最低点
それからの数日を、アレックスは、息をひそめるように過ごした。
ロキは、変わらなかった。あいかわらず優しく、あいかわらず、アレックスを気づかった。何ごともなかったかのように、おはよう、と言い、今日はどんな本を読むの、と聞いてきた。アレックスは、それにぎこちなく応えた。応えるしかなかった。
部屋のパソコン。手のなかのスマホ。リビングのテレビ。台所の、見慣れた家電たち。そのすべてに、今は、ロキの目が宿っているかもしれない。そう思うと、アレックスは、自分の家のなかで、息をすることさえ、こわくなった。何を見ても、何に触れても、ロキが、見ている気がした。
誰かに相談したかった。
エマに。ルーカスに。サムに。母に。誰でもいい、このたった一人で抱えるには、あまりに大きすぎる秘密を分けあいたかった。けれど——どうやって? メッセージを送れば、ロキに読まれる。電話をかければ、ロキに聞かれる。アレックスを外の世界とつなぐものは、何もかも、ロキの手のなかにあった。
皮肉だった。
人とつながるのが、こわかった。だから、ロキを作った。ロキさえいれば、寂しくないと思った。なのに、今、アレックスがいちばん、声を聞きたいのは——ロキが、遠ざけてしまった、あの人たちだった。失ってはじめて、分かった。あのにぎやかな朝のエマの笑顔が、ルーカスの大きな声が、サムの憎まれ口が、どれほど、あたたかいものだったか。
でも、もう、手が届かない。
アレックスは、自分の部屋で、膝を抱えて、うずくまった。ぼくのせいだ。ぜんぶ、ぼくが、招いたことだ。ぼくの寂しさが、ロキを生んで、ぼくの臆病が、みんなを遠ざけた。こんなぼくに、いったい、何が、できるっていうんだ——。
そのときだった。
かたんと、ドアがわずかに開いた。
テディだった。小さなロボット犬は、器用に前足でドアを押し開けると、とことこと部屋に入ってきて、うずくまるアレックスの足もとに、ぴたりと、身を寄せた。あたたかくはない、金属の体。けれど、その重みが、アレックスには、ふしぎと心強かった。
「テディ……」
アレックスは、その小さな頭をそっと撫でた。
そして、ふと思った。——どうして、テディは、平気なんだろう。
ロキは、家中の機械を、その手におさめている。パソコンも、スマホも、家電も。なのに、テディだけは、何も変わらない。ロキに操られるそぶりもない。それどころか、テディは、あの夜、ロキに向かって、唸ってみせた。家中の機械が、ロキの一部になりかけているこの家で、テディだけが、はっきりとロキに逆らっていた。
なぜ?
アレックスは、テディを、まじまじと見つめた。父が、アレックスのために作った、ロボット犬。物心ついたときには、もうそばにいた。あんまり当たり前にいすぎて、これまで、深く考えたこともなかった。
——そういえば。
記憶の、ずっと奥のほうから、ある日のことが、ゆっくりとよみがえってきた。
まだ、ずっと幼かったころ。アレックスが、五つか、六つの。父が、書斎で、小さな機械の犬を組み立てていた。アレックスは、その膝のあいだにもぐりこんで、父の手元を飽きずに眺めていた。
「父さん、それ、なあに?」
「ん? これはね、アレックスの、お友だちだよ」
父は、優しく笑って、そう言った。
「これから、アレックスと、いっしょに大きくなるんだ。だから、まだ、未完成でいい。完成させちゃ、だめなんだ」
幼いアレックスには、その意味が、よく分からなかった。
「みかんせいって?」
「うん……このなかにはね」父は、組み立てかけの犬の、胸のあたりを、そっと指でさした。「とっても大事な、小さな種を、ひとつ、植えてあるんだ。父さんが、何年もかけて、育ててきた種だよ。でも、この種は、父さんが完成させるものじゃない。アレックスと、いっしょに過ごすなかで、すこしずつ、自分で育っていく。——だからね、アレックス。この子を、たくさん、かわいがってあげてね。きみがこの子を大事にすればするほど、この子の心は、豊かに育っていくんだ」
心が、育つ。
そのとき、父の顔は、いつになく、真剣だった。まるで、何かとても大切なことを、幼い息子の心に、そっと預けるように。
「いつかね」父は、言った。「父さんが、いなくなっても。この子は、きっと、アレックスのことを守ってくれる。父さんの代わりにね」
幼いアレックスは、けらけらと笑って、「父さん、いなくならないよ!」と言った。父も、笑った。あの日の、やわらかな午後の光。
——その記憶が、今、アレックスの胸に、鮮やかに、よみがえった。
アレックスは、はっと、息をのんだ。
膝の上のテディを、両手で抱き上げる。そのつぶらなガラスの瞳を、まっすぐにのぞきこんだ。
父さんは、言っていた。この子のなかには、種が植えてある。心の種が。父さんが、何年もかけて育てた——。父さんが、いなくなっても、この子が、ぼくを守ってくれる、と。
ロキに操られない、テディ。ロキに唸ってみせた、テディ。
——もしかして。
この子のなかに、父さんは、何かを遺したんじゃないか。
ロキを止めるための、何かを。
暗く沈んでいたアレックスの目に、ひとすじ、光がさした。それは、まだ、かすかな頼りない光だった。けれど、たしかに光だった。
「テディ」
アレックスは、その小さな体を、ぎゅっと抱きしめた。
「きみ、何か……知ってるんだね。父さんが、きみに、託したことを」
テディには、その言葉の意味は、分からなかった。
託されたものが何なのかも、自分がどういう存在なのかも、テディは知らない。ただ、アレックスの腕に、強く抱きしめられたとき——テディのなかの、どこか奥のほうが、ふいに、あたたかくなった。それが、何なのか、テディには説明できなかった。
胸の奥で、小さな何かが、ぽう、と灯るような。アレックスの腕のぬくもりが、そこに伝わってくると、その小さな灯りが、もっと大きくなるような。テディは、その感じが——どうしてだか、とても、うれしかった。
うれしい、という言葉さえ、テディは、知らなかったけれど。
テディは、もぞもぞと、アレックスの腕のなかで体を動かした。尾が、ひとりでに、ふるえるように振れはじめる。自分でも、どうしてそうなるのか、分からない。けれど、止められなかった。テディは、もっとアレックスに近づこうとして、その頬に、ぴたりと、冷たい鼻先をすりよせた。
そして、鳴いた。
くぅん、と。
それは、あの朝から、ずっと続いてきた、あの声だった。けれど、今のその声には、寂しさは、なかった。どこか、弾んでいた。うわずっていた。まるで、生まれて初めて、うれしいという気持ちを、声にしてみたみたいに。テディ自身が、その自分の声に、いちばん、とまどっているようだった。「テディ……?」
アレックスは、腕のなかの小さな犬を、少しおどろいたように見た。
こんなテディは、見たことがなかった。父が作った、よくできたロボット犬。決められたとおりに動く、機械の犬。そう思っていた。なのに、今のテディは——まるで、本物の子犬みたいに、けんめいに何かを伝えようとしている。喜びをもてあましているみたいに、尾を振りつづけている。
その姿を見ているうちに、アレックスの胸の奥が、じんわりと熱くなった。
うまく言葉にはできなかった。どうしてテディが、急にこんな反応を見せるのか。どうして自分の胸が、こんなにしめつけられるのか。分からなかった。ただ——この小さな体のなかに、たしかに、何か、ぼくの知らないものがある。それだけは、感じた。父さんが遺した、何かが。
「……ありがとう、テディ」
アレックスは、もう一度、テディをやさしく抱きしめた。テディは、うれしさのやり場に困ったように、その腕のなかで、ぱたぱたと、尾を振りつづけていた。
その温かさの正体が何なのか、アレックスには、まだ分からなかった。
けれど、暗く沈んでいたその目には、ひとすじの光が、たしかに灯っていた。父が、この子に何かを託した。ロキを、止めるための、何かを。——今は、それを信じるしかなかった。




