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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
2010年 新橋編
6/54

20100419 数列の航跡と解析の暗雲

 二〇一〇年、四月十九日。

 新橋のオフィスビルを包む空気は、春の柔らかさとは裏腹に、正博にとっては針のむしろのような鋭さを持っていた。


「小林くん。この集計、加重平均の考え方が抜けてる。これじゃあ、単なる足し算で実態が見えてこないわ」


 星野希美の冷ややかな声が、静かなフロアに響く。

 正博は、モニターに映る無数のセルを見つめ、こみ上げる溜息を飲み込んだ。長野の営業現場で「数字に強い」と自負していた自分が、今は見る影もない。営業の数字は「獲ってくる」ものだったが、企画の数字は「編み上げ、読み解く」もの。脳の使う場所が、一八〇度違っていた。


「……すみません。すぐに直します」


 Excelの基本操作なら自信があった。しかし、星野が求めるレベルは次元が違った。最初は VLOOKUP や SUMIF といった関数の組み合わせで必死に食らいついていたが、レクチャーは加速していく。ピボットテーブルでの多角的分析、相関係数を用いた相関分析、さらには重回帰分析による来期の着地予測――。


「……無理だろ、これ」


 夜十時。

 静まり返ったコピー室の隣で、正博は数列の迷宮に迷い込んでいた。モニターを睨みすぎて、目が焼けるように熱い。KGI(重要目標達成指標)やKPI(重要業績評価指標)といった、事業の骨組みすらまだ腹に落ちていない。


(長野でやれてたから何とかなるなんて、俺はなんて甘かったんだ……。せめて異動前に、Excelの専門書の一冊でも読み込んでおくべきだった)


 その後悔を、一人の男がじっと見守っていた。

 三種軍装を纏った将吉は正博の背後に立ち、その「戦場」をiPhone 4の画面越しに睨みつけていた。


「……正博よ。計器飛行と同じだな、これは」

 将吉は呟いた。

 かつて、夜間や雲中を飛ぶ際、自らの感覚を捨てて計器の針だけを信じて飛んだあの孤独。一目盛りの読み違えが死に直結する。今の正博が対峙しているのは、敵機ではなく、無機質な数列という名の「見えない空」だ。


 ふと、隣の席で星野が動いた。彼女はAccessを立ち上げ、基幹システムの巨大なデータベースにODBC接続を試みている。複雑に絡み合ったリレーションテーブルから、魔法のように必要なデータだけを抽出していく。


 正博はその手捌きを、ただ呆然と横目で見ていた。自分には一生辿り着けない領域に思えた。


「小林くん」

不意に星野が手を止め…

「私ね、SQL(データベース操作言語)は書けないわよ。世の中にはもっと高度なプログラムを書ける人は山ほどいるわ」


「えっ……!?」


「でもね。大事なのはスキルそのものじゃない。その数字をどう読み取って、どう評価して、どんな言葉でアウトプットするか。 企画の価値は、そこにあるの。勿論、スキルがあれば構造理解は早まる。でも、ツールに使われちゃダメ。あなたが数字の裏にある『人の動き』を見ようとしているのは、なんとなく伝わってる。だから、逃げずにやりなさい」


 少しだけ、星野の横顔が柔らかくなった気がした。

 正博の胸に、小さな火が灯る。数字を操る立場の奥深さ。それが単なる事務作業ではなく、軍師が地図の上に兵の動きを描くような「意思」の介在する仕事だと気づき始めた。


 その時、背後の空気がわずかに震え…。

 日本橋「黒木屋」の女将、お慶が煙管をくゆらせながら、将吉の隣に現れた。


「……ふん。あんたの主、意外と根性あるじゃない。あの安倍ちゃん(道忠)が言っていたことも、あながち間違いじゃなかったのかもねぇ」


 お慶は、算盤を弾くような指先で、正博のExcel画面をなぞり。


「うちの店でもね、丁稚でっちの時から帳簿の角に噛み付くような奴が、最後には番頭まで上り詰めたもんさ。……軍人さん、あんたもしっかり励ましてやりな。この『すうれつ』の先に、勝ち筋が見えるまではね」


 将吉は、お慶の言葉に驚き、それから静かに頷いた。

「了解した、お慶殿。……正博、聞いたか。数字から逃げるな。それがお前の、現代いまの翼になるんだ」


 正博は知る由もない。

 自分の背後で、平安の武士、江戸の女将、そして昭和の飛行兵が、深夜のオフィスで「一人の若者」の成長に目を細めていることを。

 彼は再び、キーボードを叩き始めた。

 INDEX と MATCH を組み合わせた新しい計算式が、セルの上で正解を導き出すまで、夜はまだ明けない。


―――――――――


 深夜十一時。

 オフィスの天井灯がいくつか落とされ、静寂の中にPCのファンの回る音だけが低く唸っている。

 正博の瞳は、連日の「数列ノック」によって赤く充血し、焦点が危うくなっていた。


「……小林君。これ、見て」

 隣で作業していた星野希美が、一つのファイルをモニターに呼び出した。それは、人材紹介事業の心臓部ともいえるプロセス・モニタリングの帳票だった。


【初回面談】→【求人提案数】→【応募数】→【一次面接数】→【二次】→【最終】→【内定】→【承諾】→【入社】。


 会員の属性、地域、支社、部署といったあらゆる切り口で、歩留まり(通過率)が網羅されている。正博がこの一週間、星野から叩き込まれてきた「解析の集大成」のようなデータだ。


「この数字の並びを見て、何かおかしいと思うところ、ない?」


 星野の声は、いつになく低く、冷たかった。正博はバキバキになった目をこすり、もうろうとする意識を画面に集中させた。


「……ええと、一月から三月の、首都圏第三課……?」


「そう。そこだけ見て」


 正博の脳内で、現場時代の経験則と、この一ヶ月で身につけた解析脳が火花を散らす。

「……応募から面接への歩留まりが……異常に高いです。四五%? 通常、せいぜい三〇%どまりですよ。この不景気の時代…。一五%も乖離かいりしてるなんて、よほど市場価値が高い……例えば全員が会計士とか、そういう神がかった層を応募させない限り、ありえない」


星野が頷く。

「実数は?」


「……応募数は他部署と変わらない。なのに、面接設定率だけが突出している。……まるで、魔法でも使ったみたいだ」


 正博の言葉に、星野は冷ややかな笑みを浮かべた。

「魔法じゃないわ。この第三課、この数字で前年度末の課対抗KPI向上キャンペーンで一位を獲ったの。課長の大沼さんとメンバーには結構な報奨金が出て、銀座で豪遊したって噂よ。地方にいたあなたには、聞こえてこなかったでしょうけど」


 正博の胸に、モヤりとした不快感が広がった。リーマンショックの余波を受け、地方の大手各社の工場閉鎖が相次ぐ中、地方で何とかして、泥臭く一%の数字を積み上げていた自分たちを差し置いて、その陰で。


「これ……変」

 星野が画面を指で叩く。

「第三課は、それまで五課あるうちのドベだった。それがこの時期だけ急浮上したの。大沼課長は自分の手柄に異常に執着する人でね。部下への当たりも強引だし、異動願を出すメンバーも後を絶たない。そんな崩壊寸前の部署が、急に『精鋭集団』に変わるなんて。……ねえ小林君、これ、深掘りしない?」


 星野の瞳に、不誠実を許さない強い光が宿っていた。

 ヘタレを自認する正博だが、嘘や誤魔化しだけは生理的に受け付けない。この無機質な数列の裏で、誰かが「数字をいじっている」のだとしたら。


「……やります。星野さん、僕にその調べ方を教えてください」


 正博の背筋が、すっと伸びた。その瞬間、背後の空気が激しく震えた。


「……けっ。反吐が出るねぇ」

日本橋「黒木屋」の女将・お慶が、煙管を床に叩きつけるようにして吐き捨てた。その瞳は、商売を汚す者への純粋な怒りで燃えている。


「いいかい、軍人さん。商い(あきない)の道で一番やっちゃいけないのは、帳簿の偽りさ。白を黒と言い張り、じつのない金で酒を飲む。そんなのは商人の風上にも置けない、ただの泥棒だよ」


 将吉は、直立不動の姿勢でiPhone 4を構えていた。

「同感だ、お慶殿。……部隊の戦果を偽り、部下を疲弊させて自分だけが勲章を貰う指揮官など、戦場ふばななら後ろから撃たれても文句は言えん」


 将吉はiPhone 4の画面を猛然と操作し始めた。解析アプリが「異常値」を検知し、赤く点滅している。


「大沼とかいう男……そして、それを表彰に推薦したという部長の亀田。背後にどんな守護霊が憑いているか知らんが、俺たちの正博と星野さんを怒らせたのが運の尽きだと思わせてやる」


 将吉の隣では、安倍道忠が大鎧をガシャリと鳴らし、巨大な太刀の柄に手をかけていた。

「……将吉よ。敵の『兵站へいたん』を叩くぞ。この偽りの数列の根源、突き止めてくれる」


 正博はまだ知らない。

 自分がこれから踏み込む「データ解析」という名の深淵が、社内の闇を暴くための隠密作戦に変貌しようとしていることを。


「小林君。明日から、第三課の全データの『突合とつごう』を始めるわよ。……寝かせないから、覚悟して」


「はい!」


 二人の若者と、三人の守護霊。

 夜のオフィスで、悪徳を許さない「チーム解析」の反撃が、静かに、しかし力強く産声を上げた。

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