20100526~0705 瀬田の長橋が新橋に架かる
新橋のオフィスに、一通の事務的な社内通知が流れたのは、梅雨の気配が忍び寄る五月の終わりのことだった。
「……えっ、星野さん、退職しちゃうの!?」
真っ先に声を上げたのは、ベテラン社員の安江だった。社内事情に精通し、情報の酸いも甘いも噛み分けてきた彼女でさえ、この急な知らせには目を見開いた。その声に反応するように、やり手の先輩である江藤と、面倒見の良さで知られる山川も、それぞれの画面を凝視する。
「まさか、データ管理のエースがいなくなるなんて……」
江藤が、珍しく動揺を隠さずに呟いた。対して、山川はふと隣のデスクに座る小林正博に視線を向けた。
「……なるほど。小林くんと星野さんが、最近やけに密に打ち合わせをしていたのは、そういうことだったのか。てっきり、あらぬ噂の方かと思ってたけどな」
山川の言葉に、安江が鋭く反応し…。
「ああ、あの引き継ぎの熱量ね。あれは『恋』じゃなくて、完全に『伝承』だったわけだ。星野さんのことだから、辞める前に自分のスキルを全部、小林くんに叩き込もうとしてたのね……。合点がいったわ」
騒然とする課内を鎮めるように、課長の桔川がパンと手を叩く。
「みんな、少し静かに。残念なのは山々だが、これは星野が決めた前向きなキャリアアップだ。俺たちはそれを全力で応援しようや」
桔川課長の明るい、しかしどこか責任感の滲む激励に、正博は静かに頭を下げた。星野の決意を、そして彼女がこの部署に注いできた情熱を一番近くで受け取ったのは、自分だ。その重みを、正博は誰よりも感じていた。
――――――
六月に入ると、星野は残った有給休暇の消化に入り、オフィスからその姿を消した。それと同時に、正博のデスクには、文字通り津波のような業務が押し寄せた。
星野が一人で回していた膨大なデータ管理、複雑な分析ロジック、他部署との繊細な調整。引き継ぎを受けたとはいえ、いざ一人で画面に向かうと、そこには星野にしか見えていなかった「データの裏側」が山ほど隠されていた。
「小林くん、例の数字の推移、夕方までにまとめられる? 会議で使いたいんだ」
「小林、悪いけどこっちの企画書も目を通してくれ。星野の視点が必要な案件なんだ」
データ管理業務が一気に集中する一方で、本職である「企画屋」としての業務も容赦なく降ってくる。
星野という大きな盾を失った正博は、最前線で一人、荒波にさらされることになった。慣れない作業に手間取り、深夜のオフィスに一人残る日々が続く。
だが、今の正博は違った。
深夜、静まり返ったフロアで、ディスプレイの青白い光に照らされながら、彼はひたすらキーボードを叩き続けた。
(……星野さんは、これを一人で、しかも完璧にこなしていたんだ。ここで僕が音を上げるわけにはいかない。彼女が信じて託してくれたものを、台無しにしたくない)
正博は、自分を見守る「誰か」の存在など知る由もない。ただ、胸の奥に灯った「負けたくない」という熱い塊だけを頼りに、睡魔と戦っていた。
以前の彼なら漂わせていた、どこか頼りない「ヘタレ感」が、一晩一晩の過酷な労働の中で、少しずつ、しかし確実に削ぎ落とされていく。迷いながらも、前を見据えて数字と格闘するその背中からは、一人のプロとしての「覚悟」が滲み出し始めていた。
オフィスビルを吹き抜ける夜風の中、将吉は、そんな子孫の後ろ姿を静かに見つめていた。横須賀で見たあの若き自衛官たちの凛々しさが、今の正博の背中にも重なって見える。正博自身は気づいていなくとも、その血には確かに、困難に立ち向かう強さが受け継がれているのだ。
「小林くん、顔つきが変わったわね」
残業中、コーヒーを差し出しに来た安江が、ふとそう漏らしたことがあった。それは、社内の人間模様を誰よりも見てきた玄人からの、最大級の評価だった。
―――――
そして七月五日月曜日
都心のコンクリートは、巨大な蓄熱体と化して熱を帯び、アスファルトからは逃げ場のない陽炎が執拗に立ち上っていた。
同じ最高気温35度でも、かつて勤務していた長野の夏とはまるで異質だ。信州は、たとえ陽射しが強くとも風は乾き、ひとたび日陰に逃げ込めば、森の吐息を孕んだかのような凛とした涼やかさが肌を撫でたものだ。
だが、ここ新橋の夏は、重い湿気を孕んだ熱気が、まとわりつく濡れタオルのように全身を包み込み、呼吸をするだけで肺の奥まで蒸されるような不快感がある。
強力なビル空調が低い唸りを上げるオフィス内に逃げ込んでも、スーツの繊維の奥にまで染み込んだ都会の湿気までは容易に消えてくれない。長野支社の、あの窓の外に抜けるような青空と山並みを望む快適な環境が、今では遠い異国の記憶のように感じられた。
正博は堪りかねて紺の上着を脱ぎ、椅子の背もたれに引っ掛けた。首筋を締め上げるネクタイの結び目を一段緩め、シャツの第一ボタンを外してようやく深く息を吐く。
(……この暑さ、異常だろ)
その呟きは、傍らで見守る将吉の意識とも深く共鳴していた。
霊体となった将吉にとっても、この二〇一〇年の東京の熱気は、かつて知っていた「日本の夏」とは別種の、どこか禍々しいものに感じられた。
マリアナの海、南方の戦線。直射日光が皮膚を焦がし、スコールの前の湿気が肺を圧迫するあの過酷な環境を、将吉は身をもって知っている。それに比べれば、戦後数十年を経て過剰に膨れ上がったこの大都市の熱気は、まだ「耐えられる」範疇ではあった。
だが、何かが決定的に違う。
将吉の記憶にある戦前の東京の夏は、もっと隙間があった。夕暮れになればどこからか風が抜け、打ち水の匂いが土の香りを連れてきたものだ。しかし、今の新橋は、無数のビルから吐き出される室外機の熱風と、コンクリートが溜め込んだ熱が逃げ場を失い、巨大な「蒸し器」の中に閉じ込められているかのようだ。
(……南方の島でも、ここまで逃げ場がないことはなかった。これはもはや、天候ではなく『文明の熱』だな)
将吉は、汗一つかかない霊体でありながら、現代の空気が持つ異常な密度に、かつての戦場とはまた違う息苦しさを感じていた。それでも、そんな過酷な「戦場」で必死に戦う子孫の姿は、将吉の目にいっそう凛々しく映る。
正博は手元の資料を捌く手を決して止めなかった。
「カシャッ、カシャッ……」
静まり返ったフロアに、ホチキスが針を打ち込む無機質な音が等間隔で響く。星野から引き継いだ膨大なデータを、一枚一枚、自分の血肉に変えていくための儀式。その乾いた音だけが、今の彼にとっての唯一のメトロノームだった。
そんな正博の手が、桔川課長の張りのある声で止まる…。
「みんな、ちょっといいか! 今日からうちの課に、新しい仲間が加わることになった」
顔を上げた正博の視線の先に、一人の女性が立っていた。
「山岡由梨江です。前職では営業企画を担当していました。一日も早く皆さんの力になれるよう精一杯頑張りますので、よろしくお願いします!」
ハキハキとした挨拶。凛とした立ち振る舞い。
星野希美とはまた違う、しかしどこか芯の強さを感じさせるその存在に、オフィスの空気がパッと華やいだ。
正博は、彼女の瞳の中に宿る「まっすぐな光」に圧倒されていた。
一方、傍らで見守る将吉は、驚きと共に彼女を見つめた。その光は、あの横須賀の港で「かしま」を迎え、一糸乱れぬ捧げ銃を見せた若き自衛官たちの瞳と、全く同じ質のものだったからだ。
正博がその瞳の輝きに圧倒されて、将吉が驚きを示したその瞬間。
現世の喧騒と重なるように、霊的な空間が激しく震える…。
正博の背後で見守っていた将吉は、反射的に身構えた。空襲の火の粉や、マリアナの爆鳴とは違う。それは、何百年という歳月を煮詰めたような、圧倒的な「武」の重圧だった。
新入社員・山岡由梨江の背後に、陽炎のように立ち上る巨大な影があった。
現れたのは、煤けた具足に身を包み、堂々たる体躯を誇る戦国武士の姿だった。その面構えには、幾多の死線を越えた者特有の静かな凄みがあり、腰に差した大刀からは、古戦場の血と硝煙の匂いが漂ってくる。
「……なんという気配だ」
将吉が息を呑んだ瞬間、安江の背後から、平安の雅を纏った安部道忠が音もなく現れた。いつもは余裕を崩さない道忠が、その男を見るなり、深々と頭を下げたのだ。
「これは……まさか、瀬田の守護者、山岡美作守景隆殿ではございませぬか。このような場所でお目にかかるとは」
山岡景隆。
織田信長に仕え、本能寺の変の際には明智光秀の誘いを断固として拒絶。瀬田の橋を焼き落として光秀の進軍を阻んだ、義に厚き猛将である。
景隆は、道忠の挨拶に短く頷くと、厳かな声で応えた。
「安部殿か。久しいな。……左様、由梨江は我が一族の末裔。本来の守護に代わり、一時、この娘の背を支えることとなった」
「本来の守護に代わり……と申されますと?」
将吉が恐る恐る尋ねると、景隆はその鋭い眼光を少しだけ和らげた。
「案ずるな、海軍の若人よ。本来この娘に付くべき者は、少々『訳あり』でな。今は、ある重要な地で浄化の任に就いておる。その留守を預かるための代役よ。だが、我が血を引く者が、この新しき世で戦場に立つという。見届けぬわけにはいくまい」
戦国の大物が放つ威圧感に、オフィスの一角が霊的にひび割れそうなほどの緊張感に包まれる。道忠が丁重に景隆を案内しようとした、その時だった。
「――おやおや。瀬田の御大が、こんな新橋のど真ん中に何のご用ですかな」
不意に、軽妙だが芯の通った声が響いた。
振り返った将吉の目に飛び込んできたのは、小林家先祖会の長。かつて江戸の地を差配した小林次郎左衛門の姿だ。
次郎左衛門は、戦国武士の荒々しさと江戸の役人の怜悧さを併せ持ったような佇まいで、悠然と歩み寄ってくる。将吉にとっては「組織のトップ」にあたる存在だが、彼は景隆を見るなり、懐かしそうに目を細めた。
「次郎左衛門か」
景隆もわずかに口角を上げた。
「貴殿が、この小林という若造(正博)の根を支えておったか。近江の空の下、共に槍を振るったのは、もう四百年も前になるか」
「左様。あの頃の近江は騒がしゅうございましたな。景隆殿が橋を焼いたと聞いた時は、さすがの私も肝を冷やしましたぞ」
次郎左衛門と景隆――。
戦国から江戸へと移り変わる混沌の時代、確かにどこかで道が交差していたのであろう二人の古強者が、現代のオフィスビルの片隅で再会を果たしていた。
「将吉、何を呆然としておる」
次郎左衛門が、将吉の肩を叩く…。
「山岡殿は、義に生き、義に殉じた御仁だ。山岡家の娘がここへ来たということは、お主の孫……正博にとっても、これ以上の援護はあるまい」
将吉は、居住まいを正した。
現世では、正博が山岡由梨江という新たな仲間を迎え、慣れない「教える側」としての第一歩を踏み出そうとしている。
そして霊界では、平安、戦国、江戸、そして昭和の魂たちが、一つの部署に集結していた。
景隆は、由梨江の隣でぎこちなく挨拶を返す正博をじっと見つめ、地響きのような声で呟いた。
「……小林の嫡流か。少しばかり頼りなげではあるが、その瞳の奥には、確かに次郎左衛門や将吉、お主たちが繋いできた『折れぬ芯』が見える」
景隆の言葉に、将吉の胸が熱くなる。
横須賀で見たあの凛とした「継承」の光が、今、目の前の正博と由梨江の間にも、確かに灯ろうとしていた。
新橋のオフィスを吹き抜ける風。
それは、時代を超えた守護者たちの思惑と、若者たちの決意が混ざり合った、かつてないほど力強い季節の始まりを告げていた。




