20100711 真夏の陽光と影
新橋の金曜日。
夕闇が迫ってもアスファルトの熱気は引かず、街全体が巨大なサウナのような蒸し暑さに包まれていた。路地裏から漂う焼き鳥の煙と、生ビールの冷気を求めるサラリーマンたちの喧騒が、湿った空気の中に溶け込んでいる。
その一角、古びた居酒屋の二階で、山岡由梨江の歓迎会が催されていた。
「私、秋田の湯沢の方なんです。あ、安江さんは岩手なんですね! お隣じゃないですか!」
由梨江のハキハキとした声が、座敷をパッと明るくする。彼女は秋田訛りを隠すことなく、それでいてビジネスパーソンとしての凛とした立ち振る舞いを崩さない。安江との「東北トーク」に花を咲かせながら、さりげなく上司の桔川課長のグラスに目を配り、山川や江藤といった先輩たちとも対等に、かつ敬意を持って渡り合っている。
「前職は小さな会社で営業をして、そのあと企画の真似事みたいな仕事をしていたんですけど…もっと大きな組織の、その中枢でデータがどう動くのかを肌で感じたくて。小林先輩、明日からまたビシビシ指導してくださいね」
屈託のない笑顔でそう言われ、正博は引きつった笑いを返すのが精一杯だった。
(……一歳下、だもんな)
ジョッキに残ったぬるいビールを飲み干す。自分がこの部署に来たばかりの頃、どれだけ周囲の顔色を伺い、オドオドとした「ヘタレ感」を撒き散らしていたかを思い出し、猛烈な気恥ずかしさが込み上げる。由梨江の持つ圧倒的な「適応能力」と、澱みのない向上心。それは、今の正博にとって眩しすぎると同時に、静かな危機感を抱かせるものだった。
(星野さんのバトンを繋ぐのは僕だ。由梨江さんに追い抜かれるわけにはいかない……。いや、彼女を引っ張っていけるくらいの器にならなきゃいけないんだ)
酔いよりも深い「覚悟」が、正博の胸の内で静かに熱を帯び始めていた。
――――――
明けた週末の七月十一日。日曜日。
大田区千鳥町の朝は、セミの鳴き声がシャワーのように降り注いでいた。
正博が引っ越してきたこの街は、新橋とは対照的な静寂に満ちている。低層の住宅が整然と並び、角を曲がれば古びた稲荷神社や、歴史の重みを感じさせる古墳の跡が顔を出す。かつてこの地を歩んだ人々の営みが、土の香りと共に染み付いているような、不思議と落ち着く場所だった。
正博の部屋も、その街の佇まいに馴染むように整いつつあった。かつての「とりあえず詰め込んだ」だけの混沌とした空間は消え、今では使い込まれた文房具や本が機能的に並ぶ、独身男性の小綺麗な住処へと変わっている。
「よし……」
正博はスポーツウェアに身を包み、外へと踏み出した。
この酷暑の東京を戦い抜くには、精神論だけでは足りない。肉体の強靭さが必要だ。そう考え、週末のランニングを日課にしていた。
アスファルトを蹴る規則的な音。流れる汗がシャツを重くするが、一歩ごとに自分の足に「芯」が通っていく感覚がある。その様子を、将吉は背後から見守っていた。
(……変わったな、正博)
かつてのひ弱な面影は消え、その眼差しには確かな目的意識が宿っている。将吉は、そんな子孫の変化が誇らしく、そしてどこか微笑ましかった。
住宅街の緩やかな坂を駆け下りていた時、正博の視界に黒い人だかりが入った。
一軒の大きな屋敷の前。
そこには一台の霊柩車が停まり、深い悲しみを湛えた遺族たちが最後のお別れを告げている。出棺の儀だった。
正博は自然と足を止め、ランニングのタイマーを止めた。
お香の匂いが、夏の熱気に混じって鼻腔を突く。正博は道路の端に寄り、遺影に向かって深く、静かに手を合わせた。
それは、信心深い両親から教わった「人の死に対する敬意」であったが、彼には苦い記憶がある。
中学生の頃、部活に遅れそうだった彼は、近所のおばあさんの葬列を無視して全力で駆け抜けたことがあった。
因果関係はわからないが、その日の練習中、彼は不自然な形で転倒し、足の骨を折る大怪我を負った。
(あれは、バチが当たったんだ……)
以来、彼は見知らぬ誰かの旅立ちであっても、必ず足を止め、心からの祈りを捧げるようにしていた。
そんな真摯な後ろ姿に、将吉が目を細めていた時。
「……ああ、海軍さんだ! 本当に、いらっしゃるんだな」
震えるような、しかし歓喜に満ちた声が響いた。
振り返ると、そこには一人の老人が立っていた。透き通るような霊体。しかしその顔は、遺族が抱える遺影の主――城戸晴夫その人であった。
「驚かせてすまない。私は城戸です。七十八まで生きて、ガンでね……。いやぁ、嬉しいものだ。親族があんなに集まってくれて、その上、こんな見知らぬ青年までが足を止めて拝んでくれるなんて。……それにね、そのお兄さんの守護霊さんが、私が幼い頃にずっと憧れていた『海軍の軍人さん』だと分かって、つい声をかけてしまった」
晴夫の目は、少年のように輝いていた。将吉はその言葉に応じるように、一歩前へ出た。霊体同士の対話は、言葉を超えた「魂の共鳴」となって、将吉の中に晴夫の人生を激流のように流し込まれる…。
―――――
晴夫の父もまた、海軍の軍人だった。
優しかった母、小さかった妹。東京の城東の片隅で、彼らは確かに幸せだった。
しかし、一九四五年のあの日。
東京の空を埋め尽くした鋼鉄の雨が、すべてを灰に変えた‥‥。
防空壕の入り口に直撃した焼夷弾。
晴夫は母の手を離してしまい、火の海の中を彷徨うことになった。
翌朝、ようやく再会した時、母と妹は、もはや言葉を交わせる姿ではなかった。
サイパン島へ送られた父もまた、帰らぬ人となっていたことも知らぬまま、孤独の身となった晴夫。
着の身着のまま、彷徨い父と母が生きていたその昔の記憶を頼りにたどり着いたのが埼玉は川口の叔母の所だった。
ただ、埼玉の叔母の家は、常に飢えと、誰かの忍び泣く気配に満ちていた。
叔母もまた、戦地で夫を失った未亡人だった。女手一つで三人の幼子を抱え、自身の命を削るようにして日々を繋いでいる。彼女は晴夫に優しかった。乏しい配給の芋を、自分の子供たちと同じように、あるいはそれ以上に晴夫の皿に分け与えてくれた。
だが、十歳の晴夫には分かってしまったのだ。
囲炉裏の傍で、疲れ果てて泥のように眠る叔母の細くなった指先や、空腹で泣き叫ぶ従兄弟たちの声が、自分という「居候」の存在によって、いっそう追い詰められていることを。
母と妹を灰にしたあの日から、晴夫の心は子供であることを止めていた…。
(これ以上、ここにいちゃいけない。……お父さんは海軍なんだ。その息子が、女の人を困らせちゃいけないんだ)
ある朝、晴夫は何も言わずに家を出た。
唯一の荷物は、父がかつて買ってくれた、煤けた学生帽だけ。
蒸気機関車が吐き出す真っ黒な煙と、石炭の匂いに咽せながら辿り着いた上野駅。そこは、かつての「東京の表玄関」とは名ばかりの、生と死が腐臭と共に溶け合う巨大な墓標だった。
駅の威厳ある花崗岩の壁を下り、地下道へと一歩足を踏み入れた瞬間、晴夫を襲ったのは、これまで経験したことのない異様な「重圧」だった。
そこには、日光を拒絶された暗がりの迷宮が広がっていた。コンクリートの床には、ちぎれた筵や薄汚れた段ボールが幾重にも敷き詰められ、その上には、人間というよりは「動く骸」のような人々が無数にうごめいている。
鼻を突くのは、排泄物の酸っぱい臭いと、傷口が腐ったような甘ったるい死の匂い。そして、流行病を封じ込めるためのクレゾール液の刺すような刺激臭が、湿った空気の中に濁って停滞していた。
「……っ」
晴夫は思わず足がすくみ、学生帽の庇を深く下げた。
地下道の隅では、自分と同じくらいの、あるいはもっと小さな子供たちが、虚ろな目で壁を凝視している。彼らは「浮浪児」と呼ばれ、社会から切り離された存在だった。誰も助けてはくれない。ここでは、泣くことは体力を消耗させるだけの無駄な行為だった…。
冷たいコンクリートの壁を背に、晴夫は座り込む。
外界は、終戦という「平和」に向かって動き始めているはずなのに、この上野の底には、まだ終わりのない戦場が居座っていた。
十歳の少年にとって、この薄暗い地下道は、世界の終わりそのものだった。
だが、晴夫は震える膝を両手で抱え、自分に言い聞かせる。
(ここで死ぬわけにはいかない。お父さんお母さん、そして妹の代わりに、僕が生きなきゃいけないんだ)
学生帽の奥で、その瞳だけが、暗闇を射抜くように鋭く光っていた。
それが、戦後を「戦災孤児」として生き抜くことになった城戸晴夫の、孤独な戦いの始まりだった。
―――――
晴夫の壮絶な人生を垣間見た将吉の魂が震えた。
「……すまない。我々が不甲斐なかったばかりに。君のような子供に、そんな十字架を背負わせてしまった」
将吉はたまらず詫びた。
自分たちが命を懸けて守りたかったはずの日本で、子供たちが飢え、凍えていた事実を目の当たりにして。先日お松で紗子たちと語り合い、整理したはずの悔恨が再び胸を刺す。
しかし晴夫は首を振った。
「いいんです、いいんです。私は運良く施設に入ることができ、そのあと自立して、商売を起こして成功もしました。孫も五人います。十分、生き抜きましたよ。……ただ、一つだけ、気がかりなことがあるんです」
晴夫の表情が曇る。
「上野駅で、一緒に寝泊まりしていた『けんじ君』のことです」
けんじ君は、同じように学生帽を被り、陸軍軍人の父と支える母がいた。境遇の似た二人は、地下道で寄り添い、靴磨きをして糊口を凌いでいた。
晴夫は、遠い目をして続ける。
戦後二年。
街には進駐軍の車が走り、着飾った人々が戻り始めていた。
ある日、上野駅前の百貨店の前。晴夫とけんじ君は、ピカピカの学生服を着た少年が、美しい訪問着を着た母親と手を繋ぎ、アイスキャンディーを食べて笑っている姿を見た。
「あの時のけんじ君の顔……今でも夢に出ます。
そしてその日の夜でした。けんじ君の何かが切れてしまった…。
汚れた地下道の隅で、けんじ君が突然、『わあぁぁぁ!』と叫んでホームに駆け出したんです。そして、通過する回送列車の激しい風の中に……自ら飛び込んでしまった…。」
晴夫は声を詰まらせた。
「直後に浮浪児の摘発があって、私は彼を弔うこともできずに上野を離れました。以来、私は彼の分まで生きると誓ってやってきましたが……今、冥土に足を踏み入れて、怖い話を聞いたんです」
「……『悪落ち』のことか」
将吉の声が低く沈んだ。成仏できず、怨念や絶望に囚われた霊が、ひょんなきっかけで魔の囁きに耳を貸し、現世に害をなす異形の存在へと変貌すること。
「けんじ君は、今もあの上野の暗いホームに、独りぼっちでいるんじゃないか。もし彼が『悪落ち』して、誰かを恨んでいたら……。海軍さん、お願いだ。私と一緒に行ってくれないか。私一人の霊力では、あそこまで辿り着くのがやっと。あんたさんのような力強い御仁がそばにいてくれたら、けんじ君に声をかけられるかもしれない」
将吉は、静かに、しかし力強く頷いた。
これは正博の守護とは別の、一人の軍人として、そして一人の日本人としての責務だった。
「承知した。城戸殿、上野へ行こう。その『けんじ君』の魂、必ずや光の下へ導こうではないか」
正博が再び走り出し、夏の陽光の中へと消えていく。
その後ろ姿を見送りながら、将吉と晴夫は、半世紀以上の時を超えた「戦後」を終わらせるため、深い因縁の渦巻く上野駅へと向かうのだった。




