19200312 白銀の地獄
有楽町の喧騒が、ふっと遠のいた。
ビルの合間を抜ける夜風が、場にそぐわない鋭い冷気を孕んで渦巻く。
「……尼港」
志乃の唇から漏れたその地名が、凍りついた言霊となって夜空に消えた。
将吉の背筋に、峻烈な電撃が走る。その刹那、背後の闇を割って、一人の男が静かに姿を現した。
小林善吉。マリアナの海に散った将吉の父であり、かつてシベリアの最果てで地獄を見た男だ。
「そうか。あの後、奴らは悪落ちしたのか……」
善吉は、遠い目をして吐息を漏らした。その声は、数十年分の氷を溶かしたような、重く湿った響きを帯びている。
「善吉っつあん。そうだよなあ。おぬしがどんな思いで故郷に帰ってきたのかを思えば……」
次郎座衛門が、自慢の白い顎髭を慈しむようにさすりながら、静かに同調した。
将吉は、目の前の父の姿を凝視した。幼少期に戦死した父。
当然だが、大人になってから、父とまともに言葉を交わしていない。冥土の安曇野での邂逅も、互いに武人としての沈黙を貫いてしまっていた。
「お、おとう、お父……さん。何があったのか、教えてくれませんか」
呼び方に迷い、喉に閐えながらも、将吉は父の瞳の奥にある「因縁」の正体を問うた。
善吉は、一度吐き出した冷気を、今度は肺の奥深くまで吸い込み直した。
「話しておこう。自分たちが、あのアムールの河口で……何を見て、何を失ったのかを」
善吉の指先が虚空をなぞると、強烈な思念の波が、将吉、志乃、そして安倍たちの精神へと流れ込む。
――――――――
一九一九年末の冬。
アムール川の河口に位置するニコラエフスク(尼港)は、世界から隔絶された白銀の墓標であった。
海軍無線電信所に籠もる小林善吉曹長の指先は、凍てつくキーを叩き、シベリアの闇へと電波を放ち続けている。零下四十度の冷気は、石造りの壁を透かし、防寒服の隙間から命を削り取るように這い入った。吐く息は瞬時に白く結晶し、微かな火を灯したストーブの熱さえも、広大な原野の孤独の前には無力に思えた。
「……小林。貴様、その薄着で平気なのか。自分は静岡の生まれでな、この寒さは……魂まで凍りつきそうだ」
傍らで、守備隊指揮官の榊原大尉が、軍服の襟を立てて身を縮めていた。静岡の穏やかな海を知る大尉にとって、この凍てつく最果ては異界に等しい。
善吉は、ダイヤルから目を離さずに、白い歯を見せて笑った。
「自分は信州の深山育ちですから。そりゃあシベリアは格別ですが、故郷も冬になれば似たようなもんであります。……大尉、どうです、景気づけに一杯。地元のロシア人から『これさえあれば熊とも踊れる』と譲り受けたウォッカです。こりゃあ、ききますよ」
善吉が差し出した水筒を、大尉が冷えた指で受け取る。一口煽ると、強烈なアルコールが喉を焼き、肺腑に小さな熱を灯した。
「……カァーッ! 確かに、これは熊も退散するな。……ありがたい、小林。生き返るようだ」
上官と部下。
だが、文明の届かぬ極寒の前線において、二人の間には階級を超えた、戦友としての分かちがたい信頼が流れていた。信州の雪、静岡の海。互いの故郷の話だけが、凍土に縛られた彼らの唯一の救いだった。
一九二〇年二月七日。
その絆は、パルチザンによるチヌイラフ要塞砲撃の際、火を吹く瓦礫の中でさらに強固なものとなった。爆風で電信室が吹き飛んだ直後、意識を失いかけた善吉を救い出したのは、血まみれになった大尉の声だった。
「生きているか、小林ッ! 返事をしろ!」
瓦礫を掻き分け、自分を引きずり出した大尉の手の力強さを、善吉は魂に刻み込んだ。
その大尉が、退却戦の最中に下腹部を撃ち抜かれ、青白い顔で
「任務を……完遂せよ」
と呟きながら命を散らすのを見届けた時、善吉の心の中で何かが決定的に壊れ、そして研ぎ澄まされた。
――――――
一九二〇年二月末。
尼港に進駐してきた赤軍パルチザンの軍勢は、当初の「解放軍」という触れ込みとは裏腹に、統制を失った飢えた野獣の群れへと変貌を遂げていた。
その数、四千。
地元ロシア人のみならず、行き場を失った放浪者や賊徒、さらには過激な思想に突き動かされた異国のならず者たちが混じり合う、混沌とした武装集団である。
彼らにとって、ニコラエフスクの街は巨大な「獲物」に過ぎなかった。
善吉が守備に就く領事館の窓越しに見える市街地からは、連日、民家の扉を蹴破る音と、略奪を拒む市民の悲鳴、そして略奪品の酒で酔い痴れた暴徒たちの下品な笑い声が風に乗って流れてくる。
「……これが革命というやつか。ただの追い剥ぎじゃねえか」
善吉は銃を握りしめたまま、吐き捨てるように呟いた。
だが、事態はさらに最悪の局面へと向かう。
三月十日、パルチザン側は駐留する日本軍に対し、最後通牒とも言える傲慢な要求を突きつけてきたのだ。
『日本軍の完全なる武装解除』。
それは軍人にとって、死よりも屈辱的な宣告であった。
「……連中の狙いは、我々の武器を奪い、丸裸にしたところで皆殺しにすることだ。そんな真似をさせるくらいなら、武士らしく華々しく散る道を選ぶのが、日本男児というものだろう」
同地に駐留する陸軍部隊との折衝から戻ってきた指揮官の石川少佐は、苦渋に満ちた表情で部下たちに告げた。善吉たち無線隊の面々も、その言葉に静かに頷いた。もはや外交交渉の余地はない。
三月十二日、午前二時。日本軍は、誇り高き反撃――「決起」を開始した。
決起直後、日本軍の奇襲は一時的に赤軍を圧倒した。
しかし、多勢に無勢。四千の暴徒を相手にするには、あまりにも戦力が不足していた。夜が明ける頃には、パルチザンの逆襲が始まり、日本軍は市街地の各所で孤立していく。
その後、アムール川の凍てつく空気に、予期せぬ重低音が響き渡った。
善吉は領事館の窓越しに、氷の隙間に浮かぶ中国北洋政府艦隊の砲艦を見つめた。本来ならば、彼らは在留中国人の保護を任務とし、日本軍とも友好的な関係を築いてきたはずだった。だが、その砲門がゆっくりと、日本側の拠点へと向けられていく。
ズドォォォォンッ!
凄まじい衝撃波が領事館を揺らし、石造りの破片が善吉の頬を掠めて背後の壁に突き刺さる。
「くそっ、味方じゃなかったのかよ! 中国の連中まで……!」
善吉が思わず叫んだ時、隣で双眼鏡を覗いていた石川少佐が、低く、しかし確信に満ちた声でそれを遮った。
「……待て、小林。奴ら、本気じゃないぞ」
「えっ?」
「今の着弾を見ろ。あれだけの至近距離だ、本気で狙えば一撃でこの建物は崩落している。……奴ら、わざと急所を外して撃っているんだ。形ばかりの砲撃で、赤軍の目を誤魔化している」
石川大尉の言葉通り、続く砲弾も領事館の屋根を大きく飛び越え、背後の空き地で無害な雪煙を上げた。
中国艦隊もまた、絶望的な状況に置かれていたのだ。陸上戦力を持たない彼らは、四千の赤軍に艦を取り囲まれ、「協力しなければ全艦沈め、在留中国人も皆殺しにする」という非道な脅迫を受けていた。
「……同じ海軍だ。あの艦長も、断腸の思いで引き金を引かせているんだろう。ガトリング砲や大砲を赤軍に供与させられたのも、せめてもの延命策に違いない」
大尉の瞳には、敵対せざるを得なくなった友軍への、深い同情の念が浮かんでいた。だが、赤軍は容赦がなかった。供与されたガトリング砲を奪い取ると、彼らはそれを日本軍に向けて狂ったように掃射し始めた。
―――――
領事館の無線室。善吉は南部式大型自動拳銃の弾倉を抜き、残弾を数えていた。
八発。あまりにも心許ない。窓の外では、日頃から交流のあったロシア人夫人が必死に門を叩き、逃げ込もうとしていた。
石田領事は苦渋の表情で、彼女を諭す。
「奥さん、ここにはもう希望はありません。我々日本人は死を覚悟しています。あなたが生存を望むなら、一刻も早くここを離れなさい。……行きなさい、早く!」
善吉は、そのやり取りを横目に、ふと奥の部屋の光景に目を奪われた。
石田領事夫人が、まだ四歳に満たない幼い娘に、鮮やかな「晴れ着」を着せようとしていたのだ。
「さあ、綺麗にしましょうね。今日は……特別なパーティーがあるのよ。お母様とお揃いの、一番綺麗なおべべを着ましょう」
夫人の瞳からは、溢れる涙が止まらない。だが、娘を不安にさせまいと、無理に作った微笑みが、かえって痛々しかった。何も知らぬ娘が、首を傾げて母の頬を撫でる。
「お母様、どうして泣いているの? 怖い人が来るの?」
「いいえ……怖くないわ。ちっとも怖くないのよ。ほら、見て。このお花模様、とっても可愛いわ……。」
せめて、最後は一番綺麗な姿でいさせてあげたい……。神様、どうかこの子に、恐怖だけは与えないでいてほしい。
夫人は、震える手で娘の帯を締め、彼女は震える声で口ずさみ始めた。娘を、そして自分自身の心を落ち着かせるために。
「♪ 兎追いし かの山……小鮒釣りし かの川……」
それは、生きて帰れぬ戦場における、母としての最後の慈しみであり、あまりにも美しすぎる死装束。善吉は、信州に残してきた妻・やえと、幼い将吉の顔を思い浮かべた。まだ見ぬ花子の名前を胸の中で呼び、南部式の冷たい重みを掌に刻みつけた。




