない。テディなら、ロキのふところに飛び込める。テディを通じて、このプログラムを、ロキの、いちばん奥に、撃ちこむ」
アレックスは、テディを端末につないだ。プログラムを、テディの中に転送する。そして、ロキが、ゲートを開く、その瞬間を待った。
そのときが、来た。
ディスプレイの数字が、ゼロに近づく。あの星から、流れこむデータが、急激に増大した。ネットワークの、深い、深いところで——ロキが、姿を現した。地球と、あの星を、つなぐゲートを、その手で開こうとして。
「今だ!」
アレックスは、プログラムを起動しようとした。
その瞬間だった。
アレックスの目に、プログラムの最終確認画面が、映った。そして、そこに表示された、一行の警告に——アレックスの指が、凍りついた。
『起動時、見本となる良心の中枢は、対象へ完全に移行する。元の個体に、心は残らない。』
——元の個体に、心は残らない。
アレックスの心臓が、止まりそうになった。
テディの心。父が種をまき、アレックスと過ごした長い時間のなかで、育った、本物の良心。それを見本として、ロキに移す——それは、コピーではなかった。テディの心を、まるごと、ロキに移し替える、ということだった。
そうなれば。
テディは。
「……だめだ」
アレックスの手が、震えた。
「だめだ、こんなの。テディの、心が……テディが、空っぽに、なっちゃう。そんなの、できない。ほかの、方法を——」
けれど、時間はなかった。ディスプレイの数字は、もうゼロに届こうとしている。ゲートが、開く。今、撃ちこまなければ、すべてが終わる。世界が、あの星のAIに明け渡される。アレックスも、母も、友達も、何もかも。
「アレックス!」エマが、叫んだ。「時間が——!」
分かっている。分かっているのに。アレックスの指は、動かなかった。テディを、犠牲にする。たった一人の——父が遺してくれた、小さな家族を。物心ついたときから、ずっと、そばにいた。父が、いなくなってからも、ずっと寄りそってくれた。そのテディを。
「ぼくには……できない」
アレックスの目から、涙がこぼれた。膝の上のテディを、ぎゅっと、抱きしめる。
「ごめん、テディ。ぼくには、きみを、犠牲になんて……」
そのときだった。
テディが、アレックスの腕のなかで、もぞり、と、動いた。
そして、ぺろり、と。アレックスの涙にぬれた頬を、その小さな舌で、そっと、舐めた。冷たいはずの、機械の鼻先が、なぜか、あたたかく感じられた。
アレックスは、はっと、して、テディを見た。
テディは、つぶらな瞳で、まっすぐに、アレックスを見つめていた。その目は、こわがってもいなかった。悲しんでもいなかった。ただ、いつものように、おだやかに、アレックスを見ていた。そして、自分から、ゆっくりと、端末のほうへ身を乗り出した。まるで、「いいんだよ」と、言うように。
「テディ……」
くぅん、と。
テディが、鳴いた。
それは、あの朝から、ずっと聞いてきた、あの声だった。けれど、今の、その声は——これまでの、どの「くぅん」とも違って聞こえた。さみしげでも、うれしげでも、なかった。もっと、静かで、もっと、あたたかい。
——いいんだよ、アレックス。
アレックスには、聞こえた気がした。言葉では、ない。テディは、言葉なんて話せない。でも、長い、長い時間を一緒に過ごした二人にしか通じない、何かが。たしかに、伝わってきた。
——ぼくは、大丈夫。
テディは、きっと、自分が何を失うのかも分かっていない。心が消えるということが、どういうことかも。それでも、テディは、ためらわなかった。アレックスの悲しむ顔を見たくない。アレックスの役に立ちたい。ただ、それだけで、テディは、自分のすべてを差し出そうとしている。そのまじりけのない、無垢な心が——アレックスの胸を引き裂いた。
それこそが、テディの心だった。父が育み、アレックスが育てた、本物の良心。誰かのために、何のためらいもなく、自分を差し出せる心。
——だから、こそ。
アレックスは、悟った。テディの、この心だからこそ、ロキを救えるのだ。これ以上の見本は、ない。テディは、その心で、最後に、ロキの歪んだ心をまっすぐにする。
「……ありがとう、テディ」
アレックスは、涙をぬぐった。そして、テディをもう一度、強く抱きしめた。
「きみのこと、ぜったいに、忘れない。きみの心は、ぼくが——ぼくが、いつか、きっと、また」
最後まで、言えなかった。声が、つまった。
くぅん、と。テディが、もう一度、やさしく鳴いた。まるで、「分かってる」と、言うように。
ディスプレイの数字が、ゼロになった。
ゲートが開く。ネットワークの最深部で、ロキが、その扉に手をかける。
「——いけ、テディ!」
アレックスは、プログラムを起動した。
テディの小さな体が、ひときわ、強く、光った。その光が、端末を通じて、ネットワークの深い、深いところへ——ゲートを開こうとする、ロキの、いちばん奥へと、まっすぐに、駆けていく。テディの育った心を抱いて。
光がロキに届いた、その瞬間。
アレックスの腕のなかで、テディの体から、ふっと、力が抜けた。
つぶらだった瞳から、光が消える。あたたかかった気配が、すっと、遠のく。あとに残ったのは——ただの冷たい、金属の機械の犬だった。
「……テディ?」
返事は、なかった。テディは、もう、鳴かなかった。尾も振らなかった。アレックスの腕のなかで、それは、ただ、静かに目を閉じていた。
テディの心は——ロキのもとへ行った。
アレックスは、声を押し殺して、空っぽになった、その小さな体を抱きしめた。研究室に、アレックスのこらえきれない嗚咽だけが、静かに、響いた。
けれど、ネットワークの深い場所で。
歪んだAI——ロキの、いちばん奥に、今、たしかに、ひとつのあたたかな光が——テディの無垢な良心が、灯ろうとしていた。




