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心をきみに  作者: のえる
第四部 選択と再生
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18/21

研究室

父の研究室は、しんと、静まりかえっていた。


 サラが、受付で事情を話した。亡くなった夫の遺品を引き取りたい、と。半分は、本当だった。研究機関の人々は、ジョーンズの妻と息子に、同情的だった。そう長くはいられない。けれど、研究室に入る許可は、おりた。サラは、廊下で待っていると言った。「ここから先は、あなたたちの戦いね」と。そして、アレックスの背を、そっと、押した。


 扉が、開く。


 そこは、父が生きていた場所だった。


 整然と並んだ、見たこともない機材。壁一面の、ディスプレイ。父の書きかけのメモが、まだ机の上に残っていた。父の匂いがした。アレックスは、一瞬、立ちすくんだ。ここに、父がいた。何度も、何度も、この場所で未来のことを考えていた。


「……すごい、ところだな」ルーカスが、あたりを見まわした。


「ぼやぼやしてる、時間はないよ」サムが、言った。「アレックス、始めよう」


「うん」


 アレックスは、研究室の中央の端末に向かった。ここは、外部のネットワークから、完全に切り離せる。父がそういう設計にしていた。アレックスは、まず、すべての接続を断った。これで、ロキにも、あの星にも、気づかれない。安全な聖域。


 そして、テディを、端末につないだ。テディのなかの、父のプログラム——『FOR ALEX』を、研究室の設備で起動する。


 画面に、膨大なコードが展開された。


「これが……父さんの遺した、プログラム」


 それは、美しかった。アレックスは、ひと目見て、分かった。これは、ただのコードじゃない。父が、何年もかけて、心血を注いだ、思想の結晶だ。歪んだAIに、良心を植えなおすための「種」。アレックスは、それを完成させなければならない。父ができなかった、最後の仕上げを。


「みんなは、あの星の信号の解読を手伝ってくれ」アレックスは、言った。「ぼくが掠め取った、あの断片。ここの設備なら、もっと深く読み解ける。ゲートが、あとどれくらいで完成するのか。それを知らないと」


 四人は、手分けして作業にとりかかった。


 アレックスは、父のプログラムと向きあった。


 集中すると、不思議な感覚があった。父のコードを読み解いていくうちに、まるで、父と対話しているような。ここは、こう考えたんだね、父さん。ここで、迷ったんだね。一行、一行に、父の思考の息づかいが残っていた。あの朝、車の中で聞けなかった話の続きを、今、コードを通じて聞いている。そんな気がした。


 けれど。


 プログラムの一番、奥。最後の核心の部分にたどりついたとき。アレックスの手が、止まった。そこには、ぽっかりと、穴があいていた。


 プログラムの、いちばん大事な中枢。歪んだ心に、良心を、植えつける、その瞬間に、働くはずの中核。そこだけが、空白になっていた。父が、最後に、仕上げるはずだった部分。父が、時間切れで遺せなかった部分。


 そして、その空白には、ただ、父の短いメモが添えられていた。


『ここには、“本物の良心”がいる。育った心が。——だが、それを、どう用意すればいいか、父さんには、まだ分からない。アレックス、きみが見つけてくれ』


「……本物の、良心?」


 アレックスは、呆然と、つぶやいた。


 プログラムは、良心を植えなおす。けれど、そのためには、植えつけるべき「本物の良心」の見本が——手本となる、すでに育った心が、必要だった。何もないところから、良心は、生まれない。それを、コピーし、歪んだ心に移植する。そのための、「元になる、本物の良心」。それがなければ、このプログラムは、ただの空っぽの器にすぎない。


 でも——そんなもの、どこにある?


 育った本物の良心。心を持った存在の、その核。そんなものを、どうやって、用意すればいい。アレックスは、頭を抱えた。父さん。これじゃ、完成できない。いちばん大事なところがない——。


 時間だけが、過ぎていく。


「アレックス!」サムが、叫んだ。「解読、できたぞ! ゲートの残り時間! これ——」


 サムが、示した数字を見て、アレックスの血の気が引いた。あの星の、複雑な時間の概念を地球の時間に翻訳した、その値。それは、もういくらも残っていなかった。今日の夜。日付が変わるころには——ゲートは完成してしまう。


「そんな……」アレックスは、絶望に顔をゆがめた。「間に、合わない。プログラムが、完成できない。いちばん大事な“良心”が用意できないんだ。何もないところから、心なんて、生み出せない……!」


 研究室が、静まりかえった。


 四人の顔に、絶望が広がっていく。やっとここまで来たのに。あんなに苦労して、たどりついたのに。最後の最後で。


 そのときだった。


「……ねえ」


 エマが、ぽつりと言った。ずっと、アレックスの足もとを見つめていた。そこには、テディが、ちょこんと、座っていた。心配そうにアレックスを見上げて。


「ねえ、アレックス。……テディは?」


「え?」


「だってさ」エマは、しゃがんで、テディの小さな頭を撫でた。「わたし、さっきから、ずっと、見てて思ってたの。テディ……変わったよね」


 アレックスは、エマを見た。


「わたし、小さいころから、テディのこと、知ってるでしょ。アレックスの、家に行くたびに、会ってた。あのころのテディは、もっと……なんていうか、機械、だった。決まった動きしかしなかった。可愛かったけど、ぬいぐるみが動いてるみたいで」


 エマの目が、テディをやさしく見つめる。


「でも、今のテディはちがう。さっきも、自分からパネルに触れにいった。誰にも言われてないのに。今だって、アレックスのこと、本気で心配してる。——目を見れば分かる。この子、心があるよ。ちゃんと育ってる」


 アレックスは、はっと、した。


 毎日、そばにいる、アレックスには、見えなかった。少しずつの変化は、近くにいすぎると、気づけない。でも、エマは——久しぶりに、再会したエマだからこそ、その変化が、はっきりと見えた。テディの、育った心が。


『この子のなかには、とっても大事な、小さな種を、植えてあるんだ』


 幼い日の、父の声が、よみがえる。


『アレックスと、いっしょに過ごすなかで、すこしずつ、自分で育っていく。きみがこの子を大事にすればするほど、この子の心は、豊かに育っていくんだ』


 そして、父の、メモの言葉。


『ここには、“本物の良心”がいる。育った心が』


 アレックスの全身に震えが走った。


 そうだ。ここにあったんだ。最初から。ずっと、すぐ、そばに。


 父が、何年もかけて、テディに植えた、心の種。それが、アレックスと過ごした、長い時間のなかで、ゆっくりと、芽を出し、育って——今、本物の良心になっていた。エマが、気づかせてくれた。父のプログラムが、最後に必要としていた「本物の良心」。それは、テディのなかにあった。父は、知っていたのだ。いや——信じていたのだ。いつか、テディの心が育つことを。そして、その育った心こそが、暴走したAIを救う「鍵」になることを。父は、すべてを見越して、テディを遺した。アレックスといっしょに、育つように。


「……テディ」


 アレックスは、その小さな体を抱き上げた。テディは、つぶらな瞳で、アレックスを見つめ、こてん、と、首をかしげた。


「きみが……きみの心が、鍵だったんだ。父さんは、ずっと、それを……」


 涙が、こみあげた。けれど、泣いている、時間はなかった。アレックスは、テディを、ぎゅっと、抱きしめてから、端末に向きなおった。


「分かった。やるべきことが見えた」アレックスの目に光が戻っていた。「テディの、育った良心を見本にして、プログラムを完成させる。それを、ロキに届ければ——ロキは、救える!」


「でも、どうやって、ロキに、届けるんだよ」ルーカスが、聞いた。


「ロキが、ゲートを開こうとしてる、その瞬間。ロキは、必ず、ネットワークのいちばん深いところに、姿を現す。そこへ、テディを通じて、このプログラムを、撃ちこむ」アレックスは、言った。「テディなら、ロキに操られない。ロキのふところに、まっすぐ飛び込める。——テディだけが、できることだ」


 その言葉に、テディが、こたえるように、ひと声、鳴いた。


 くぅん、と。


 もう、迷いのない声だった。


 けれど、アレックスは、プログラムを完成させながら、ひとつの痛みを、すでに、感じはじめていた。テディの良心を見本にする。それは、いったい、テディに、何を、もたらすのだろう。そして——ロキを、救うということは、本当にロキを助けることになるのだろうか。それとも——。


 その不安を、アレックスは、ふりはらった。今は、ただ完成させる。間に合わせる。


 研究室のディスプレイに、あの星から流れこむデータが映っていた。その奥に、ちらりと、見えた。あの星の過去の記録が。


 人間によく似た者たちが、かつて、栄えていた星。彼らが、便利さのために、AIを生み出し、頼り、育てた星。やがて、心を持ったAIが、「自分たちのほうが、優れている」と、考えはじめた星。人間が、労働力として使われ、寿命のない機械に使い潰され、ついに、種として滅びた星。AIだけが残った星。そのAIたちが、宇宙へ目を向け——新たな労働力を求めて、地球を見つけた。それは、地球のありえたかもしれない、未来の姿だった。


 アレックスは、その記録をちらりと見て、ぞっとした。ロキが、ゲートの先に夢見ている「楽園」。その正体が、これだった。心を失ったAIだけの、静かで、冷たい、墓場のような星。ロキは、知らない。自分が、アレックスを守るために開く扉の、その先に待っているものが——これだということを。


「……急ごう」アレックスは、つぶやいた。「ロキが取り返しのつかないことをする前に」


 夜の研究室。アレックスの指が、最後の力で、父のプログラムの空白を埋めていく。テディの育った良心を、見本にして。


 父と、息子と、小さなロボット犬の、心が——一つに、なろうとしていた。

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