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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
2010年 新橋編
10/54

20100525 晴朗の儀仗隊

 池上本門寺の夜は、なおも賑わいを増していた。

 「お松」の店内では、義烈空挺隊の志村伍長が豪快に笑い、滋賀の安土からやってきた黒田も、徳利を傾けながら陽気に上機嫌な声を上げている。


「いやぁ、小林。やっぱり酒は魂の洗濯といっしょやな。現世でどんだけ砂噛むような思いしても、ここでこうして戦友と酌み交わせば、全部ええ思い出やわ」


 黒田の柔らかな近江弁が、店内の喧騒に心地よく溶け込んでいく。将吉もまた、重い軍装を脱ぎ捨てたかのような軽やかさで、杯を重ねていた。

 宴もたけなわ。赤提灯の灯りが微かに揺れ始め、幽霊たちの夜が終演を迎えようとしていた。


 将吉の隣では、紗子が静かに微笑んでいた。

 かつて蒲田の駅前で過ごした、あの短くも鮮烈な時間。二人の間には、時を超えてなお消えない淡い恋心の火が灯っていた。だが、ここは冥土。二人はすでに肉体を失い、背負うべき役割を持つ「御霊みたま」だ。今さら結ばれることなど、お互い望んではいなかった。


「将吉さん。……私、そろそろ行かなければ…」

 紗子が、澄んだ瞳で将吉を見つめた。彼女には、久が原の保育園で保育士として働く子孫、庄田一族の末裔を見守るという大切な務めがある。


「ええ。私も、正博が待っています」


「はい。……でも、また会いましょう、この『お松』で。女将さんの美味しいお酒と、皆さんの笑い声がある、この場所で」


「約束だ、紗子さん。必ず」

 指先が触れるか触れないかの距離で、二人は静かに会釈を交わした。それは、現世の恋人たちよりも深く、しかし透明な約束だった。


 紗子と別れ、本門寺の急な石段を降りる頃には、海軍の飛行兵二人と、陸軍の猛者である志村の三人になっていた。

 夜風を浴びて酔いを醒ましていた黒田が、ふと思い出したように足を止め、将吉と志村を振り返った。


「せや!二人とも。明日の昼、ちょっと付き合わへんか? 横須賀まで行こう思うてんねん」


「横須賀か……」

将吉が呟く。海軍の要衝だ。だが、陸軍の志村は不思議そうに眉を寄せた。


「黒田さん、陸軍の俺が行ってもいいのかな、あまり馴染みがない場所ですが……何かあるんですか?」


「ええからええから。とにかく明日や。五月のええ天気やしな、俺ら海軍は『夏季礼装』、志村、自分は『夏季正装』で来いよ。びしっと決めてな」


 黒田はそれ以上何も語らず、ひらひらと手を振って夜の闇に消えていった。

 将吉と志村は顔を見合わせたが、あの黒田がわざわざ正装を指定するからには、何か並大抵ではない理由があるのだろう。二人は言葉少なに、翌日の再会を約して別れた。


―――――――


 翌日の正午。

 横須賀の港には、初夏の鮮烈な陽光が降り注いでいた。

 将吉と志村は、指定された通りに身を整えて現れた。将吉は海軍特有の、純白の生地に金ボタンが映える夏季礼装。志村もまた、陸軍の矜持を感じさせる端正な夏季正装に身を包んでいる。


「よう来たな、二人とも。……見ろ、あそこや」


 黒田が指差した先。そこには、現世の人間たちが何らかの厳かな式典の準備を進めている光景があった。

 整列しているのは、海上自衛官たちだ。だが、その姿を見た将吉は息を呑んだ。

 彼らが纏っているのは、自分たちの軍服に驚くほど似た、しかしどこか洗練された白の「第一種礼装」。凛とした立ち姿、磨き上げられた靴、そして一切の乱れもない挙措。


「……海軍?なのか?」

 志村が呟く。

「いや、海上自衛隊や。まあ『じえいたい』とは色々なしがらみでそうなっただけやな。実質は、俺らの『後輩』たちやな」

 黒田の声には、慈しむような響きがあった。


 ふと周囲を見渡すと、そこには現世の参列者だけではなく、自分たちと同じ「あの世」の軍人たちが、正装、礼装に身を包んで続々と集まってきていた。明治や大正の古参は少なく、そのほとんどが、あの熾烈な昭和の戦火を潜り抜けた、大東亜戦争に関わった兵士たちだった。誰もが口を噤み、固唾を呑んで岬の向こうを見つめている。


 やがて、遠く岬の向こうから、低く重厚な汽笛が響いた。

 群青の海を切り裂くように、灰色の巨大な艦影が姿を現す。

「練習艦かしま」。

 マストに翻る自衛艦旗が、五月の風を受けて力強くはためいている。


 現世の自衛官たちが、号令と共に一斉に整列した。軍楽隊の金管楽器が陽光を反射し、セーラー服を纏った儀仗隊たちが、銃を抱えて微動だにせず佇んでいる。


 「かしま」がゆっくりと接岸し、太いロープが繋がれる。

 タラップが取り付けられると、ピーッという鋭い笛の音が港内に響き渡った。


「捧げ――つつ!」


 その瞬間、乾いた金属音が港に響き渡った。純白のセーラー服に身を包んだ儀仗隊の若者たちが、一糸乱れぬ速さで小銃を胸の前へと掲げた。着剣された銃剣が、初夏の鋭い陽光を反射して白銀の閃光を放つ。


 最前列に立つ、まだあどけなさの残る二十歳そこそこの隊員の横顔を、将吉はじっと見つめた。額にはうっすらと汗が滲み、頬の筋肉は緊張で固く強張っている。だが、その見開かれた瞳は、決して揺らぐことがなかった。ただひたすらに、タラップを降りてくる「大先輩」たちの魂と遺骨に対し、至上の敬意を払おうとする、純粋で強固な意志。


 彼らが握る銃床の軋む音さえ聞こえてきそうな静寂の中、将吉はその若者の瞳の奥に、かつての自分たちが持っていたものと同じ、あるいはそれ以上に純化された「誠実さ」を見出した。


「……立派や。あんなに若い子が、俺らのためにあんなに背筋伸ばしてくれとる」

黒田が、震える声で呟いた。


 儀仗隊の若者たちの挙動には、単なる訓練の成果を超えた、魂の「継承」が宿っていた。彼らのきりっとした眼差しは、敗戦の苦い記憶さえも包み込み、今の日本を、そしてこの国の未来を、自分たちがこの肩で支えていくのだという無言の宣言のように、将吉の胸を激しく打った。


 軍楽隊が、哀切と誇りに満ちた旋律を奏で始める。

 タラップの頂上に、白い制服の自衛官たちが姿を現した。彼らは胸の前に、白い布に包まれた「遺骨」を、我が子を抱くように大切に抱えていた。


 将吉の眼が、熱いものを捉える。

 自衛官たちの脇には、現世の人間には見えない、様々な軍装を纏った日本陸海軍の兵士たちの「御霊」が、実体を持って並んで歩いていた。

 ソロモンで、ニューギニアで、あるいは深い海底で、何十年も故国を夢見ていた男たちが、今、自衛官たちの足並みに合わせて、一歩、また一歩と日本の土を踏みしめている。


「……おかえり」


 誰ともなく、周囲の御霊たちから小さな声が漏れた。

 遺骨を抱えた自衛官たちは、一列に並び、その前に待機していた厚生労働省の職員たちへと、丁寧に移し替えていく。

 職員たちもまた、その重みを噛み締めるように、最敬礼で遺骨を受け取る。

 引き渡しが終わるたび、自衛官たちが鋭い敬礼を送る。その横に立つ御霊たちも、現世の「後輩」たちに向かって、誇らしげに、誠実な敬礼を返していた。


 将吉たち参列者も、反射的に姿勢を正し、精一杯の敬礼を捧げた。

 説明など必要ない。

 これは、海外に未だ眠る戦死者たちの遺骨を、自衛隊が「軍艦」として迎えに行き、故国へと送り届ける帰還の儀式なのだ。


 遺骨はこれから、鑑定を経て遺族のもとへ、あるいは無名戦士の墓へと届けられるという。だが、魂たちは違う。故国の地を踏んだ彼らは、今この瞬間、それぞれの故郷へと羽ばたき、それぞれの「先祖会」へと入っていくのだ。


 将吉は、こみ上げる感動を抑えることができなかった。

「黒田さん……戦後八十年近く経っても、あんなに立派な軍艦で、あんなに若い奴らが、俺たちを迎えに来てくれるのか」


「せや。忘れられてへんのや、小林。日本は、あの子孫たちは、ちゃんと俺らのことを見てくれとる」


 志村伍長もまた、目を真っ赤に腫らしていた。

「……陸軍も海軍も関係ない。あいつら自衛官の佇まいを見てください。俺たちの時代よりも体格が良く、それでいて眼差しには、この式典の重みを理解した深い覚悟がある。……頼もしい。本当に、頼もしいな」


 将吉は、タラップを降りてくる自衛官たちの顔を一人一人見つめた。

 凛とした指揮官、若々しい下士官。彼らの背筋の伸び方は、かつての自分たちが誇りとしていたものと何ら変わりはない。いや、それ以上の、平和な時代を背負って立つ者の強さがあった。


 あの日、マリアナの海で惨敗し、紗子のような無垢な人々を盾となって守れなかった不甲斐なさに、将吉は昨日まで涙を流していた。


 だが、どうだろうか。

 コテンパンに叩きのめされ、焦土と化した日本に、今もこうして「海軍」の流れを汲む精鋭たちが存在し、これほどまでに頼もしい若人たちが国を守っている。


 それは、自分たちが流した血が、決して無駄ではなかったという証左ではないだろうか。自分たちが守りたかった「未来」が、ここに具現化されている。


 将吉は、ふと正博のことを思った。

 会社という戦場で、必死に泥を這い、誠実であろうともがいているあの子孫。

 昨夜、お慶に「過干渉になるな」と諭され、今、この自衛官たちの勇姿を見て、ようやく腑に落ちた。


(正博。お前も、あの自衛官たちと同じ、この国の『今』を生きる立派な若者なんだな)


 子孫を、危なっかしい子供のように見ていた自分を、将吉は恥じた。

 正博には、正博の戦いがある。そして彼には、荒波を乗り越えていけるだけの血が流れているのだ。守護霊の役割は、手取り足取り教えることではない。彼が信じた道を突き進めるよう、その後ろ姿を信じて、ただ静かに風を送ることなのだ。


「……黒田さん。連れてきてくれて、ありがとう」


「ええんよ。俺も、怜太を見てて思うたんや。あいつら、俺らが思っとるよりずっと強いわ」


 式典が終わり、練習艦「かしま」が初夏の陽光に静かに佇む中、将吉は自衛官たちに向かって、もう一度深く、感謝の敬礼を捧げた。


「お帰りなさい、戦友たち。そして、ありがとう、後輩たち」


 将吉の心からは、あの大空襲の夜に負った深い傷が、少しずつ癒えていくのを感じていた。敗北の歴史の果てに、なおも輝き続ける日本の若者たち。その光がある限り、自分の守護もまた、新しい意味を持つ。


 横須賀の海は、どこまでも青く、穏やかだった。

 将吉は、正博の待つ新橋へと戻るべく、晴れやかな顔で歩き出した。

その足取りは、昨日よりもずっと力強く、迷いはなかった。

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