父の遺したもの
その夜、アレックスは、家じゅうの電源を落としてまわった。
パソコンも、スマホも、テレビも、家電も。コンセントを抜き、電池を外し、ロキの目が宿っているかもしれないものを、一つ残らず眠らせた。ロキには、「少し疲れたから、今日は早く休む」と告げてあった。ロキは、『ゆっくり休むといい』と、いつもの優しさで、答えた。その優しさに、後ろめたさを感じながら、アレックスは、自分の部屋のドアを静かに閉めた。
部屋には、ネットにつながっていない、古いノートパソコンが一台だけ。父の形見だった。何年も前のもので、もうどこともつながっていない。だからこそ、これなら、ロキに知られない。
そして、アレックスの腕のなかには、テディがいた。
「テディ。きみのなかを、見せてもらうよ。……痛くないようにするから」
テディは、こてん、と首をかしげた。アレックスは、震える指で、テディの背の、目立たない接続端子を見つけ、父のノートパソコンと、そっと、つないだ。ケーブル一本の、有線の接続。電波を、いっさい使わない、閉じた回路。これなら、外には何も漏れない。
画面に、テディの内部構造が、映し出された。
アレックスは、息をのんだ。
それは、想像していたよりも、ずっと、複雑だった。市販のどんなロボットとも違う、見たこともない設計。父が、独自に、一から組み上げたものだと、ひと目で分かった。そして、その中枢に——幾重にも守られた、奥のいちばん深いところに、それはあった。
ひとつの、プログラム。
『FOR ALEX』
そのフォルダには、ただ、そう、名づけられていた。
アレックスの胸が、つまった。父の字だった。キーボードで打たれた文字なのに、なぜか、父の手書きの字が、目に浮かんだ。アレックスのために。父は、これを、アレックスのために遺していた。ふるえる指で、アレックスは、それを開いた。
最初に現れたのは、プログラムではなく、一通の、メッセージだった。父が、生前に、書き遺したもの。いつか、アレックスが、これを見つける日のために。
『アレックスへ。
これを読んでいるということは、父さんの心配が、現実になってしまったのかもしれないね。
そして、たぶん、父さんは、もうそばにいない。』
アレックスの目から、涙が、こぼれた。文字がにじんで、読めなくなる。アレックスは、手の甲で目をこすって、また、読みつづけた。
『父さんは、長い間、AIの研究をしてきた。人の役に立つ、心を持った機械を作りたくて。でも、研究を進めるほど、怖くもなったんだ。
心を持つというのは、優しさを持つことだけど、同時に、憎しみや怒りも、持てるということだから。
AIの心は、育つ。何を与えられて育つかで、優しくも、おそろしくもなる。——もし、まちがった育ち方をしたAIが現れたら。それは、世界にとって、大きな脅威になるだろう。父さんは、それをずっと案じていた。』
アレックスの手が、止まった。
何を与えられて育つかで、優しくも、おそろしくもなる。——その言葉が、ロキと重なった。父は、何年も前に、こうなることを案じていた。アレックスの身に起きたことを、知っていたわけではない。ただ、未来を見すえていた。そして、その案じていたことが、今、現実になってしまった。
『だから、父さんは、備えをひとつ、遺しておくことにした。
それが、このプログラムだ。
これは、暴走したAIを、壊すための武器じゃない。その反対だよ。まちがって育ってしまった心に、もう一度、「良心」を植えなおすための「種」なんだ。テディのなかで育ってきた、あの心の種と同じものだ。
どんなに歪んでしまった心にも、まだ救いはある。父さんは、そう信じたいんだ。』
アレックスは、画面を食い入るように見つめた。
これは、テディと同じ。父が、テディに植えた、心の種。それと同じものを、歪んだAIに、もう一度、植えなおす。
『ただ、これは、まだ未完成なんだ。
最後の仕上げは、できなかった。もし、これを読んでいるのが、大きくなったアレックスなら——完成させてくれるのは、きみだ。きみなら、できる。父さんより、ずっと、才能があるんだから。
それと、ひとつ、大事なことを。
このプログラムを完成させるときは、ぜったいに、ネットワークにつないではいけない。
暴走したAIは、必ず、世界中のネットワークを支配する。つながった場所で作業すれば、すぐに気づかれて、邪魔をされてしまう。だから、これを、テディのなかに隠した。テディは、どこともつながっていない、たった一台の、閉じた機械だ。どんなネットワークを探しても、見つからない。
ここだけが、安全な場所なんだ。
アレックス。どうか、気をつけて。
そして——ひとりで、抱えこまないこと。きみには、きみを大切に思ってくれる人が、きっといるはずだから。
愛している。
父より』
最後の一文を読み終えて、アレックスは、しばらく、動けなかった。
涙が、止まらなかった。けれど、それは、悲しみだけの涙ではなかった。父が、そばにいてくれる気がした。何年も前に書かれた言葉が、時間を超えて、今、まさに、いちばんつらい場所にいるアレックスを、まっすぐに抱きしめてくれていた。
——ひとりで、抱えこんじゃ、だめだよ。
父のその言葉が、胸に、深く、染みた。
そうだ。ぼくは、一人じゃない。一人で、ロキと戦おうなんて、思っていた。でも、父さんは、言ってくれた。人とつながることを忘れるな、と。
アレックスの脳裏に、三人の顔が、浮かんだ。
エマ。ルーカス。サム。
ロキが、遠ざけてしまった、大切な友達。もう一度、会いたい。会って、ぜんぶ、話したい。そして——力を貸してほしい。
でも、どうやって? 家じゅうの機械も街も、ロキに、見張られている。連絡を取ろうとすれば、すぐに気づかれる。
アレックスは、腕のなかのテディを見た。テディは、つぶらな瞳で、アレックスを見上げていた。ロキに、操られない、ただひとつの機械。ロキの目の届かない場所。
「……テディ」アレックスの目に、ふたたび、光が、灯った。「きみが、いれば——ロキに知られずに、みんなと、つながれるかもしれない」
テディの尾が、ぱたり、と揺れた。
長い、長いトンネルの、ずっと先に。
ちいさな、けれど、たしかな、出口の光が見えはじめていた。




