20100423 数列の「足跡」
新橋の夜は深い。
オフィスの窓の外では、汐留のビル群が冷徹な光を放っている。
フロアの片隅では、正博と星野が並んで座り、それぞれのモニターから発せられる青白い光に顔を照らされていた。
正博は、システムから出力された膨大なExcelデータの一行一行に「目」を滑らせていた。それは気の遠くなるような突合作業だ。一方の星野は、Accessを介して基幹システムの深部へ手を伸ばし、生のデータを引き抜いては解析にかける。二人の間には、もはや言葉は必要なかった。キーボードを叩く音と、時折重なる溜息だけが、二人の「共闘」を証明していた。
「おー、小林。星野。ずいぶんと連携が取れるようになったな。良いことだぞ」
部長の桔川が、帰宅間際に二人の席に立ち寄った。その顔には、管理職としての満足げな微笑みが浮かんでいるが、内心では(こいつら、四六時中一緒にいるな……何かあったか?)という、微笑ましい勘繰りが渦巻いている。
「あ、桔川部長。すみません、業務補完の引き継ぎがまだ終わらなくて」
正博が慌てて取り繕う。その様子を見ていた安江が、ふっと目を細めた。当初、星野の峻烈なレクチャーに怯えていた正博が、今や彼女の背中を支えるように並んでいる。
(案外、あの二人、うまくいくのかもね)
安江は、少しだけ温かい気持ちで、コーヒーの最後の一口を飲み干した。
そこへ、お調子者の江藤が、椅子のキャスターを転がして滑り込んできた。
「いや〜、小林くん。星野さんと残業なんて、長野じゃ考えられない密会だねぇ。まさか、愛の数式でも解いてるわけ?」
「ちょっと、江藤さん。しっ、ですよ!」
山川が、慌てて江藤の袖を引いて制する。山川は、必死にモニターを睨む正博の横顔を見て、彼らが何か「深刻な戦い」の中にいることを直感的に感じ取っていた。
周囲の茶々も耳に入らないほど、正博は一箇所に釘付けになっていた。
「……星野さん、これ。ここ、見てください」
正博の指差す先、Excelシートの右端にある『登録日』と『更新日』の列。
第三課の応募者履歴。数百人分ものデータが並んでいるはずなのに、特定の期間、特定の属性のデータだけ、更新日のタイムスタンプが秒単位まで完全に一致している箇所が、不自然なほどに続いていた。
「一括で更新……? いえ、履歴データは一件ずつ処理されるはず。こんなに並ぶのはおかしい」
星野がすぐさまデータを自分の手元へ引き寄せ、パパパとキーを叩いてピボットテーブルを生成した。集計表が瞬時に書き換えられる。
「……やっぱり。営業や事務系職種の人たちだけ、応募から面接への通過率が、この『一括更新日』の周辺だけ異常に跳ね上がってる。これは、システム上で後から数字を『整えた』痕跡よ」
「黒ですね……」
正博は確信した。大沼課長たちは、存在しない面接の実績を、後からまとめてシステムに流し込んだのだ。だが、データだけでは「証拠」として弱い。現場の証言が必要だ。
「星野さん、一つ提案があります。裏を取るために、僕を営業に『戻して』くれませんか?」
「え……?」
星野が驚いて顔を上げる。
正博は真剣な眼差しで続けた。
「僕は東京に来て日が浅い元営業です。企画になった身で、改めて首都圏の顧客の実情を把握したい……という名目で、第三課の営業に同席させてもらうんです。先日桔川課長からも現場の事をもっと観に行った方がいいとアドバイスを受けています。これ、要は『業務命令』を受けたと周囲にも言える話です。」
すらすらと構想を語る正博に、従前までのヘタレ感がない。これが長野支社でそれ相応の成績を残したからだろうかと星野も正博の豹変ぶりには少々驚きを隠せない。
「それとなく、大沼さんと折り合いの悪そうなメンバーを指名して。実際にその企業で面接が行われたのか、それとなく探ってきます」
星野は、正博の中に眠っていた「現場の勘」と、不誠実を許さない静かな怒りを感じ取った。
「……わかったわ。その作戦、いいかもしれない。大沼にバレないよう、私の方で他部署との連携名目で根回しを手伝う」
その時、二人の背後では、将吉と道忠、お慶の三人が、力強く頷き合っていた。
「……ほう、潜入捜査か。正博、ようやく貴様も『偵察員』としての顔つきになってきたな」
将吉は、誇らしげにiPhone 4の画面をタップした。そこには、第三課の座席表と、各メンバーの「不満度」をスキャンしたような霊的データが並んでいる。
「お慶殿、ターゲットの選定は任せる。……正博、この敵陣、一気に突き崩すぞ」
深夜のオフィス。二人の人間と三人の守護霊。
それぞれの思いが、一つの「偽りの数列」を暴くために、静かに、そして確実に収束していった。
――――
それからしばらく日を置いて、五月のGWが明けたある日。
新橋のオフィス街に吹き抜ける風は心地よいはずだったが、正博の隣を歩く若手社員、佐野の足取りは鉛のように重かった。
「……すみません、小林さん。企画の方をこんな外回りに連れ出しちゃって。大沼課長からは『邪魔すんなよ』って釘を刺されてるんですけど」
佐野の目の下には、泥のようなクマが張り付いている。三課に配属されて一年。大沼の苛烈なノルマと「精神論」に削られ、彼は今にも折れそうな細い枝のようだった。
「いや、僕が無理を言ってお願いしたんだから。気にしないで、佐野くん。東京の現場を知りたいだけなんだ」
正博は努めて明るく振る舞ったが、心臓は早鐘を打っていた。背後には、緑褐色の軍服を正した将吉が、鋭い眼光で周囲を警戒しながら歩いている。
「正博、落ち着け。偵察機は低空を飛ぶ時ほど、静かであるべきだ」
将吉の声に、正博は深く息を吐いた。
日本橋・ITベンチャー「テック・フロンティア」
二人が訪れたのは、急成長中のIT企業だ。三課のデータによれば、三月下旬にこの企業で「五件」の一次面接が実施され、高い歩留まりを記録したことになっている。
応接室に現れたのは、サバサバとした雰囲気の人事担当・末廣だった。
「あ、佐野さん。いつもお疲れ様です。……あら、今日は別の方も?」
「あ、はい。営業企画の小林です。現場の声を吸い上げたくて、同行させていただきました」
正博は名刺を差し出し、さりげなく会話を切り出した。
「末廣さん、三月末は大変お忙しかったんじゃないですか? うちの三課からも、かなりの人数が面接に伺ったと聞いておりますが……」
末廣は一瞬、きょとんとした顔をした。
「三月……ですか? いえ、うちは三月の最終週、全社員で沖縄に旅行に行っていて、オフィスは完全に閉めていたんですよ。うちは二月期決算でして、お陰様で前期好調だったもので…。」
「……え?」
正博の背筋に冷たいものが走った。佐野が隣で、ひきつったような声を出す。
「そ、そんなはずは……三月の二十五日とか二十六日とか、五人くらい、面接の枠を……」
末廣は苦笑しながら、壁のカレンダーを指差した。
「無理ですよ。その時期は、電話番さえいなかったんですから。そもそも佐野さん、御社からの推薦は二月からピタリと止まっていましたよね? うちの社長、少し機嫌を損ねていたんですよ。『大沼さんは口ばっかりで、全然いい人を紹介してくれない』って」
決定的だった。
三課が「一位」を勝ち取った三月の実績。その根幹をなす面接データは、存在すらしていなかったのだ。
帰り道の公園にて
「……どういうことだよ……」
佐野は、公園のベンチに座り込み、頭を抱えた。
「僕は、大沼課長に言われるがまま、面接設定の入力を……。課長が『先方が急いでるから、俺が裏で握った。後で一括で入力しとけ』って言うから……」
正博は震える手で、自分の手帳にその事実を刻みつけていた。
「佐野くん。……君のせいじゃない。君は大沼さんに利用されたんだ」
背後で、将吉がお慶と道忠に視線を送った。
「聞いたか。敵は『存在しない戦果』を捏造し、全軍を欺いた。これは軍法会議ものだ」
道忠が、地響きのような唸り声を上げる。
お慶は煙管をふかし、冷ややかに笑った。
「あはっ。あの由緒正しい黒木屋の商売を、こんな汚ねぇ嘘で汚したのかい。……正博、希美。あんたたちの出番だね。この泥棒猫の首根っこ、引きずり出してやりな」
正博は携帯を取り出し、星野にメールを打った。
『裏は取れました。三月二十五日の面接五件、全て架空です。相手先は休業中でした。』
数秒後、星野から短く返信が来た。
『了解。基幹システムの操作ログを照合するわ。……逃がさない。』
公園の噴水が、陽光を浴びてキラキラと輝いている。
だが、その輝きの裏側で、新橋の「巨悪」を討つためのカウントダウンが、静かに、しかし冷酷に始まっていた。
正博の胸には、もう迷いはなかった。
「行こう、佐野くん。会社へ戻って、本当の仕事をしよう」
ヘタレだった長野の営業マンは、もうそこにはいなかった。
数列の嘘を暴き、誰かの誇りを取り戻す。それが、彼が東京で見つけた、自分だけの「戦い」だった。




