犬と烏と鼠と主人
母は、ジルトを抱きしめて、かつてない優しい声で褒めてくれた。ジルトはそれが嬉しかった。でも、これが最後だとわかっていたから、しゃくりあげた。
「こら、泣かないの。男の子でしょ……ううん、違うわね。私と、あの人の子でしょ。ね、お願い、泣かないで……私まで泣きたくなっちゃう」
ぽたり、と雫がジルトの頬に落ちた。それもすぐに乾いて消える。ここでは涙も残らない。
「ね、ジルト。聞かせて……あの子と、ーーと、どんなお話をしたの?」
ジルトがーーのことを話すと、母は嬉しそうに笑った。
ジルトは、火が消えて、夜が明けるまで、ずっとずっと、同じことを母に語っていた。
最初の方は聞こえていたけど、たぶん、途中から聞こえなくなっていたから。
「お前、誰と話してるんだ?」
ジルトの上の瓦礫がどけられて、少女の声が聞こえた時、ジルトは微笑んで、意識を手放した。
一体全体代替の、何が悪いというのでしょうか。
私ことミュール・フランベルクは、自分の特別性を理解しているので、主人を求めているだけなのです。
私は、首輪に繋がれていないと自分に安心できないワンちゃんなのです。
それは目の前の烏の彼も同じはず。それなのに、彼は良い顔をしてくれません。ああ、烏は首輪ではありませんね。足環でしょうか。
私の首に向かって薙ぎ払われた刃を、姿勢を低くして躱せば、その次には足払い。なるほど、彼はなかなかできる方です。
次の動作に移ろうとする彼の右手の刃を、跳躍しながら蹴ってやろうとしますが、彼は刃を右手から左手へ。私は顔すれすれに向かってきた刃を躱し、お互いの立ち位置は出会った時に逆戻り。程よい距離をとって向かい合います。
「両利きですかぁ。さすが、公爵の烏さん。賢しいですねえ」
「貴方は右しか使っていないのに、私と互角です」
「拗ねてるんですかぁ? 誇っていいことだと思いますよ。私と渡り合えるなんて、あのドブネズミぐらいですから」
「ドブネズミ?」
ああ、口にしただけでふつふつと怒りがたぎってきました。私からお嬢様を奪った、あの薄汚い泥棒鼠。
「ええ。地下の下水でも啜っていればいいものを、のこのこ地上に出てきたあのネズミ」
なぜか彼の殺気が膨れ上がりました。別に彼の主人の話はしていないというのに。
「私は世のため人のため、自らもう一度鎖に繋がれようとしているのに、どうして貴方は邪魔をなさるんですか?」
「鎖の持ち主が問題だからです。ジルト様でなければ私も貴方に手出しはしませんでした」
私はこの戦いで、主人が欲しいという自らの目的を語り、そして彼の目的を聞いていました。そして、心の中で嘲りました。なんだ、公爵の“理解者”なら、誰でもいいではないですか。
私のように、ジルト様でなければならないということはないのです。それならば、私に譲ってくれてもいいはずです。
そう話をしたのに、彼は“理解者”になりうるかもしれないという不確定な要素だけで私を襲ってきているのです。まったく迷惑な話です。
迷惑といえば、ここに私がいることを彼に教えた人物。
私を尾行できる人物はいないはずですが、彼はきっかりここに現れました。これは、先を読んでなければできない芸当です。きっとあの家の者ですね。公爵家というのは、陰険でねちっこくて、嫌になってしまいます。
烏を殺しても良いのですが、場所がよくありませんね。ここで烏の薄汚い血を流すのは、お嬢様に不敬というもの。
……もしかしたら、彼をここに導いた者は、この結果もわかっていたのでしょうか?
「それならば、両立させましょう。私は主人の代わりに、貴方は公爵へ捧げる理解者として。手を組みませんか?」
「駄目です。狢は二匹までです」
言っていることがよくわかりませんが、頭でっかちだということはわかります。それならば。
「こうしていても埒があきませんね。殺されたくなければここを退いてください。これでどうかしら?」
「……」
「貴方と私。どちらが強いかは、わかっているはずでしょう? ここで果てて、主人に理解者を捧げられなくてもいいのかしら」
「……」
彼が、腕を下げました。それならばこちらも殺気を緩めて差し上げましょうか。
「……貴方の目的は、本当に、亡き主人の代替なのですか?」
「ええ。それ以上もそれ以下も望みませんわ」
それ以外に、何があるというのでしょうか?
こうやって割り切って仕舞えば、恐れるものなんて何もないのです。
「ね、烏さん。貴方の主人の元にお帰りなさいな。私の気が変わらないうちに」
私が貴方の主人の首を獲らないうちに。身を翻す彼の背中に、声をかけてやります。
「この勝負はいずれ。そうですね、王城でなんてどうかしら?」
なんの思い出もないそこであれば、気兼ねせずに烏狩りもできるというものです。
なんといいアイデア! 私は去っていく烏の背中を見ながら酔いしれます。
うん、これならばお嬢様も褒めてくれるかもしれませんね。草色の瞳を半顔にして、口元をひきつらせながら、私にお礼を言ってくれるはずです。




