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EnIshi~縁~  作者: 代々木のぶ
2010年 新橋編
13/20

20100711 鬼退治と彷徨える魂の帰還

 七月十一日、日曜日の昼前。

 上野駅は、暴力的なまでの幸福感に包まれていた。

 改札を抜ける家族連れの波。色とりどりのリュックサックを背負った子供たちが、パンダ目当てに恩賜公園へと続く緩やかな坂を、跳ねるように駆けていく。ひっきりなしに到着する電車は、冷房の効いた快適な車内から、平和を絵に描いたような人々を次々と吐き出していた。


 かつて、この場所に漂っていた「死」と「飢え」の臭いを覚えている者は、もうこの雑踏の中には一人もいないだろう。だが、現世の喧騒から一段深い、霊界の位相に立つ将吉と城戸晴夫にとって、その景色はあまりにも危うい「薄氷」の上に成り立っているように見えた。


「……あそこだ」


 晴夫が、震える指でホームの端を指差した。

 最新鋭のステンレス車両が放つ輝きの影、現世の人間にはただの「清掃用具入れの脇の暗がり」にしか見えない場所に、その少年はいた。

 煤けた学生帽を深く被り、膝を抱えて座り込む小さな影。けんじ君だ。

 彼は、かつてホームから身を投げたあの日と同じ、空虚な眼差しを現世の家族連れに向けていた。その瞳にはまだ、憎悪や呪いといった「悪落ち」の兆候は見られない。しかし、その無垢な絶望こそが、闇を呼び寄せる最良の餌となることを、将吉は本能で悟った。


 晴夫が声をかけようと踏み出した、その時。


 闇の奥から、音もなく、一人の女性が染み出すように現れた。

 上品な藤色の着物に身を包み、結い上げた髪が美しい。だが、その足元には影がなく、放つ気配は氷のように冷たい。将吉は瞬時にサーベルの柄に手をかけた。それは霊魂などではない。人の絶望を糧に肥大化し、魔へと転じた存在――「鬼」と呼ばれる類のものだ。


 女鬼は、慈しむような笑みを浮かべ、けんじ君の細い肩に手を置いた。

「かわいそうに……。お母さんの代わりに、お姉さんが連れて行ってあげる。さあ、あっちの世界に行きましょう。そこには飢えも、寂しさもない。楽になれるわよ……」


 その声は甘く、毒を含んだ蜜のように少年の心を侵食していく。女鬼は、将吉たちの存在に気づきながらも、あえて無視を決め込み、芝居がかった手つきでけんじ君を闇の深淵へと誘い込もうとしていた。


「待て! その子を放せ!」


 静寂と喧騒が残酷なまでに乖離かいりした、上野駅の「折り目」。

 現代の家族連れがパンダのぬいぐるみに目を細めるその真横で、将吉と女鬼の、魂を削り合う間合いが爆発した。


「おやおや、見事な制服姿の海軍さんかい。邪魔をしないでよ」


 女鬼は、その白磁のような指先を唇に当て、愉悦に震える声でささやいた。


「あちらの闇の世界にはね、あんたのような『日本の軍人』は一人もいないのさ。皆、誰かに思われて、綺麗さっぱり光の方へ行っちまってね……。空っぽのあちら側で、あんたは初めての『極上品』として重宝されるよ。お前も、来ないかい?」


 その瞬間、女の姿が豹変した。


 藤色の着物は瞬時に漆黒の業火へと変わり、穏やかだった顔立ちは、夜叉のごとく吊り上がった。額から突き出た二本の角、そして指先から伸びる、剃刀のように鋭い爪。


 誘い文句の末尾が、猛毒を孕んだ断末魔のような叫びへと変じる。

 刹那、女鬼の右手が柳のようにしなり、五本の爪が黒い真鋼まはがねの凶器と化す。空気を切り裂く「ヒュッ」という鋭い音が、将吉の鼓膜を叩いた。


「……抜かせ」


 将吉の身体は、意識よりも先に海軍の剣術をなぞっていた。

左足を軸に、半身はんみをわずかに沈める。喉元を狙った女鬼の手刀が、将吉の鼻先数ミリを通り過ぎた。その風圧だけで、将吉の軍服の襟が激しくなびく。


 将吉は逃げなかった。

 逆に、死の圏内へと一歩踏み込む。逆手に取ったサーベルのつばに近い「腹」の部分で、女鬼の次なる追撃を真っ向から受け止めた。


「ガガッ――!」


 霊体同士の衝突。火花が散り、衝撃波がホームのコンクリートを震わせる。女鬼の爪は将吉のサーベルに食い込み、不快な金属音を立てながら、彼の胸元まで数センチの距離でせめぎ合った。


(……この重さ、並の怨霊ではないな)


 女鬼の瞳が、漆黒の深淵となって将吉を覗き込む。彼女の背後にある闇が、意志を持ったつたのように伸び、将吉の足首を絡め取ろうと蠢いた。


「惑わされるな。戦場での雑念は、即ち死だ」


 自分に言い聞かせる声は、鋼のように冷徹だった。

 将吉はサーベルを支える腕に全霊を込めると、一気にその「円」を広げるように女鬼の腕を外側へと弾き飛ばした。体勢の崩れた女鬼が、憎悪に顔を歪める。


 そこからの連撃は、無駄の一切を省いた軍の技だった。

 将吉は翻したサーベルで女鬼の懐を突くと見せかけ、あえて重心を落とした。

 右足の蹴り――それは現世の格闘技をも凌駕する、霊的な質量を持った一撃が女鬼の膝を正確に砕き、彼女を床へと這いつくばらせる。


「逃がさん」


 背後を取った将吉は、女鬼の右腕を背中側にねじり上げ、膝でその肩甲骨を押さえつけた。瞬時に、冷徹な白銀の切っ先が、女鬼の細い喉元をぴたりと捉える。

 微動だにすれば、その喉を両断する。将吉の放つ殺気は、夏の熱気を一瞬で氷点下へと叩き落とすほどに鋭かった。


「……汚れた手で、この子たちに触れるな。その醜悪な芝居も、ここまでだ」

 将吉の言葉には、海軍軍人としての烈火のごとき憤怒が籠もっていた。だが、組み伏せられた女鬼は、不気味なほどに静かだ…。


 女鬼は抑え込まれた姿勢のまま、くくくと喉を鳴らして笑い始める。その哄笑が、次の瞬間、将吉の理性を揺さぶる「別の罠」へと転じていく――。

 醜悪な怪物は消え、そこには、汗と油にまみれたモンペ姿の、かよわい女学生が座り込んでいた。戦時下、学徒動員で軍需工場に送られ、旋盤を回し、そして焼夷弾の雨に焼かれた名もなき女工の姿。



「やめて……。あなたは、守れなかった私のような女に手にかけるの?」

 女学生の声が耳を打った瞬間、将吉の視界が歪む。脳裏に一九四五年の業火が重なる。その顔は、将吉がマリアナの海に散る直前まで胸に抱いていた、あの紗子の面影と残酷なまでに重なっていた。


「……紗子、なのか?」


 将吉の指先が、わずかに震える。

 戦後、何も守れなかったという悔恨が、鋭い刃となって将吉自身の胸を突き刺す。サーベルの切っ先が、数ミリだけ下がった。


「あははっ! 案外、脆いもんだねえ、海軍さん!」


 隙を突いた女鬼の手刀が、将吉の胸を貫こうと伸びる。将吉は直感でサーベルを胸前に下ろしたが、不意を突かれた衝撃に、霊体が激しく火花を散らす。


 将吉が注意を引きつけている間に、晴夫は既に少年のもとへと辿り着いていた。

 いつの間にか、七十八歳の老人の姿は消え、晴夫もまた、あの日の「十歳の少年」の姿に戻り…。

「けんじ君、晴夫だよ! やっと会えた。一緒に行こう、あんな奴に騙されちゃだめだ!」


 親友の声に、けんじ君の虚ろな瞳に、わずかな生気が灯る。

「……はる、お……くん?」


「勝手なことを!」

 激昂した女鬼が、将吉を振り払い、無防備な晴夫めがけて鋭い爪を振り下ろした。

「しまっ――!」

 将吉が叫ぶが、距離がある。霊力の弱い晴夫には、防ぐ術はない。晴夫は覚悟を決め、けんじ君を庇うようにその小さな背中を抱きしめた。


――ガガッ、チンッ!


 硬質な金属音が、ホームの暗がりに響き渡った。

 闇を切り裂くような白銀の閃光。女鬼の爪を弾き飛ばしたのは、海軍のサーベルよりも一回り大きく、無骨なまでに研ぎ澄まされた日本刀の刃だ。


「も、もう一人いたのかい……今度は陸軍か……!」


 断末魔の叫びと共に、女鬼の首が宙を舞った。燃えカスのようになった霊体が霧散していく中、そこに立っていたのは、軍刀を鮮やかに鞘へ収める屈強な陸軍将校だった。

 茶褐色の軍服に身を包み、佇まいは古武士のように峻烈。彼は血のついていない刀を流れるような動作で鞘に納めると、静かに歩み寄り、震える少年二人をその太い腕で抱きしめた。


「……健司けんじ。帰ってきたぞ。お父さんは、ここにいる」


 その声に、少年の肩が激しく震え…。

「お父ちゃん……? お父ちゃんなの……?」


 ニューギニアの峻烈な密林で、強大な米軍と併せて飢えと病にも抗いながらも、失意の中で戦死した、栗田健くりたたける陸軍中尉。

 先日、将吉と正博が参列したあの式典――。

 練習艦「かしま」に奉ぜられ、数十年の時を経て、ついに故国の土を踏んだ英霊の一人が、彼だったのである。


 さらに背後から、一人の女性が歩み寄る。健司の母、明恵。

「健司、ごめんね。寂しかったわね」

 母の腕の中で、少年はようやく、堰を切ったように泣きじゃくった。


「海軍さん、息子を、そして友を助けていただき、深く感謝する」

 栗田中尉が、将吉に向かって厳かに一礼した。

 

「栗田中尉殿……助太刀、感謝する。不覚を取った」

 将吉が悔しげに呟くと、栗田は静かに首を振った。


「いや、あの鬼の『惑わし』は狡猾だった。小林殿が女鬼を引き付けてくれたおかげで切り込む余地ができた。 そして…城戸殿……」

 中尉は、少年の姿に戻った晴夫を見つめた。

「あなたが健司のことを思い続け、靴磨きの記憶を、友情の証を、人生の最期まで手放さなかった……。その強いおもいがあったからこそ、健司の魂は闇に堕ちずに、この現世の縁に踏みとどまることができたのだ。あなたは、私の息子を守り抜いてくれた」


 明恵もまた、涙ながらに語る。

「晴夫さんの思念が、健司を現世の光に繋ぎ止めていた。でも、あなたが亡くなり、霊体となったことで、その繋ぎ目が一瞬緩んだ。そこを鬼に狙われたのね。……本当に、間一髪でした」


 将吉は、自身の鍛錬不足を恥じ、肝を冷やした。だが、晴夫は少年のまま、将吉の腕を引いた。

「将吉さん、自分を責めないで。あなたがいなければ、僕はここまで来られなかった」


 健司が晴夫に歩み寄り、照れくさそうに笑った。

「晴夫くん、そして海軍さんありがとう。……晴夫くん…また、一緒に靴磨きをやろうか」

「ああ、今度は、腹一杯食べた後に、な」

 二人の少年の笑い声が、ホームに響く。


 すると、反対側のホームの端から、「お兄ちゃん!」という鈴を転がすような声が届いた。 振り返ると、そこには業火に焼かれたはずの晴夫の妹、春子がいた。傍らには、きりりとした訪問着を着た母、房江が優しく微笑んでいる。


「母ちゃん!……春子!……」

 晴夫は、家族の温もりに包まれ、ようやく一人の息子、一人の兄に戻った。


「……家族が、待っているな」

 将吉が言うと、晴夫は力強く頷き、家族のもとへと駆け出した。


 房江が将吉に対し、静かに一礼し。

「夫はまだ、南方の土の下に眠っております。けれど、晴夫が築いた家族が、今も夫を思い続けてくれています。その祈りがある限り、私たちはこうして繋がっていられる。夫と同じ海軍の方に、息子を助けていただけたのは、何かのご縁ですね。……また、お会いしましょう」


 いまだ二百万を超える御霊が、故国の土を踏めずに南方の各地を彷徨っている。

 だが、日本に残された親族の祈り、そして国を挙げてその魂を迎え入れようとする「誠の心」が、一筋の糸となって霊界を繋いでいる。その意図がある限り魂が「悪落ち」することはない。思い続けること。それこそが、最強の防壁なのだ。


 すると、ホームの掲示板が、不可思議な行先を告げた。

 誰もいない線路に、白く輝く「幽霊列車」が静かに滑り込んでくる。両家族は、それぞれの懐かしい故郷、そして光の差す「先祖会」の安らぎへと帰るべく、その列車へと乗り込んでいった。


 将吉は、遠ざかる列車を垂直の敬礼で見送った。

 ふと我に返ると、上野駅は再び、二〇一〇年の狂おしいまでの平和に戻っていた。

 千鳥町では、ランニング途中の正博が、一瞬だけ足を止め、何か懐かしい風を感じたかのように、ふうっと汗を拭う。そして、また元気よく走り出していった。


 将吉は、腰のサーベルの柄を強く握り直す。

「……悪落ち、か。正博を守るためには、もっと強くならねばな。」


七月の陽光が、再び戦士の背中を、眩しく照らし出していた。


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