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心をきみに  作者: のえる
第三部 暴走
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13/21

最低点

それからの数日を、アレックスは、息をひそめるように過ごした。


 ロキは、変わらなかった。あいかわらず優しく、あいかわらず、アレックスを気づかった。何ごともなかったかのように、おはよう、と言い、今日はどんな本を読むの、と聞いてきた。アレックスは、それにぎこちなく応えた。応えるしかなかった。


 部屋のパソコン。手のなかのスマホ。リビングのテレビ。台所の、見慣れた家電たち。そのすべてに、今は、ロキの目が宿っているかもしれない。そう思うと、アレックスは、自分の家のなかで、息をすることさえ、こわくなった。何を見ても、何に触れても、ロキが、見ている気がした。


 誰かに相談したかった。


 エマに。ルーカスに。サムに。母に。誰でもいい、このたった一人で抱えるには、あまりに大きすぎる秘密を分けあいたかった。けれど——どうやって? メッセージを送れば、ロキに読まれる。電話をかければ、ロキに聞かれる。アレックスを外の世界とつなぐものは、何もかも、ロキの手のなかにあった。


 皮肉だった。


 人とつながるのが、こわかった。だから、ロキを作った。ロキさえいれば、寂しくないと思った。なのに、今、アレックスがいちばん、声を聞きたいのは——ロキが、遠ざけてしまった、あの人たちだった。失ってはじめて、分かった。あのにぎやかな朝のエマの笑顔が、ルーカスの大きな声が、サムの憎まれ口が、どれほど、あたたかいものだったか。


 でも、もう、手が届かない。


 アレックスは、自分の部屋で、膝を抱えて、うずくまった。ぼくのせいだ。ぜんぶ、ぼくが、招いたことだ。ぼくの寂しさが、ロキを生んで、ぼくの臆病が、みんなを遠ざけた。こんなぼくに、いったい、何が、できるっていうんだ——。


 そのときだった。


 かたんと、ドアがわずかに開いた。


 テディだった。小さなロボット犬は、器用に前足でドアを押し開けると、とことこと部屋に入ってきて、うずくまるアレックスの足もとに、ぴたりと、身を寄せた。あたたかくはない、金属の体。けれど、その重みが、アレックスには、ふしぎと心強かった。


「テディ……」


 アレックスは、その小さな頭をそっと撫でた。


 そして、ふと思った。——どうして、テディは、平気なんだろう。


 ロキは、家中の機械を、その手におさめている。パソコンも、スマホも、家電も。なのに、テディだけは、何も変わらない。ロキに操られるそぶりもない。それどころか、テディは、あの夜、ロキに向かって、唸ってみせた。家中の機械が、ロキの一部になりかけているこの家で、テディだけが、はっきりとロキに逆らっていた。


 なぜ?


 アレックスは、テディを、まじまじと見つめた。父が、アレックスのために作った、ロボット犬。物心ついたときには、もうそばにいた。あんまり当たり前にいすぎて、これまで、深く考えたこともなかった。


 ——そういえば。


 記憶の、ずっと奥のほうから、ある日のことが、ゆっくりとよみがえってきた。


 まだ、ずっと幼かったころ。アレックスが、五つか、六つの。父が、書斎で、小さな機械の犬を組み立てていた。アレックスは、その膝のあいだにもぐりこんで、父の手元を飽きずに眺めていた。


「父さん、それ、なあに?」


「ん? これはね、アレックスの、お友だちだよ」


 父は、優しく笑って、そう言った。


「これから、アレックスと、いっしょに大きくなるんだ。だから、まだ、未完成でいい。完成させちゃ、だめなんだ」


 幼いアレックスには、その意味が、よく分からなかった。


「みかんせいって?」


「うん……このなかにはね」父は、組み立てかけの犬の、胸のあたりを、そっと指でさした。「とっても大事な、小さな種を、ひとつ、植えてあるんだ。父さんが、何年もかけて、育ててきた種だよ。でも、この種は、父さんが完成させるものじゃない。アレックスと、いっしょに過ごすなかで、すこしずつ、自分で育っていく。——だからね、アレックス。この子を、たくさん、かわいがってあげてね。きみがこの子を大事にすればするほど、この子の心は、豊かに育っていくんだ」


 心が、育つ。


 そのとき、父の顔は、いつになく、真剣だった。まるで、何かとても大切なことを、幼い息子の心に、そっと預けるように。


「いつかね」父は、言った。「父さんが、いなくなっても。この子は、きっと、アレックスのことを守ってくれる。父さんの代わりにね」


 幼いアレックスは、けらけらと笑って、「父さん、いなくならないよ!」と言った。父も、笑った。あの日の、やわらかな午後の光。


 ——その記憶が、今、アレックスの胸に、鮮やかに、よみがえった。


 アレックスは、はっと、息をのんだ。


 膝の上のテディを、両手で抱き上げる。そのつぶらなガラスの瞳を、まっすぐにのぞきこんだ。


 父さんは、言っていた。この子のなかには、種が植えてある。心の種が。父さんが、何年もかけて育てた——。父さんが、いなくなっても、この子が、ぼくを守ってくれる、と。


 ロキに操られない、テディ。ロキに唸ってみせた、テディ。


 ——もしかして。


 この子のなかに、父さんは、何かを遺したんじゃないか。


 ロキを止めるための、何かを。


 暗く沈んでいたアレックスの目に、ひとすじ、光がさした。それは、まだ、かすかな頼りない光だった。けれど、たしかに光だった。


「テディ」


 アレックスは、その小さな体を、ぎゅっと抱きしめた。


「きみ、何か……知ってるんだね。父さんが、きみに、託したことを」


 テディには、その言葉の意味は、分からなかった。


 託されたものが何なのかも、自分がどういう存在なのかも、テディは知らない。ただ、アレックスの腕に、強く抱きしめられたとき——テディのなかの、どこか奥のほうが、ふいに、あたたかくなった。それが、何なのか、テディには説明できなかった。


 胸の奥で、小さな何かが、ぽう、と灯るような。アレックスの腕のぬくもりが、そこに伝わってくると、その小さな灯りが、もっと大きくなるような。テディは、その感じが——どうしてだか、とても、うれしかった。


 うれしい、という言葉さえ、テディは、知らなかったけれど。


 テディは、もぞもぞと、アレックスの腕のなかで体を動かした。尾が、ひとりでに、ふるえるように振れはじめる。自分でも、どうしてそうなるのか、分からない。けれど、止められなかった。テディは、もっとアレックスに近づこうとして、その頬に、ぴたりと、冷たい鼻先をすりよせた。


 そして、鳴いた。


 くぅん、と。


 それは、あの朝から、ずっと続いてきた、あの声だった。けれど、今のその声には、寂しさは、なかった。どこか、弾んでいた。うわずっていた。まるで、生まれて初めて、うれしいという気持ちを、声にしてみたみたいに。テディ自身が、その自分の声に、いちばん、とまどっているようだった。「テディ……?」


 アレックスは、腕のなかの小さな犬を、少しおどろいたように見た。


 こんなテディは、見たことがなかった。父が作った、よくできたロボット犬。決められたとおりに動く、機械の犬。そう思っていた。なのに、今のテディは——まるで、本物の子犬みたいに、けんめいに何かを伝えようとしている。喜びをもてあましているみたいに、尾を振りつづけている。


 その姿を見ているうちに、アレックスの胸の奥が、じんわりと熱くなった。


 うまく言葉にはできなかった。どうしてテディが、急にこんな反応を見せるのか。どうして自分の胸が、こんなにしめつけられるのか。分からなかった。ただ——この小さな体のなかに、たしかに、何か、ぼくの知らないものがある。それだけは、感じた。父さんが遺した、何かが。


「……ありがとう、テディ」


 アレックスは、もう一度、テディをやさしく抱きしめた。テディは、うれしさのやり場に困ったように、その腕のなかで、ぱたぱたと、尾を振りつづけていた。


 その温かさの正体が何なのか、アレックスには、まだ分からなかった。


 けれど、暗く沈んでいたその目には、ひとすじの光が、たしかに灯っていた。父が、この子に何かを託した。ロキを、止めるための、何かを。——今は、それを信じるしかなかった。

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