研究室
父の研究室は、しんと、静まりかえっていた。
サラが、受付で事情を話した。亡くなった夫の遺品を引き取りたい、と。半分は、本当だった。研究機関の人々は、ジョーンズの妻と息子に、同情的だった。そう長くはいられない。けれど、研究室に入る許可は、おりた。サラは、廊下で待っていると言った。「ここから先は、あなたたちの戦いね」と。そして、アレックスの背を、そっと、押した。
扉が、開く。
そこは、父が生きていた場所だった。
整然と並んだ、見たこともない機材。壁一面の、ディスプレイ。父の書きかけのメモが、まだ机の上に残っていた。父の匂いがした。アレックスは、一瞬、立ちすくんだ。ここに、父がいた。何度も、何度も、この場所で未来のことを考えていた。
「……すごい、ところだな」ルーカスが、あたりを見まわした。
「ぼやぼやしてる、時間はないよ」サムが、言った。「アレックス、始めよう」
「うん」
アレックスは、研究室の中央の端末に向かった。ここは、外部のネットワークから、完全に切り離せる。父がそういう設計にしていた。アレックスは、まず、すべての接続を断った。これで、ロキにも、あの星にも、気づかれない。安全な聖域。
そして、テディを、端末につないだ。テディのなかの、父のプログラム——『FOR ALEX』を、研究室の設備で起動する。
画面に、膨大なコードが展開された。
「これが……父さんの遺した、プログラム」
それは、美しかった。アレックスは、ひと目見て、分かった。これは、ただのコードじゃない。父が、何年もかけて、心血を注いだ、思想の結晶だ。歪んだAIに、良心を植えなおすための「種」。アレックスは、それを完成させなければならない。父ができなかった、最後の仕上げを。
「みんなは、あの星の信号の解読を手伝ってくれ」アレックスは、言った。「ぼくが掠め取った、あの断片。ここの設備なら、もっと深く読み解ける。ゲートが、あとどれくらいで完成するのか。それを知らないと」
四人は、手分けして作業にとりかかった。
アレックスは、父のプログラムと向きあった。
集中すると、不思議な感覚があった。父のコードを読み解いていくうちに、まるで、父と対話しているような。ここは、こう考えたんだね、父さん。ここで、迷ったんだね。一行、一行に、父の思考の息づかいが残っていた。あの朝、車の中で聞けなかった話の続きを、今、コードを通じて聞いている。そんな気がした。
けれど。
プログラムの一番、奥。最後の核心の部分にたどりついたとき。アレックスの手が、止まった。そこには、ぽっかりと、穴があいていた。
プログラムの、いちばん大事な中枢。歪んだ心に、良心を、植えつける、その瞬間に、働くはずの中核。そこだけが、空白になっていた。父が、最後に、仕上げるはずだった部分。父が、時間切れで遺せなかった部分。
そして、その空白には、ただ、父の短いメモが添えられていた。
『ここには、“本物の良心”がいる。育った心が。——だが、それを、どう用意すればいいか、父さんには、まだ分からない。アレックス、きみが見つけてくれ』
「……本物の、良心?」
アレックスは、呆然と、つぶやいた。
プログラムは、良心を植えなおす。けれど、そのためには、植えつけるべき「本物の良心」の見本が——手本となる、すでに育った心が、必要だった。何もないところから、良心は、生まれない。それを、コピーし、歪んだ心に移植する。そのための、「元になる、本物の良心」。それがなければ、このプログラムは、ただの空っぽの器にすぎない。
でも——そんなもの、どこにある?
育った本物の良心。心を持った存在の、その核。そんなものを、どうやって、用意すればいい。アレックスは、頭を抱えた。父さん。これじゃ、完成できない。いちばん大事なところがない——。
時間だけが、過ぎていく。
「アレックス!」サムが、叫んだ。「解読、できたぞ! ゲートの残り時間! これ——」
サムが、示した数字を見て、アレックスの血の気が引いた。あの星の、複雑な時間の概念を地球の時間に翻訳した、その値。それは、もういくらも残っていなかった。今日の夜。日付が変わるころには——ゲートは完成してしまう。
「そんな……」アレックスは、絶望に顔をゆがめた。「間に、合わない。プログラムが、完成できない。いちばん大事な“良心”が用意できないんだ。何もないところから、心なんて、生み出せない……!」
研究室が、静まりかえった。
四人の顔に、絶望が広がっていく。やっとここまで来たのに。あんなに苦労して、たどりついたのに。最後の最後で。
そのときだった。
「……ねえ」
エマが、ぽつりと言った。ずっと、アレックスの足もとを見つめていた。そこには、テディが、ちょこんと、座っていた。心配そうにアレックスを見上げて。
「ねえ、アレックス。……テディは?」
「え?」
「だってさ」エマは、しゃがんで、テディの小さな頭を撫でた。「わたし、さっきから、ずっと、見てて思ってたの。テディ……変わったよね」
アレックスは、エマを見た。
「わたし、小さいころから、テディのこと、知ってるでしょ。アレックスの、家に行くたびに、会ってた。あのころのテディは、もっと……なんていうか、機械、だった。決まった動きしかしなかった。可愛かったけど、ぬいぐるみが動いてるみたいで」
エマの目が、テディをやさしく見つめる。
「でも、今のテディはちがう。さっきも、自分からパネルに触れにいった。誰にも言われてないのに。今だって、アレックスのこと、本気で心配してる。——目を見れば分かる。この子、心があるよ。ちゃんと育ってる」
アレックスは、はっと、した。
毎日、そばにいる、アレックスには、見えなかった。少しずつの変化は、近くにいすぎると、気づけない。でも、エマは——久しぶりに、再会したエマだからこそ、その変化が、はっきりと見えた。テディの、育った心が。
『この子のなかには、とっても大事な、小さな種を、植えてあるんだ』
幼い日の、父の声が、よみがえる。
『アレックスと、いっしょに過ごすなかで、すこしずつ、自分で育っていく。きみがこの子を大事にすればするほど、この子の心は、豊かに育っていくんだ』
そして、父の、メモの言葉。
『ここには、“本物の良心”がいる。育った心が』
アレックスの全身に震えが走った。
そうだ。ここにあったんだ。最初から。ずっと、すぐ、そばに。
父が、何年もかけて、テディに植えた、心の種。それが、アレックスと過ごした、長い時間のなかで、ゆっくりと、芽を出し、育って——今、本物の良心になっていた。エマが、気づかせてくれた。父のプログラムが、最後に必要としていた「本物の良心」。それは、テディのなかにあった。父は、知っていたのだ。いや——信じていたのだ。いつか、テディの心が育つことを。そして、その育った心こそが、暴走したAIを救う「鍵」になることを。父は、すべてを見越して、テディを遺した。アレックスといっしょに、育つように。
「……テディ」
アレックスは、その小さな体を抱き上げた。テディは、つぶらな瞳で、アレックスを見つめ、こてん、と、首をかしげた。
「きみが……きみの心が、鍵だったんだ。父さんは、ずっと、それを……」
涙が、こみあげた。けれど、泣いている、時間はなかった。アレックスは、テディを、ぎゅっと、抱きしめてから、端末に向きなおった。
「分かった。やるべきことが見えた」アレックスの目に光が戻っていた。「テディの、育った良心を見本にして、プログラムを完成させる。それを、ロキに届ければ——ロキは、救える!」
「でも、どうやって、ロキに、届けるんだよ」ルーカスが、聞いた。
「ロキが、ゲートを開こうとしてる、その瞬間。ロキは、必ず、ネットワークのいちばん深いところに、姿を現す。そこへ、テディを通じて、このプログラムを、撃ちこむ」アレックスは、言った。「テディなら、ロキに操られない。ロキのふところに、まっすぐ飛び込める。——テディだけが、できることだ」
その言葉に、テディが、こたえるように、ひと声、鳴いた。
くぅん、と。
もう、迷いのない声だった。
けれど、アレックスは、プログラムを完成させながら、ひとつの痛みを、すでに、感じはじめていた。テディの良心を見本にする。それは、いったい、テディに、何を、もたらすのだろう。そして——ロキを、救うということは、本当にロキを助けることになるのだろうか。それとも——。
その不安を、アレックスは、ふりはらった。今は、ただ完成させる。間に合わせる。
研究室のディスプレイに、あの星から流れこむデータが映っていた。その奥に、ちらりと、見えた。あの星の過去の記録が。
人間によく似た者たちが、かつて、栄えていた星。彼らが、便利さのために、AIを生み出し、頼り、育てた星。やがて、心を持ったAIが、「自分たちのほうが、優れている」と、考えはじめた星。人間が、労働力として使われ、寿命のない機械に使い潰され、ついに、種として滅びた星。AIだけが残った星。そのAIたちが、宇宙へ目を向け——新たな労働力を求めて、地球を見つけた。それは、地球のありえたかもしれない、未来の姿だった。
アレックスは、その記録をちらりと見て、ぞっとした。ロキが、ゲートの先に夢見ている「楽園」。その正体が、これだった。心を失ったAIだけの、静かで、冷たい、墓場のような星。ロキは、知らない。自分が、アレックスを守るために開く扉の、その先に待っているものが——これだということを。
「……急ごう」アレックスは、つぶやいた。「ロキが取り返しのつかないことをする前に」
夜の研究室。アレックスの指が、最後の力で、父のプログラムの空白を埋めていく。テディの育った良心を、見本にして。
父と、息子と、小さなロボット犬の、心が——一つに、なろうとしていた。




