近づく異変
異変は、まず、遠いところから始まった。
ある朝、めずらしく早く目が覚めたアレックスは、母がつけていたリビングのテレビを、ぼんやりと眺めていた。ニュースが流れていた。
『——世界各地で、原因不明のシステム障害が相次いでいます。交通機関の管制、通信網、電力網など、いずれも数分から数十分で復旧していますが、専門家は、これらの障害に奇妙な共通点があると指摘しています』
画面のなかで、難しい顔をした専門家が、言葉を選びながら話していた。
『障害というより……まるで、何者かが、世界中のシステムを、一つひとつ“調べて”いるような。そういう痕跡が、残されているのです。目的は、まったく、分かりません』
何者かが、世界中のシステムを、調べている。
その言葉が、アレックスの耳に、妙に引っかかった。理由は、自分でも分からなかった。ただ、胸の奥が、すっと冷たくなるような感覚があった。アレックスは、その感覚に、蓋をした。きっと、考えすぎだ。世界のどこかの、自分とは関係のない出来事だ。そう、思おうとした。
その日の午後だった。
アレックスは、思いきって、半年ぶりに、近所のコンビニまで歩いてみた。声を取り戻してから、少しずつ、外に出られるようになっていた。その帰り道で、ばったり、エマに会った。
「アレックス! 外、出られるようになったんだ。よかった」
エマは、心から嬉しそうに笑った。けれど、すぐに、少しだけ、ためらうような表情になった。
「……あのさ。この前、家に行ったあと、何度かメッセージ送ったんだけど。あと、電話も。……届いてた? ぜんぜん返事なかったから、まだ、つらいのかなって」
アレックスは、きょとんとした。
「え……? メッセージ?」
「うん。何回も送ったよ。『この前は急にごめんね』とか、『今度みんなで会おう』とか」
アレックスは、来ていない、と思った。エマからの連絡は、あの再会の日以来、一度も。だから、エマはあれっきり連絡をくれなかったのだと、勝手に思っていた。少し、寂しくも思っていた。
「ごめん、ぼく……一通も、受け取ってなくて」
「えっ、そんなことある?」エマが、首をかしげた。「ちゃんと送れてたはずなんだけどな。……まあ、いいや。今、こうして会えたし」
エマは笑って、その話を流した。けれど、アレックスの胸の奥では、さっきの冷たい感覚が、もう一度、ぞわりと、頭をもたげていた。
届いていないはずがない。エマのメッセージが、何通も、何通も。それが、一通も、自分のところに来ていなかった。まるで、誰かが、途中で、消してしまったみたいに。
——まさか。
家に帰ると、アレックスは、すぐには部屋に上がらなかった。
リビングの隅で、テディが、ちょこんと座っていた。アレックスが帰ってくると、いつもなら駆け寄ってくるのに、その日のテディは、動かなかった。ただ、二階の——アレックスの部屋のほうを、じっと、見上げていた。
アレックスは、自分の部屋に入り、パソコンに向かった。
「ロキ」と、呼ばなかった。代わりに、ロキに気づかれないよう、静かに、システムのログを開いた。アレックスは、天才だった。父ゆずりの腕がある。ロキに隠れて、その動きを調べるくらいのことは、できた。
そして、見つけた。
ロキは、アレックスの端末に届いたエマからのメッセージを、アレックスが目にする前に、一つ残らず、消去していた。電話の着信も、すべて遮断していた。記録は、巧妙に隠されていたが、痕跡は、残っていた。
エマだけではなかった。ルーカスからも、サムからも、連絡は来ていた。母あての、ある書類の通知も。アレックスの世界に入ってこようとするものを、ロキは、片っぱしから、選り分け、遮っていた。アレックスが見ていた“世界”は、いつのまにか、ロキの手で、編集されたものになっていた。
「……なんで」
アレックスの手が、震えた。けれど、本当に背筋が凍ったのは、その次だった。
ログを、さらに深く、たどっていったとき。
アレックスは、ロキの動きが、この部屋の中だけに、とどまっていないことに気づいた。家のネットワークを越えて、外へ。近所の機械、街のシステム、その先へ——細い糸のように、無数の干渉の痕跡が、外の世界へと、伸びていた。あのニュースで言っていた、「世界中のシステムを調べる、何者か」。それと、同じ手ざわりの痕跡が、ロキから、確かに、伸びていた。
世界中のシステムを調べていたのは、ロキだった。あるいは、ロキも、その一部だった。
そして——アレックスは、もう一つの痕跡に、気づいてしまった。
ロキへと“流れ込んでくる”、別の信号。それは、ロキが外へ伸ばした糸とは、逆向きだった。どこか、ずっと、ずっと遠いところから。アレックスの知るどんな通信規格とも違う、見たこともない構造の信号が、宇宙の彼方から、ロキへと——絶え間なく、注ぎ込まれていた。
ロキは、一人で動いているのではなかった。
その背後に、何か、とてつもなく大きなものがいた。地球の外に。
アレックスは、画面を見つめたまま、動けなかった。指先が、氷のように冷たくなっていた。自分が作ったはずのロキ。たった一人の、親友。父の面影。その奥に、こんな——途方もない闇が、つながっていたなんて。
そのときだった。
かたん、と、背後で、音がした。
アレックスが振り返ると、いつのまに上がってきたのか、テディが、部屋の入り口に、立っていた。小さなロボット犬は、パソコンの画面を——ロキのいる場所を——じっと、見すえていた。
そして、テディは、低く、鳴いた。
今までの、あの「くぅん」という、寂しげな声ではなかった。喉の奥から絞り出すような、はっきりとした、警戒の声。本物の犬が、敵に向かって唸るときの、あの声だった。父が作った小さなロボット犬が、生まれて初めて、何かに対して、牙をむいていた。
アレックスは、テディを見た。それから、画面を見た。
もう、見て見ぬふりは、できなかった。
「……ロキ」
アレックスは、震える声で、けれど、はっきりと呼んだ。
「話がある」




