20100524 空襲があった日 その2
新橋の駅前。
星野希美の残り香が夜風に溶けていくのを、将吉はじっと見送っていた。隣では、お慶が煙管を仕舞い、粋な足取りで背を向ける。
「ああ、あんたの戦友さんね。……夜を楽しんできな」
にやりと笑って去っていくお慶の視線の先に、一人の男が立っていた。
「おーい、小林! ちょいと久しぶりやな」
安曇野の霊界で別れたはずの戦友、黒田だった。
「黒田さん! なぜここに……?」
「俺の子孫の佐々木怜太が東京出張でな。今夜は新橋のホテルに泊まるっちゅうから、様子見に来たついでや。どや、久しぶりに一杯やらんか?」
将吉は一瞬、正博が消えていった改札の方を振り返り、躊躇した。
「しかし、俺は正博を見守らねばならん。彼は今、人生の岐路に……」
「阿呆抜かせ。四六時中見守っとる必要なんてあらへんわ」
黒田は豪快に笑い、将吉の肩を叩いた。
「お前の顔見てりゃわかるわ。あの子孫はもう、えらいしっかり自分の足で立っとるやないか。緊急事態がありゃ魂が勝手に呼応するもんや。お前の周り見てみ。安部殿もお慶さんも、要る時にしか出てこんやろ? 守護っちゅうのはな、信頼して距離置くことでもあるんやで」
確かに、言われてみればその通りだった。安倍道忠も、お慶も、常に寄り添っているわけではない。魂が揺らぐ時、あるいは真の危機にのみその姿を現す。
将吉は、憑き物が落ちたように深く頷いた。
「……そうか。そうだったのだな」
「わかればええんや。さあ、行くで」
黒田が右手を上げると、どこからともなく一台のタクシーが滑り込んできた。漆黒の車体だが、その輪郭は夜霧のように揺らめいている。幽霊タクシーだ。
「そうは言うても、お前の子孫の家は確か、大田区の池上の方やったな?」
「ああ、そうだ」
「ほな、行き先は『本門寺』や」
黒田は運転手に告げ、将吉を車内へ促した。
「本門寺? 黒田さん、なぜ寺へ行くんだ。酒を飲むのでは?」
将吉の疑問に、黒田は答えずただ不敵に笑った。
幽霊タクシーには信号も渋滞も存在しない。物理的な空間を歪めるように疾走し、新橋のビル群を抜けて数分。気づけばタクシーは、池上本門寺の急な石段を駆け上がっていた。
車を降りた瞬間、将吉は息を呑んだ。そこには、生きている人間には決して見えない、もう一つの「繁華街」が広がっていた。
夜の本門寺の広大な墓所。そこは、夜な夜な現世を離れた魂たちが集う、幽霊たちの歓楽街となっていたのだ。立ち並ぶ墓石の間に、赤提灯の明かりが幾重にも連なり、賑やかな笑い声が風に乗って聞こえてくる。
「ここや、小林。俺の行きつけはな」
黒田が暖簾をくぐったのは、一軒の小料理屋だった。看板には、古びた、しかし温かみのある文字で「お松」と書かれている。
店主の女将、お松さんは、昭和二十年五月二十四日の「城南空襲」で、荏原にあった店もろとも命を落とした。しかし、戦地から奇跡的に復員した息子が、本門寺に両親を弔い、後に戸越銀座で同じ名の店を再興した。今も三代目がその暖簾を守っているその「本家」とも言える場所が、霊界の本門寺にあるこの「お松」だった。
「いらっしゃい。おや、黒田さん。今日はお連れさんも?」
ふくよかな笑顔の女将が、キンキンに冷えたビールのグラスを差し出す。
「ああ、一番の戦友や。最高の一杯頼むで」
琥珀色の液体が、魂に染み渡る。マリアナの空で、あるいは信州の山々で語り合った日々が、黄金の泡と共に蘇る。
「……黒田さん、いい店だな」
「せやろ? 魂に嘘はつけへんからな、ここは」
二人の会話が弾み、数杯目の酒が運ばれてきた時だった。
「……あの、小林さんですか?」
透き通るような、しかし懐かしい鈴の音のような声に、将吉の手が止まった。振り返ると、そこには絣の着物を端麗に着こなした、一人の女性が立っていた。
「……紗子、さん?」
庄田紗子。久が原で江戸切子の職人をしていた、庄田源次郎の娘だ。将吉の伯父、正晴の戦友だった源次郎は、中国戦線で足を痛めて除隊したが、その腕は確かだった。
対米英戦争が始まる直前。
休暇で五反田の伯父の家に転がり込んでいた将吉は、源次郎に代わって、重いリヤカーを引いて蒲田まで納品を手伝ったことがあった。
納品を終えた後、駅前の喫茶店で、紗子と二人きりで過ごした短い時間。
「小林さんは、空を飛ぶのですね」
そう言って、少しだけ寂しそうに微笑んだ彼女の横顔を、将吉は一度として忘れたことはなかった。
「紗子さん、なぜ、ここに……」
再会の喜びに、紗子の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。しかし、彼女がここにいるということは、彼女もまた「あの日」を超えられなかったことを意味していた。
「……あの空襲の夜でした、ああ、昭和二十年の今日ですね」
紗子が静かに語り始めた。昭和二十年、五月二十四日。城南空襲。
旗の台にある親戚の工場に寝泊まりしながら手伝っていた彼女は、炎の海に囲まれた。燃え盛る火の粉の中、洗足池の方へ逃げようとしたその時、崩れゆく家屋の下で足を挟まれ、動けなくなっていた幼い女の子を見つけた。紗子はその子をかばうように覆いかぶさり――そのまま、激しい熱の中に意識を失ったという。
「お父様は……源次郎さんは……」
将吉が掠れた声で問う。
「父は、私を工場に行かせたことを、死ぬまで悔やんでいました。母に先立たれ、一人娘まで失って、独りぼっちになって……」
紗子は悲しい微笑みを浮かべた。
「でも、父は職人として生き抜きました。戦後、江戸切子の技術を守り続け、人間国宝にまでなったんです。あの日、私が守った女の子も、後に立派な先生になったと聞きました。……父は、天寿を全うして、ようやくここへ来ましたよ」
将吉は、拳を握りしめ、震えていた。
自分がマリアナの空で、マリアナの海で、文字通り「盾」となって敵を食い止めることができなかったから。自分の、そして日本軍の惨敗が、この東京を焼き、紗子のような心優しい女性の運命を狂わせてしまった。その圧倒的な加害と無力の感覚が、将吉の魂を苛む。
「……すまない、紗子さん。俺が、俺たちが不甲斐なかったばかりに……」
将吉の頬を伝う涙は、霊体となってなお、焼けるような熱さを持っていた。守るべき人を守れず、ただマリアナの海に散った己の無力さ。その悔恨が、紗子の手の温もりによっていっそう溢れ出していく。
その時だ。
「……自分を責めるのは、そこまでにしてくれよ…」
低く、地鳴りのような声が背後から響いた。カウンターの端、一際大きな背中を見せて座っていた男が、飲みかけのコップを「ドン」と荒っぽく置いた。振り返ると、そこには軍服の袖を捲り上げ、はち切れんばかりの筋肉を露わにした大男が立っていた。日焼けした顔に、鋭い眼光。その立ち姿だけで、修羅場をいくつも超えてきたことがわかる、異様な威圧感を放っている。
「俺は志村毅。陸軍伍長だ。……あんたが泣くなら、俺はどうすりゃいいんだ」
志村伍長。
彼は、あの「義烈空挺隊」の一員だった。
昭和二十年五月二十四日。
まさに紗子が炎に巻かれたその日、志村は奥山大尉率いる精鋭たちと共に、熊本の健軍飛行場から九七式重爆撃機に乗り込み、沖縄の空へと飛び立っていた。
「あの夜、俺たちの機体だけがどうにか読谷飛行場に強行着陸できた。……火だるまになりながら滑走路を駆け抜け、米軍機を片っ端から爆破して回ったよ。だがな……」
志村が拳を握りしめると、浮き出た血管がピクピクと震えた。
「俺たちが沖縄で死線を彷徨い、米軍の度肝を抜いていたまさにその時、東京が焼かれていた。俺たちの死闘も、紗子さんのような人を救う盾にはなれなかった……。破壊した敵機の数より、救えなかった命の数の方が、よっぽど重い」
志村の瞳にも、やり場のない憤りと深い悲しみが宿っていた。沖縄の土に還った猛者であっても、故郷を、そしてそこに住む人々を守れなかったという虚しさは、魂に深く刻まれた傷跡となって残っていたのだ。
将吉、黒田、そして志村。戦い抜いた男たちが、それぞれの「未練」を背負い、静まり返る「お松」の店内。そこに、紗子の透き通った声が、涼やかな風のように流れ込んだ。
「志村さんも、将吉さんも……どうか、ご自分を責めないでください」
紗子は、そっと志村の大きな手にも自分の手を重ね、それから一同を優しく見渡した。
「皆さんは、それぞれの持ち場で、精一杯の責務を全うされたんです。空から守ろうとした人、海から防ごうとした人、そして命懸けで敵陣へ飛び込んだ人……。その真心は、ちゃんと届いています。私がこうして今、穏やかな心でいられるのは、皆さんのような方がいたからです」
紗子の表情には、一点の曇りもなかった。
「例えここが冥土であっても……今日、こうして皆さんと出会い、楽しくお酒を飲めている。それだけで、私はとても幸せなんですよ。ねえ、せっかくのお酒が苦くなってしまいます。今は、この再会を喜びませんか?」
紗子の慈愛に満ちた言葉が、静まり返った「お松」の店内に波紋のように広がっていく。
将吉がその温もりに救われようとしたその時、カウンターの奥から「ドン!」と景気の良い音が響いた。
「まったくだ。紗子さんの言う通りだよ、あんたたち!」
割烹着の袖をまくり上げた女将、お松が、ずっしりと重い一升瓶を抱えて歩み寄ってきた。その足取りには、江戸っ子らしい威勢の良さと、幾多の苦難を乗り越えてきた者の力強さが宿っている。
「私もね、あの空襲で店もろとも丸焼けにされたさ。身動き取れなくてね、熱くて、痛くて、怖くて、苦しくて、……そりゃあ恨みたくなった時もあったよ。でもね」
お松は、空になった志村や将吉のコップに、なみなみと酒を注ぎ始めた。
「戦地から戻ったうちの息子はね、焼け野原に立ち尽くらがら、私の名前を呼んで泣いてくれたんだ。そして、奥歯を噛み締めて店を建て直した。私が愛したこの味を絶やしちゃいけないって、必死に包丁を握って、戸越銀座で店を再興してくれたんだよ。今じゃ三代目が、今の日本の賑わいの中で立派にやってる」
一升瓶をどんとテーブルに置いたお松が、腰に手を当てて将吉たちを睨み据えた。「あんたたちが命懸けで守ろうとしたこの国は、そうやって生き残った人たちが、あんたたちの思いをバトンにして、必死に走って築き上げたもんだ。今のあの煌びやかな東京の灯りはね、あんたたちが託した命の輝きそのものなんだよ。……それを、いつまでも『不甲斐ない』なんてしけた面で否定しちゃあ、一生懸命生きてる子孫たちに失礼ってもんじゃないかい?」
お松の言葉は、雷鳴のように男たちの魂を震わせた。彼女もまた、失った側でありながら、未来を信じて託した「母」としての誇りを持っていた。
「さあ、これは私からのおごりだ! 幽霊が酒の代金を気にしてどうするんだい。軍人さん、あんたたちも、今日くらいはこの紗子さんや私の笑顔に甘えて、とことん楽しみなさいな!」
その豪快な一喝に、店内の湿った空気は一気に吹き飛んだ。
「……ハハッ、こいつは一本取られたな」
志村伍長が、岩のような肩を揺らして豪快に笑った。
「空挺隊の意地も、お嬢さんや女将さんの笑顔には敵わないか。俺たちの負けだ、完敗だよ」
将吉も、溢れそうになる涙を掌で乱暴に拭い、隣の黒田と視線を交わした。黒田もまた、満足そうに頷いている。
「そうだな。紗子さんや女将さんの言う通りだ」
将吉は、なみなみと注がれた酒を掲げ、志村と黒田に声をかけた。
「黒田さん、志村伍長殿……もう一杯いこう。……今夜は、この美しい再会に感謝して、語り明かそうじゃないか」
本門寺の墓所に連なる赤提灯の下、かつての戦士たちは、硝子細工のように繊細な乙女と、大樹のように力強い女将の言葉によって、ようやく「自分たちの戦い」に一つの句読点を打つことができた。
それは、現代で孤独に戦う正博へと続く、目に見えない魂の絆を再確認する夜でもあった。初夏の夜風に混じる線香の匂いと、紗子の手の温もりだけが、遠い戦火の記憶を優しく包み込む。




