20100712 飛行兵のメインウエポン
二〇一〇年七月十二日、月曜日。
東京は例年より早い梅雨明けの報を待たずして、暴力的なまでの陽光に包まれていた。新橋の街は、アスファルトから立ち上る陽炎と、数多のビジネスパーソンが吐き出す吐息、そしてビルの室外機が放つ熱風が混ざり合い、巨大な高炉のような熱気を帯びている。
その喧騒の中、株式会社Rコンサルタントのオフィス内は、設定温度二十六度の無機質な冷気に支配されていた。
営業企画部のデスクでは、小林正博がディスプレイを凝視し、マウスを叩く。隣には、入社二週目を迎えた山岡由梨江が、真剣な眼差しで画面を追っている。七月一日の入社から十日余り。彼女の仕事に対する吸い込みの速さは、正博を驚かせると同時に、微かな脅威を感じさせていた。
「……ここが、前任の星野さんが組み上げたモニタリング・システムの核です。Accessを介してODBC経由で基幹システムのサーバーから直接データを叩き出し、Excel側でマクロを回してKPIを可視化する。一見、自動化されているように見えますが、クエリを少しでも書き換えると全体の整合性が崩れる『精密機械』っす。」
正博は、星野が残した複雑怪奇なシステム――彼が「聖域」と呼ぶべきデータベース構造を、由梨江に一つずつ紐解いていく。
「なるほど……。中間テーブルを作らずに直接Joinさせているのは、リアルタイム性を重視したからですね。でも、これだとサーバー負荷がかかりませんか? インデックスの貼り方が甘いと、月次の締め日にはデータ取得が止まる恐れがあります」
由梨江の指摘は鋭く、正博は一瞬言葉に詰まった。
「……そう。だからこそ、夜間にバッチを回してテンポラリ・テーブルに逃がす工夫が必要なんです。今週中にその修正を、僕と一緒に進めてもらいたい」
「承知しました、小林先輩。任せてください」
由梨江の淀みのない返事。正博は彼女の横顔に、かつての同僚である星野とはまた違う、鋭利な「刃」のような輝きを見た。それは、実戦を重ねた武士が持つ、冷徹なまでの機能美に似ていた。
そんな現世のデスクが放つ電磁波とデータの激流。そのわずかに外側、常人には決して視ることのできない「位相」の重なりに、二人の男が座していた。
小林次郎座衛門と、山岡景隆である。
オフィスの隅に置かれたパキラの巨大な葉は、彼らにとっては戦場の真っ只中に張られた陣幕のようにも、あるいは信州の深い山林を渡る風のようにも感じられていた。
「景隆殿、お一ついかがかな。これは信州の清らかな水で醸した、魂に染みる酒ですぞ」
次郎座衛門がどこからともなく取り出した、煤けた古びた瓢箪。そこから注がれる琥珀色の液体は、霊界の空気を通ることで芳醇な香りをオフィスの一角に漂わせる。景隆は豪快に笑い、それを受け取った。
「次郎座衛門殿。貴殿もこの『小林』という若造を支えるのに苦労しておるようだな。……見たところ、戦場を知らぬ温室育ちの若人。だが、その後ろに立つあの海軍の若造――将吉の眼差しは良い。絶望の淵を覗いた者の目だ」
「ははは、将吉は我ら一族の中でも一際熱い男でしてな。……ですが景隆殿、今の世の『戦』は、形を変えております。槍を振るう代わりに数字を扱い、城を攻める代わりに市場を読み解く。ですが、背後にある『義』と『誠実さ』の奪い合いであることは、四百年前と何ら変わりませぬ」
景隆は瓢箪を呷り、深く頷いた。
「左様。瀬田の橋を焼いた時、我が心にあったのは主君への忠義のみ。今の世の企画屋とやらも、誰のために、何のためにその知恵を絞るのか……。その一点が揺らげば、いかに精緻な策を練ろうとも、空虚な砂上の楼閣に過ぎん。由梨江にはそれを教えねばならぬ」
そこへ、上野駅での死闘を終えた将吉が姿を現した。
将吉の軍服には、昨日の瘴気の残滓が微かに漂い、その表情にはわずかな焦燥感があった。二人の古強者は、将吉が「悪落ち」を防ぎ、鬼を退治したことを即座に察したが、同時に彼が抱いている「己の不甲斐なさ」もまた、筒抜けであった。
「……お戻りか、将吉」
次郎座衛門が穏やかに問いかける。
「見事であったな。だが、その面持ち……己の技に納得がいっておらぬようだな」
将吉は黙って腰のサーベルを見つめ、やがて、絞り出すように言った。
「……自分は、見栄を張っていたのかもしれません」
「ほう?」
と、景隆が面白そうに目を細める。
「霊体となった際、このサーベルを帯びることで『軍人』としての形を整えたつもりでした。ですが、自分はそもそも下士官。」
さやからサーベルを抜き、色白の蛍光灯の光に刃が照らされる…。
「生前、サーベルを抜いて戦ったことなど一度もありません。士官の真似事をしたところで、魂が伴わなければ、昨夜のような鬼の『惑わし』に足元を掬われる」
将吉は自嘲気味に笑い、続けた。
「自分が本当に得意だったのは、銃剣術です。飛行兵になる前の軍艦勤務時代、艦内の対抗戦で一等を取りました。南方の基地では、三八式や九九式小銃を使って、獣を捕らえては夜の鍋にしたものです。……射撃も、突きも、銃身の重さを感じている時こそが、一番自分が自分らしくいられた」
「ほう、感心なことだ」
次郎座衛門が、おもむろに懐から最新のiPhoneを取り出した。四百年前の武将がスマートフォンを操る光景は異様だが、彼は迷うことなく画面をタップし始める。
「あ~、五郎座衛門殿か。……左様、例の新しい守護霊の件だ。今、思念を送ったった。……そう、九九式短小銃だ。七・七ミリの方。あと銃剣もな。よし、頼んだぞい…。」
通話を終えた瞬間、次郎座衛門が指を鳴らす。
オフィスの天井付近の空間が不自然に歪み、そこから重厚な金属音を立てて、何かが落下してきた。
「――っ!」
将吉は反射的に腕を伸ばし、それを空中で受け止めた。
掌に伝わる、使い込まれた木製銃床の質感。ボルトレバーの硬質な冷たさ。
九九式短小銃。
さらに空間から滑り落ちてきた三十年式銃剣を、手際よく着剣させる。
ガチリ。
その金属音が、オフィスビルの一角を、一瞬にして殺伐とした戦場へと変質させた。
「これだ……。これですよ、次郎座衛門様。三八式の六・五ミリよりも強力な、七・七ミリ。弾道の低進性も良い。遠距離でも中短距離でも……これなら、迷うことはありません」
将吉が銃を構えると、その佇まいは一変した。
先ほどまでの迷いは消え、全身から「獲物を屠る」戦士としての冷徹な気が溢れ出している。
それを見た景隆が、ゆっくりと腰を上げ…
「鉄砲は門外漢だが‥銃剣、か。長さは違えど、その本質は『槍』よな。次郎座衛門殿、我ら二人の槍術が、現代の銃剣にどこまで通用するか……指南してやろうではないか‥」
「はっはっは、名案ですな。将吉、サーベルなどという洒落た玩具は一度置いておけ。景隆殿は織田家でも指折りの槍の使い手。私もまた、信州の山中で槍を振るって一族を守ってきた身だ」
現世では、正博が由梨江に「Accessのクエリ」について熱弁を振るっている。
「このJoinをネストさせることで、一気に一万件のレコードを処理できる。これが、僕たちの武器です」
その真横で、将吉は二人の伝説的な達人に囲まれ、九九式小銃を「槍」として振るう、世にも過酷な修行を開始した。
「腰が浮いておるぞ、将吉! 突きの力は足裏から伝えよ!」
景隆が、実体のない槍で将吉の懐を突く。
「引くときは電光石火。銃身の重さに振り回されるな、お前が銃身を支配しろ!」
次郎座衛門の叱咤が飛ぶ。
冷房の効いたオフィスに、霊的な熱気が渦巻く。
将吉の突きが空気を切り裂くたび、正博の背筋がなぜかピンと伸びる。
データという名の情報の槍を操る正博と、鋼の銃剣を槍として鍛え直す将吉。
世代を超えた「小林一族」の戦い。
いまだ南方の島々で帰国を待つ英霊たちの無念や、それを支える陛下をはじめとした国民の祈り……。それらすべての「思念」が、一本の細い糸となって、この新橋のオフィスで結ばれようとしていた。
将吉は、汗を流しながら(霊体でありながら、それは熱い思念の奔流であった)、景隆の鋭い一撃を受け流した。
「……負けられん。この銃で、この技で、僕は正博を、そしてこの国の行く末を守り抜く」
窓の外、夏の積乱雲が、戦場のような白さを湛えて空へと伸びていた。




