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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
2010年 新橋編
8/54

20100524 空襲があった日 その1

 五月十一日。

 新橋のオフィスに、淀んだ空気が流れ込んだ。

 営業企画の島に、首都圏第三課長・大沼がふてぶてしい笑みを浮かべて立っていたからだ。


「よお、小林くん。昨日はうちの佐野がお世話になったみたいじゃないか。……企画の連中が現場を回るなんて、随分と暇なんだな」


 大沼の言葉には、毒が混じっていた。彼は星野のデスクの横に腰掛け、正博たちが隠そうとした資料を覗き込むように探りを入れてくる。


「どうせ上の連中に『やってる感』を見せるための、ごますり資料だろ? いいか、会社を支えてるのは俺たち営業なんだよ。自分じゃ一円も稼げない企画の人間が、現場を顎で使おうなんて思うなよ」


 さらに大沼の矛先は星野に向く。

「星野さんもさ、そんなに数列ばっかり睨んでると、可愛げがなくなるよ。女は愛嬌、営業は根性。あんたのやってることは、ただの『お遊び』なんだよ」


 星野の肩が、微かに震えた。いつもは冷徹な彼女も、大沼の放つ理不尽な高圧感と、人格を否定するような言動に言葉を失い、たじろいでいた。


 正博の胸の内で、熱い塊が爆発し…。

「……大沼さん、それは言い過ぎです。星野さんは――」


「お、どうした〜? 賑やかだなあ」

 遮るように、軽やかな声が響く。

 課長の桔川だ。

 桔川はいつものように早口で、飄々とした笑みを浮かべて歩み寄ってきた。大沼も、社内で「やり手」と言われ、上層部からも信頼が置かれ、将来の経営幹部候補と目されている桔川の登場に、わずかに身構える。


「大沼さん。まあ、企画と営業、仲良くやろうじゃない。……たださ」


 桔川が、大沼の目を見据えた。口元は穏やかに笑っている。だが、その目は一切笑っていなかった。氷のように冷たく、逃げ場を許さない鋭さで大沼を射抜いている。


「さっきの、企画を下に見た言動は頂けないな。率直に言ってね。営業が偉いなんて、いつの時代の話だい? 企画、管理、経理……それぞれの機能が噛み合わなければ、組織はただの泥舟だよ。組織論として、あなたの考え方は非効率で、かつ不適切だ」


 淡々と、感情を排したロジカルな詰問。大沼は、桔川の背後に広がる「有無を言わせぬ威圧感」に、一歩後退りした。


「……ま、まあ、冗談ですよ、冗談。……失礼します」


 逃げるように去っていく大沼の背中を見送り、桔川はふうっと一息ついた。


「色々あったみたいだねぇ。小林、星野。……オフィスだと野暮だからさ。ちょっと外のカフェで話そうか」


――――――――


 桔川に連れ出され、裏路にに静かに佇むカフェに三人は腰を下ろす。


「……なるほど。更新履歴の一括更新ね。面白いところに目をつけたじゃない」


 アイスコーヒーをストローで回しながら、桔川が二人の報告を聞いていた。

 だが、 彼はすぐに本質的な弱点を指摘した。


「でもさぁ、今の設定だと『誰が』その更新をしたか、実名ログが取れていないよね?」


 星野が悔しそうに頷く。

「はい……。解析用の権限では、個人情報保護の観点からログ当事者の実名は伏せられています」


「だいじょうぶよ〜ん」

 ストローを加えたまま上目遣いに二人を見つめにやりと笑う桔川。

 逆にこの軽いノリに正博も星野さえも身震いした。


「よっしゃ。じゃあオフィス戻って話しつけるわ〜」


 オフィスに戻るや否や、桔川は情報システム部へ赴いた。連れてきたのは、情シス部員の松本だ。

「松本くんだよ~よろしく。

 彼は俺の元部下でね、話が早いんだ。 ……松本さあ~、今、小林と星野が『ハイパフォーマー分析』っていう経営的にもチョー大事なプロジェクトをやっててね。どうしても更新ログの当事者名が必要なんだよ。二人がAccessで実名まで抜けるように、今すぐ権限を切り替えてあげて」


「背景察しました。桔川さんの頼みなら、すぐやりますよ」


 松本が快く作業を終え、二人のPCには、これまで「秘匿」されていた闇を照らす鍵が与えられた。

 桔川は二人の肩を叩き、静かに言った。

「……一括更新の当事者が誰か。突き止めて。これは命令だ」


―――――


 翌日。

 Accessのクエリが弾き出した結果は、残酷なまでに明快だった。

 『更新者ID:ONUMA_M』。

 全ての架空実績を、大沼本人のIDが一括で処理していた。


 システムのフロー上、応募から面接の実績状況をマネージャーが承認するフローがある。承認後、メンバーはその案件を変更する事ができない。ただ、申請間違いや、面接日変更等、面接ステップが変わった際、マネージャー権限で情報更新できる仕様となっている。これを悪用した結果だった。


 会議室で報告を受けた桔川は、無言でその資料を見つめた後、ゆっくりと顔を上げ。

「よし。ありがとう。……よくやった…と言うか、なんだかさ、おんなじ会社のメンバーとして少し悲しいよね…」

 もっともだと正博も星野もうなづく。真っ当に仕事をしていれば、正博も星野の時間はもっと生産的な業務に充てられたのだから。


「二人とも。ここから先は『上位者の責務』。くれぐれも、このことは他言しないように。同じ企画の中でも、ね。」

 その時の桔川の横顔は、いつもの軽薄な上司ではなく、冷徹な執行官のそれだった。


 一週間後。五月二十四日。

 社内のイントラネットに、衝撃的な人事通達が流れる。


『首都圏第三課長 大沼 誠  一身上の都合による退職』

『首都圏紹介事業部長 亀田 栄一 名古屋支社へ配置転換 併せて部長職降格処分』


 あまりにも早すぎる決断。

 上位者への根回し、懲罰会議の招集……。正博と星野は、震える手で画面を見つめた。桔川がいかに「社内の力学」を熟知し、迅速に、かつ確実に外科手術を行ったか。その凄まじい実力に、二人は驚愕した。


「……小林くん」


 夕暮れのオフィス。星野がバッグを肩にかけ、正博の席に歩み寄った。

「……佐野くんにも、お咎めはなかったみたいね。良かった」


「はい。本当に……良かったです」


 やり遂げた感触と同時にむなしさもわいてくる。

 不思議な感覚が正博の全身を包んでいた。とはいえ、長野から出てきて一ヶ月ちょっと。自分がこの巨大な組織の「正義」の一助になれたことは確かかもしれない。それが、信じられないほど誇らしかった。


「……ねえ、小林くん。今日、夜あいてる?」


 星野の問いかけに、正博は心臓が跳ねるのを感じた。


「言い方は不謹慎だけどさ、『祝勝会』しよう。……二人だけで」


 五月の気持ち良い風が、窓から入り込み、書類の端を揺らした。

 正博の背後で、将吉が満足げに腕組みをし、お慶と道忠が「商談成立だねぇ」と言わんばかりに頷き合っていた。


――――――


 新橋の喧騒を少し離れた、地下にある落ち着いた和食居酒屋。

 正博は、木の温もりが感じられるカウンター席で、隣に座る星野希美の横顔を盗み見ていた。


 仕事中の険しさが消えた彼女は、どこか小動物のような愛らしさがあった。切り揃えられたボブヘアーから覗く、リスのように少し丸みを帯びた頬。都会的なセンスの良さを感じさせつつも、その佇まいは驚くほど清楚だ。


「小林君、そんなに緊張しなくても。今日は『祝勝会』なんだから」

「あ、はい。……すみません、なんだか新鮮で」


 乾杯のビールが喉を潤すと、ようやく言葉が滑らかになり始めた。話題は互いの出身地から、意外な私生活へと広がっていく。


「星野さんは、休日はやっぱり……最新のカフェ巡りとか、されてるんですか?」

「ふふ、そんなにお洒落じゃないわよ。私、休日は大体『ユザワヤ』に引きこもってるもの」

「ユザワヤ……? あの、手芸用品の?」


 正博は目を丸くした。あの「データの鬼」が、布地や糸に囲まれている姿が想像できない。

「そうなの。家にあるクッションカバーとか、ちょっとした小物は大体自前。無心で針を動かしていると、数字で疲れた脳がリセットされるのよ」


「……意外です。でも、なんだか素敵ですね。丁寧な暮らしをされているというか」

 正博の胸が、どきりと跳ねた。鋭い仕事ぶりの裏に隠された、柔らかい内面。知れば知るほど、彼女という女性の奥行きに惹かれていく自分に気づく。


 だが、話が一段落し、徳利の酒が半分ほどになった頃。

 星野がふっと視線を落とし、静かなトーンで切り出した。


「……小林君。一つ、伝えておかなきゃいけないことがあるの」

 空気が、一瞬で引き締まる。

「私ね、六月末でこの会社を辞めるの」


 正博の時間が、止まった。

「……え?」


「三月の時点で、桔川課長には伝えてあったわ。でも、後任が決まって、ちゃんと引き継ぎが終わるまでは……って。それで、あなたが来たの」


星野は、穏やかな、しかし強い意志を宿した瞳で正博を見た。

「次はIT系のベンチャーで、経営企画のデータ担当として働くわ。今までのような現場の数字だけじゃなく、財務や経理も含めた全社的なデータを扱いたい。……私の、次のステップなの」


「……そう、だったんですか」

 正博の心に、ぽっかりと穴が開いたような寂しさが広がる。しかし、目の前の星野の表情は、どこまでも晴れ晴れとしていた。

「だから、この一ヶ月、あなたには厳しく当たったわ。……小林君。あなたはもう、一人で飛べる。私が教えられることは、全部渡したつもりよ」


 その言葉で、正博は悟った。

 彼女が連日深夜まで自分に付き合ってくれたのは、単なる業務補完ではなく、彼女が去った後の「穴」を埋められるよう、自分を育て上げるという彼女自身の『最後の任務』だったのだ。


 店を出ると、五月の夜風が火照った頬を撫でた。

 駅へと向かう道すがら、二人の影が街灯に伸びる。


「小林君、じゃあ……また。明日、課の皆さんにも桔川課長から告知されるから。」

 改札の前で、星野が足を止めた。少しだけ首を傾げて笑うその姿に、ふわっと、清潔な石鹸のような、いい香りが鼻をくすぐる。


「あ……はい。また明日」

 彼女の背中が、雑踏の中に消えていく。その凛とした、それでいてどこか軽やかな後ろ姿を見送りながら、正博は拳を固く握りしめた。


(……明日から、もっと頑張ろう。星野さんが安心して次へ行けるように)


 その様子を、少し離れた柱の陰から、将吉とお慶が見守っていた。


「……お慶殿。知っていたのか。星野が去ることを」

 将吉が静かに問う。お慶は煙管の吸い殻を叩き落とし、どこか寂しげに、しかし誇らしげに笑った。


「現世の主が自分で言うまでは、あたしの口からは言えないさね。……軍人さん。あの娘は、自分の足で次の市場いちばへ向かうと決めたんだ。希美がそう決めたなら、あたしも黙ってついていくだけだよ」


「そうか……。寂しくなるな」


「何言ってんだい。縁ってのは、一度繋がっちまえば、そう簡単に解けるもんじゃないよ。……ねえ、あんたの主も、ようやく良い面構えになってきたじゃないか」


 将吉は、駅のホームへと続く階段を力強く登っていく正博の背中を見つめた。

「……ああ。彼はもう、マヨネーズではない。……立派な、私の後継だ」


 夜の新橋。

 一人の女性の旅立ちと、一人の青年の決意。

 守護霊たちは、新しい季節の訪れを予感しながら、静かに夜の闇へと溶けていった。

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