20100716 有楽町の潮騒とビールの泡
二〇一〇年七月十六日、金曜日。
都心は、逃げ場のない湿気とアスファルトの余熱に包まれていた。だが、有楽町の駅ビル屋上に広がるビアガーデンには、それらを一瞬で忘れさせる「解放感」という名の風が吹き抜けている。
「……まずは、一週間お疲れ様でした。乾杯!」
課長の桔川の声に合わせて、厚手のジョッキがいくつも重なり、鈍い音を立てた。琥珀色の液体の上で踊る白い泡が、夕闇に溶け込んでいく。
小林正博は、冷えたビールの喉越しを楽しみながら、斜め向かいに座る山岡由梨江を盗み見た。
入社から十二営業日。彼女が「R・コンサルタント」にもたらした衝撃は、正博の想像を遥かに超えていた。データの海から、まるで使い慣れた道具を取り出すように必要な情報を引き出し、星野が遺した複雑怪奇なシステムを、彼女はわずか数日で自分の血肉に変えてしまった。
(……一時は、自分が否定されるんじゃないかって怖かったけれど)
正博は、心の中で苦笑した。この一週間、由梨江は決して正博を出し抜こうとはしなかった。それどころか、
「小林先輩、星野さんのこのクエリの組み方、本当に合理的ですね。ここを起点に発展させれば、もっと良くなると思うんです」
と、前任者への敬意を片時も忘れなかった。
彼女は自分を脅かすライバルではない。共に、この「R・コンサルタント」という組織を前に進めるための、最高のパートナーなのだ。
そう自覚した瞬間、正博の胸の中にあった、粘りつくような劣等感は、ビールの泡のように綺麗に消えていた。
「おいおい、小林君。さっきから山岡さんのこと、熱心に見つめすぎじゃないか?」
ジョッキを片手に、顔を赤くした江藤が茶化すように割り込んできた。
「星野さんの時とは違って、今度はなんだか、随分と『親密』な空気じゃないの?」
「えっ……い、いえ、そんなことないですよお」
由梨江が、ほんの少しだけ頬を染め、困ったように首を振る。その仕草には、職場の華としての愛嬌と、プロフェッショナルとしての節度が絶妙に混ざり合っていた。
「チームですから。お互いの連携が大事だなって、改めて思っているだけっす」
正博は照れ隠しに、大きめのソーセージを口に放り込んだ。
「ははは、まんざらでもなさそうだなあ。」
江藤の豪快な笑い声が、有楽町の夜空に響く…。
そんな現世の喧騒を、少しだけ高い視点から眺めている影。
将吉は、ジョッキを傾ける正博たちの姿に、かつての自分たちを重ねていた。
(……連携、か。確かに、一人の力で飛べる空など、どこにもなかった)
将吉の脳裏に、一九四四年の夏、マリアナの基地での光景が蘇る。
黒田、赤坂。
あの頃、自分たちは常に三人一組だった。寝るのも、飯を食うのも一緒。銀バイ(※海軍隠語で食料や物品をくすねること)をする時ですら、阿吽の呼吸で監視役と実行役に分かれたものだ。
一度、別の編隊の機長が、まだ若かった赤坂に理不尽な暴力を振るったことがあった。その夜、将吉は黒田と共に、その機長の寝所に無言で殴り込んだ。
「自分たちの機銃員に手を出すな」
言葉は短かったが、拳に込めた重みは、三人の絆そのものだった。
あの時の機長は――確か、珊瑚海の海に沈んだ。そんな記憶が、ふと苦い後味と共に浮かんでは消える。
「……だが、組織の理は、空も地上も、戦も商いも変わらぬようだな」
将吉が独りごちた時、隣に静かに立つ影があった。安部だ。
安部は、桔川課長を中心としたチームの面々を見渡し、穏やかに頷く。
「いつの世も、互いを理解し合うことは、戦においても仕事においても最重要の事。正博殿と由梨江殿に限らず、この桔川という男の配下は、それが実によく体現できている」
安部の視線は、黙々とビールを注ぎ、部下たちの話に耳を傾ける桔川に注がれていた。
「……桔川殿の力量には、感服するばかりだ。自ら前線に立ちつつ、部下の個性を潰さぬ佇まい。見事な指揮官ぶりよ」
「そういえば」と、将吉がふと口にした。
「桔川の後ろには、守護霊というものが見えません。これほどの人格者なら、どんな古強者が付いているのかと思ったのですが」
安部は、少しだけ目を細めて笑う。
「守護霊とて、常に背後に立つ必要はなかろう。彼に助けを入れる必要が、まだないのだ。本当に強い者には、見守るだけで十分なのだ…」
将吉は、ジョッキを傾けながらもどこか泰然とした桔川の横顔を、値踏みするように見つめた。
四月のコピー機騒動の際、彼が正博に浴びせた怒声は、将吉の耳には「荒っぽいだけの古参兵」のように聞こえたものだった。だが、この数ヶ月、正博の背後でオフィスという名の戦場を観察し続けてきた将吉は、安部や景隆、あるいは次郎座衛門ら「時代を創った者たち」が、なぜこの桔川という男を高く評価しているのか、その理由をはっきりと見抜いていた。
桔川の真骨頂は、その「言語化」の鋭さにあった。
「IPOを目指す」という、部下にとってはどこか浮世離れした経営戦略を、彼は決してスローガンのままにはしておかない。
今の市場環境がどうあり、競合がどこを狙い、ゆえに我が社はどう動くべきか。その戦術の青写真を、彼は驚くほど明晰な言葉で部下に叩き込む。
それだけではない。正博が今、目の前のExcelに入力している一行の数字が、その巨大な戦略のどの「歯車」に繋がっているのかを説く。
(……『作戦の目的』を、一機一機の搭乗員に理解させる。それができる指揮官は、そうはいない)
将吉は心の中で頷いた。
そして、最も特筆すべきは、彼の「叱責の流儀」だった。
桔川は、部下が失敗した際、決して「お前はダメだ」という人格否定を口にしない。批判の銃口は常に「人」ではなく「コト(事象)」に向けられている。
「なぜ、このロジックが破綻したのか」「どの事実を見落としたから、この問題が起きたのか」。
徹底して「事」を解体し、論理的な欠陥を指摘する。ゆえに、叱られた正博は、人格を傷つけられた絶望に滅入ることなく、「次は何を修正すべきか」という具体的な行動へと、迷わず意識を切り替えることができるのだ。
営業企画という、他部署との利害が交錯するミドルオフィスにおいて、桔川は「調整」ではなく「構造化」で勝負する。
トラブルが起きれば、自ら火中に飛び込み、目的、事実事象、問題点、そして真の論点がどこにあるのかを鮮やかに交通整理してみせる。自らも当事者として泥を被りながら陣頭指揮を執るその背中は、組織の壁に阻まれて立ち往生する部下たちにとって、最も信頼できる「防波堤」だった。
(……軍隊でも、全く同じことだ)
将吉は、かつての戦友たちの顔を思い浮かべる。
無能な指揮官ほど、命令の根拠を説明できず、部下の勇気を削ぐような人格攻撃に走り、責任の所在が曖昧な混乱の中で部下を迷わせる。桔川という男は、その「無能の鏡」の真逆、完璧な対極に位置していた。
「……正博、お前は良い上官を持ったな」
ジョッキ越しに呟いた将吉の言葉は、ビールの泡に消えた。だがその眼差しは、桔川という「現世の将」に対し、一人の兵士としての深い敬意を湛えていた。
「……なるほど。指揮官が優秀であれば、我らのような存在が出る幕はない、というわけか」
――――
「――だが、平和な談義は、ここまでにしておいた方が良さそうだぞ」
低く、重厚な声が響いた。山岡景隆だ。
彼はいつものように剛毅な佇まいで、だがその眼光には、平時とは違う鋭利な緊張が宿っていた。
「景隆殿」
将吉が背筋を伸ばす。
「由梨江殿も、実に良くやっております。彼女の才には、正博も救われているようです」
「うむ。だがな、将吉。今日は、貴殿に会わせておきたい者がおる」
景隆が、自分の背後の「影」を促すように一歩退き、
「……由梨江の真の守護、その魂の根源だ」
その剛毅な顎をしゃくり、背後の影を促した。現れたのは、一人の女性だ。
「お志乃よ。挨拶をせよ。将吉殿は我らと同じく、義によって結ばれた縁の者だ」
その呼び声に応じるように、静寂の中から彼女が半歩、前に出た。
その容姿は、現世のデスクでキーボードを叩く由梨江の面影を、より研ぎ澄ませ、冷徹なまでの機能美へと昇華させたようだった。
透き通るような白い肌は、有楽町の夜の湿り気を一切寄せ付けぬほどに滑らかで、月の光を吸い込んで淡く発光しているかのようだ。その奥に据えられた双眸は、すべてを見透かし、情報の海から真実のみを掬い上げる、凛として鋭い光を湛えている。艶やかな黒髪は、余計な装飾を排した一本の銀のかんざしによって、後頭部で寸分の狂いもなくまとめられていた。
一筋の乱れもないその佇まいは、彼女自身が一本の研ぎ澄まされた刃であり、いかなる場にも音もなく溶け込む「潜伏のプロフェッショナル」であることを無言のうちに物語っていた。
「伯父上様。今はもう、その『お』は不要にございます」
志乃は、鈴の音を氷で割ったような、低く、そして無駄のない声で遮った。
「もはや平成の世。この時に溶け込み、由梨江の影として機能するには、ただ『志乃』と呼んでいただくのが最善かと。……古き名に固執するのは、情報の循環を滞らせるだけです」
景隆は、面白そうに鼻を鳴らす。
「ふん、相変わらず堅苦しい。だがその、風を読み、場に馴染むために自らを律する合理性……。それこそが、山岡の『草』の証よな。よかろう、志乃。お主の流儀、ここで見せてもらうとしよう」
志乃は無表情のまま、だが静かな敬意を込めて首肯した。その視線は既に、将吉のさらに先、北方の凍土から流れ込む「見えない脅威」の核心を捉えていた。
「山岡志乃、と申します」
僅かに茶色がかった大きな瞳で、将吉を見据え、しめやかに挨拶をする志乃。
景隆の弟であり、徳川家に仕えて甲賀組の基礎を築いた山岡景直の娘。幼少より、潜入、潜伏、諜報の術を、その指先と脳髄に叩き込まれてきた、山岡家の「裏」を担う者。
由梨江の持つ、どんな環境にも一瞬で馴染む擬態のような順応性。膨大なデータをハッキングするように解明する情報処理能力。それらすべての源流が、今、目の前に立つ女性にあることを、将吉は直感した。
将吉は、彼女が放つ、景隆の「武」とはまた違う、静謐で冷徹な気配に気圧されそうになった。
また彼女の装束は、異様でありながらも、究極の機能美を湛えていた。
墨色の小袖の上に重ねられているのは、黒い革と厚手の布で堅牢に作られた、無骨な「胴掛け」だ。それは現代のタクティカルベストのようでもあり、現世の特殊部隊の防具のようでもある。その隅には、黒糸でひっそりと、だが誇り高く山岡家の家紋が刺繍されていた。
野袴を脚絆で締め、足元は一切の音を消す地下足袋。
そして、最も将吉の目を引いたのは、彼女の首元だ。
和装には到底不釣り合いな、重厚なウール製のストール。
それは安曇野や近江の織物ではない。凍てつくような北方の風を防ぐために編まれたであろう、異国の――ロシアの古い家庭で愛用されるような、灰色のマフラーだった。霊体とは言え、真夏の有楽町の夜にはとても似つかわしくない。
「……お志乃よ。挨拶はそれまでだ。まずは、報告を聞こう」
景隆の声が、夜の冷気を含んで低くなる。
志乃は、その灰色のマフラーを軽く整えると、将吉の瞳を真っ直ぐに見据えた。 彼女の瞳は、まるで深い海の底のように冷たく、透き通っている。
「はい。……異国の地、シベリアから、鬼が紛れ込んできているのは間違いございません」
その言葉が放たれた瞬間、ビアガーデンの喧騒が、一瞬だけ遠のいたように感じられた。不吉な絵を結び始めるがごとく話を続ける。
「尼港……。かつて、多くの同胞が散り、怨念が凍土に刻まれたあの地から、黒い風が吹き始めております。……将吉殿。これはもはや、単なる一族の守護では済みませぬ…」
志乃の声は、有楽町の夜風に混じり、どこまでも冷たく、鋭く響いた。
「尼港……!?……親父が、戦死した場所だ……」
将吉の口から漏れたのは、祈りのような、あるいは呻きのような掠れた声だった。 戦国という、自分よりも遥か昔の時代を生き、情報の海を泳ぐ「草」である志乃。
その唇から、一九二〇年の凍土に刻まれた凄惨な地名が発せられたことへの困惑が、一瞬遅れて脳を揺さぶる。
だが、その困惑を塗り潰すように、遠い幼少期の記憶が鮮烈な色彩を帯びて蘇った。信州の澄んだ、しかし刺すように冷たい風が吹く日だった。
父・善吉の戦死を告げる公報が届いた時の、あの凍り付いたような沈黙。家全体、いや、一族や村を挙げて行われた葬列の、重苦しい野辺送りの音。立ち込める線香の匂いの向こう側にあったのは、泣き叫ぶ親族たちの声ではない。
ただ一人、泣かずに前を見据えていた母の横顔だ。
母はまだ幼い妹の花子を背負い、溢れそうな涙をその瞳の奥に閉じ込めていた。そして、父の不在というあまりに巨大な現実を前に、小刻みに震えていた少年の将吉の手を、折れんばかりの力で繋いでいた。母の手の温もりと、その奥に秘められた絶望と誇り。それが、将吉にとっての「尼港」という言葉の原風景だった。
「…………」
将吉の背後で、ガチリ、と硬質な金属音が響いた。
それは、主の魂が、かつての悲劇と現代の異変を結びつけた瞬間の、無意識の緊張に呼応したものだった。背負った九九式小銃のボルトが、主の憤りと呼応するように微かに鳴り、七・七ミリの銃身が冷たい殺気を帯びる。
有楽町のビアガーデンを吹き抜ける夏の湿った風が、その一瞬、将吉の鼻腔にはシベリアの凍てついた黒い風として感じられた。
「……そうか。父を、俺たちから奪った連中の残滓が来ているのか…。」
将吉の眼差しから、ビールの酔いによる微かな温かみが完全に消え失せた。そこにあるのは、死線を越えた飛行兵の、獲物を逃さぬ冷徹な照準だった。
第二章はここまで。
続いて第三章「1920年 シベリア編」に移ります。




