20110311 大地震の日 呑川緑道
二人が歩き出した道中は、まさに異様な光景の一言に尽きた。
普段ならきらびやかなネオンが輝く大都会の夜。
しかし今夜は、重苦しい闇が牙を剥いている。
背広姿の男たちや、オフィスレディの格好をした女たちが、果てしない列をなして、言葉もなく、ただ黙々と、ひたすら前だけを向いて歩いていた。
中には、やはり靴を替えることができず、高いヒールのまま足を引きずり、痛痛しい表情で顔を歪めながら歩く女性の姿も散見された。
そのたびに由梨江は、自分の足元のピンク色の温もりを確かめ、正博の後ろ姿を見つめ直すのだった。
やがて、辺りが完全に夜の闇に包まれると、大地の裂け目や人々の放つ「恐怖」の情念に引き寄せられるようにして、現世の人間には見えない「鬼たち」が路地裏や高架下から散発的に湧き出してきた。
どす黒い霧のような身体に、不気味な赤い目を光らせた異形の化け物どもが、疲れ果てた徒歩帰宅者たちの生気を吸い取ろうと、音もなく背後から手を伸ばす。
「――そこまでだ、醜鬼め」
正博たちのすぐ数歩後ろを並走していた志乃が、鋭い呼気とともに動く。
現世の人間には全く見えない光の軌跡。
両手に握られた二振りの短刀が、風を切り裂いて鬼の胴体を一文字に両断する。
ギャアッという無声の悲鳴を上げて、鬼が霧霧となって霧散していく。
さらに、大通りの影から這い出そうとする巨大な蜘蛛のような鬼の群れに対し、将吉が機械的な正確さで四式小銃を構えた。
「子孫の道を邪魔するな。失せろ!」
引き金が引かれるたび、霊力によって精製された弾丸が吸い込まれるように鬼の眉間をぶち抜き、爆発的な光とともに闇を浄化していく。
将吉と志乃だけではなかった…。
周囲を見渡せば、黙々と歩く無数の人々の頭上や背後で、それぞれの家系の、汗と血を流して歴史を生き抜いてきた「先祖たち」が、ある者は日本刀を振るい、ある者は祈りの光を放ちながら、愛する子孫たちを守るために必死に暗躍し、化け物どもを片っ端から圧殺していた。
現世のサバイバルの裏側で、彼岸の防衛戦もまた、苛烈に繰り繰り広げられていたのだ。
そんな霊的な激戦が繰り広げられていることなど露知らず、正博と由梨江は、どうにか最初のチェックポイントである品川駅へと到着した。
ここでも交通網は完全に麻痺したままで、駅前は溢れかえった人でごった返している。
ただ、不思議なことに、周辺の居酒屋は、多くが明かりを灯して営業を続けていた。
「……あ、お店、開いてますね」
「本当だ。金曜日の夜だから、きっと宴会が全部キャンセルになっちゃったんだろうね。仕入れた食材を無駄にしないために、店を開けてるのかもしれない」
「…夕飯‥食べていきませんか…」
「そうだね、これから長く歩くし。そうしよう」
正博が目星をつけた一軒の居酒屋に、二人は滑り込むように入った。
店内は同じような徒歩帰宅の途中で暖を取りに来た人々で満席に近かったが、運よく空いたカウンター席に滑り込むことができた。
「とりあえず、お酒はほどほどにして、エネルギーになるものを食べよう」
正博は焼き鳥や温かい煮込み、おにぎりなどを注文し、二人は少しばかりのアルコールで乾杯した。
温かい食べ物が胃に落ちると、張り詰めていた緊張が肉体から解き放たれ、自然と二人の口から様々な会話が溢れ出す。
「実は私、秋田には本当にたくさんの親戚がいるんです。小さい頃から、初孫だからってみんなにちやほやされて、過保護なくらいに育てられて……。だから、今みんながどうしているか、本当に心配で」
由梨江はグラスを見つめながら、ぽつりと言う。
「でも、さっきお店のテレビのニュースを見たら、秋田よりも、太平洋側の方が、比べ物にならないくらい深刻のようで……。もちろん秋田のことも心配なんですけど、自分の田舎より大変な場所があると思うと、なんだか複雑な気持ちになっちゃって」
正博は、静かに彼女の言葉を受け止め、真っ直ぐにその目を見つめた。
「複雑になる必要なんてないよ、山岡さん。大切な人を心配するのは当たり前のことだ。今は、まず僕たち自身ができることをしよう。一歩ずつ進んで、状況がはっきりしてくれば、ゆくゆくは色んなことが見えてきて、だんだん良くなるはずだから。絶対に大丈夫だ」
「先輩……」
正博のその、気負いのない、しかし地に足のついた励ましに、由梨江は深く頷き、ようやく少しだけ表情を和らげた。
――――
店を出て、再び一号線に向かって歩き出した道中、二人はこれまでの人生の様々な思い出を語り合った。
「信州の冬も厳しいけど、秋田の雪もすごそうだよね」
「もう、本当に大変なんですよ! 小学校や中学校の登校の時なんて、吹雪で前が見えなくて、遭難するかと思いましたもん」
「あはは、分かる。だからこそ、春が来た時のあのワクワク感、たまらないよね。あたたかい風が吹いただけで、世界が変わったみたいに嬉しくなる」
正博が高校時代、気になる女の子にまともに話しかけられなかったヘタレなエピソードを披露すると、由梨江は声を上げて笑った。
「えー! 先輩、そんなにヘタレだったんですか!? 今の仕事の姿からは全然想像できない!」
「いやいや、本当にダメダメだったんだよ」
東京に出てきて、日々のビジネスの荒波に揉まれながらも、二人の根底には、信州と秋田という、美しい故郷への強い「郷愁の念」が共通して流れていた。
親戚の話、家族の話、話題は尽きることなく、冷たい夜道を歩く足取りを確かに支えていた。
さらに進み、喉の渇きを潤そうと、道すがらにあったコンビニへと立ち寄った。
しかし、自動ドアをくぐった二人が目にしたのは、完全に空っぽになった白い棚の列だった。
おにぎりやパン、ミネラルウォーターやカップ麺の類は一品残らず売り切れており、災害の凄まじさを物語っていた。
「うわあ、本当に何もないな……」
諦めかけたその時、ホットドリンクの什器の奥に、わずかに残った温かいブラックコーヒーの缶を二本見つけた。
「これにしよう」
正博がレジへ持っていくと、そこには、耳にピアスを開け金髪の、いかにもチャラそうな若いアルバイトの男の子が立っていた。
彼は手際よく会計を済ませ、お釣りとコーヒーを渡す際、正博と由梨江の目をしっかりと見て、ボソッと、しかし温かい声で告げた。
「……ご帰宅、頑張ってください」
「――え」
正博と由梨江は、思わず顔を見合わせる。
見た目で人を判断してはいけないが、そんな意外な人物から、この極限状態の中でさりげない「人の優しさ」を受け取るとは思ってもみなかったのだ。
「……ありがとうございます。頑張ります」
正博が笑顔で答えると、その男の子は少し照れくさそうに鼻を擦った。
店を出て、二人は缶コーヒーを開け、あたたかい缶を手に空を見上げる。
どんよりと重く曇っており、まだまだ冬の厳しい冷気が肌を刺す。
けれど、二人の心の中には、コーヒーの熱とともに、温かい気持ちがじんわりと広がっていた。
そうして一歩一歩、励まし合いながら歩みを進め、ついに大岡山と都立大学の間にある、由梨江のアパートの前へとたどり着いた。
時刻はすでに深夜を大きく回っている。
「……着きました。ここが、私の家です」
由梨江はアパートの階段の手前で立ち止まり、少し恥ずかしそうに俯いた。
「私の住んでいるところ、先輩に分かっちゃいましたね……」
正博が以前トラックに跳ねられて入院した際、母の和美と一緒に正博のアパートに赴いた事は、あえて伏せたまま、由梨江は悪戯っぽく微笑んだ。
アパートの前には、呑川の上流にあたる道が伸びている。
整備された美しい緑道には、見事な桜の木々がどこまでも連なる。
「無事に送り届けられて良かった。じゃあ、僕はまだ先があるから、行くね」
正博はリュックを背負い直し、じゃあね、と手を振って歩き出そうとした。
由梨江が慌てて声をかける。
「あ、先輩! この林道をまっすぐ下っていけば、中原街道と呑川が交差するところにでます。川沿いをずっと下っていけば、千鳥町もすぐ近くになりますから!」
「そっか、ありがとう! 助かるよ」
正博が「じゃあ、山岡さんもゆっくり休んで」と二、三歩歩き出した、その時‥‥。
由梨江の胸の奥から、あの日比谷公園での恐怖、スニーカーを買ってきてくれた正博の背中、道中で話した楽しい思い出、そして事故の日以来胸の奥にしまわれていた淡い思い、そのすべてが、一つの強い感情となって溢れ出しそうになった。
今この瞬間を逃してはいけないという衝動に駆られ、思わず声を張り上げ。
「あ、あのっ……! 先輩!」
正博が不思議そうに振り返った。
「ん? どうしたの?」
その、いつもと変わらない、どこまでも優しく穏やかな眼差しに見つめられ、由梨江は急に口元がもごもごと言葉を失ってしまった。
(こんな震災の時に‥‥でも……どうしても、この人と次の約束がしたい……!)
意を決して、胸いっぱいに吸い込んだ冷たい空気を、白い息とともに吐き出しながら叫んだ。
「あのっ! こんな時に不謹慎かもしれないんですけど……ここの桜並木、すっごく綺麗なんです! だから……暖かくなったら、お花見しませんか……!?」
精一杯の思いが詰まった「お誘い」。
正博は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにいつもの、屈託のない爽やかな笑顔を浮かべて答えた。
「いいねいいね、お花見しよう。ぜひしよう…じゃあ、また!」
正博はそう言って、再び元気に手を振り返すと、夜の闇が包む呑川の緑道をスタスタと力強い足取りで歩き去っていった。
アパートの階段の途中で足を止め、正博が消えていった暗闇を、由梨江はいつまでも、いつまでもじっと見つめていた。
口から吐き出す白い息が、冷たい夜風に吹かれてハラハラと消えていく。
未曾有の大震災によって、世界は激しく揺らぎ、傷ついている。
けれど、足元を包むピンク色のスニーカーと、その胸の奥に灯った小さな火種は、春の訪れを待つかのように、どこまでも温かく、由梨江の心を照らし続けていた…。




