20110311 大地震の日 徒歩帰宅
日比谷公園の刺すような寒さのなかで数時間を過ごした後、Rコンサルタントの面々は、断続的に続く不気味な余震に足元を脅かされながらも、オフィスへと戻ってきた。
しかし、執務室の中に流れる空気は、先ほどまでの平穏とは一変し、誰もが次の行動指針を求めて張り詰めた面持ちで立ち尽くしていた。
社長や取締役といった経営幹部が、出先での被災により未だ連絡が取れないという非常事態。その混乱の沈黙を破ったのは、オフィスの中心、ホワイトボードの前に毅然と歩み出た人事部長・蓮見だった。
彼は全員を見渡すと、よく通る声で、しかし極めて冷静に告げた。
「皆さん、よく聞いてください。本日の業務はこれをもって完全に停止します。何よりも身の安全を第一に考えて行動してください」
蓮見は一度言葉を切り、深く息を吸い込み。
「ご家族の事情やご自宅の状況など、皆さんそれぞれ異なる背景があると思います。そのため、今から帰宅することも、このままオフィスに残って夜を明かすことも、どちらの選択も可とします。ただし、帰宅することを選んだ方は、単独行動は絶対に避け、なるべく同じ方面のメンバー同士でグループを組んで一緒に帰るようにしてください」
その言葉には、組織を預かる管理職としての圧倒的な覚悟が滲んでいた。
蓮見の自宅にはまだ幼い二人の娘がいる。
父親として、今すぐにでも飛んで帰りたいはずだった。
それでも、この首都崩壊とも言える状況を前に、「今、ここで自分が差配しなければ、このセクションの誰も動けなくなる」という強烈な責任感が彼をその場に踏みとどまらせていたのだ。
「私はこのオフィスに残り対応にあたります。携帯電話は極めて繋がりにくい状況ですが、地方や有線の固定電話は比較的繋がりやすいはずです。緊急の連絡があれば、会社の固定電話に直接入れてください」
さらに蓮見はホワイトボードに素早く文字を書き走らせながら。
「先ほどなんとか大阪支社との連絡を確保しました。大阪支社では今夜、当直として数名の社員が常駐してくれるとの事です。本社に電話が繋がらない場合は、大阪支社に連絡を入れて指示を仰いでください。ルートは確保してあります。焦らず、各自の判断で動いてください」
その明確で揺るぎない指示を聞き、張り詰めていた社員たちの表情に、目に見えて安堵の色彩が戻っていく。
蓮見が指示を出し終えたその時、オフィスの重い扉が開き、出先から戻ってきた桔川課長、江藤、山川の三人が姿を現した。一七階までの階段を登り、息を切らせた彼らの無事な姿を見て、正博は胸の奥をなでおろすような安堵感を覚えた。
「ああ、みんな無事だったか……!」
すぐに営業企画メンバーが集まり、各々の選択について話し合いが始まる。
真っ先に口を開いたのは安江。
彼女の顔からは血の気が引き、その視線は虚空を彷徨っている。
「私……どうしても自宅に戻りたいです。岩手の実家がどうなっているか……テレビの映像を見ていたら、じっとしていられなくて。一刻も早く家に帰って、何でもいいから連絡を待ちたいんです」
震える安江の肩を、江藤が優しく叩く。
「安江さん。俺と山川も同じ丸の内線方面だから、一緒に歩いて帰りましょう…」
「ありがとう、江藤くん、山川くん……」
一方で、常に冷静沈着かつロジカルな思考を持つ課長の桔川は、この極限状態にあっても一切の動揺を見せず、すでに世田谷方面の最短ルートとリスクを頭の中で弾き出していた。
「よし、世田谷方面の面々は俺に付いてこい。周辺の混雑状況を鑑みて、休憩を挟みながらグループで移動する。無茶な歩き方はするな~、俺の指示に従え~」
淡々と合理的な指示を出す桔川課長だったが、彼の自宅には小学生の男の子と女の子がいる。ロジカルな言葉の裏には、一人の父親として我が子の安否を冷静に、かつ強く想う熱い決意が隠されていた。
そして、オフィスに残ることを選択した者たちは、早々に長丁場の備えを始めていた。
更衣室から毛布を引っ張り出して床に寝床を作る者、近所のコンビニへ食料の買い出しに駆け込む者など、執務室は瞬く間に避難所の様相を呈していく。
正博はといえば、あの激しい縦揺れと横揺れを思い返し、大田区にある自分のアパートの状況が気が気ではなかった。
(最近買ったばかりのパソコン・・無事かな・・・棚の上はどうなっているだろう‥‥)
部屋の散らかり具合を早く確かめたいという思いから、帰宅する決意を固めていた。
周囲を見渡すと、城南方面(大田区方面)で同じ帰宅路になるのは後輩の由梨江だけだ。
「山岡さん、どうする? 残る、それとも……」
「私も、帰ります」
由梨江は肩掛けバッグの紐を強く握り締めながら答える。
「秋田の実家や親戚のことが心配で……。幸い、部屋には固定電話を引いているんです。明日からの土日を考えると、携帯がダメでも、家に戻れば何とか向こうと連絡が取れるかもしれないから」
「よし、じゃあ二人で大田区を目指して歩こう」
コートをしっかりと着込んだ二人は、桔川たち、そして蓮見に一言挨拶を残し、暗転し始めた東京の街へと踏み出していった。
――――――
現世の二人がビルの階段を下りていくその様子を、オフィスの天井付近の虚空から静かに見守る半透明の影。大叔父・将吉。
「正博、気を引き締めろ」
将吉が低く呟いたその時、傍らの空間が淡い光を放ちながら揺らめいた。
「――将吉殿、お待たせいたしました」
それは、有明の鬼たちとの壮減な大戦において、ヤーコフたちに囚われ、その凄まじい霊気を限界まで吸い尽くされてしまっていた志乃の姿だった。
近江安土の沙沙貴神社で深い静養の眠りにつき、かつての清らかな神聖さと満ち満ちる霊力を完全に取り戻して、ここに還ってきたのだった。
「志乃さん……! すっかり良くなったのだな。良かった」
「ええ、もう万全です。……二人の道中には、現世の災害だけでなく、目に見えぬ大いなる闇が迫っています。共に行きましょう」
二人が頷き合ったその瞬間、空間が急激に歪み、一人の男の霊体が姿を現した。
安江の守護霊の安倍。
しかし、その顔を見た将吉と志乃は息を呑んだ。
いつもは飄々としている彼の目元から、大粒の涙がとめどなく流れ落ちていたからだ。その全身から、言葉に尽くせぬ絶望と哀しみの思念が爆発するように溢れ出ている。
「……安倍殿…どうしたのだ」
「……今、この瞬間にも……かの地で、あまりにも多くの命が、運命という名の残酷な濁流に呑み込まれている……。抗えない……誰の力をもっても、この凄まじい自然の猛威と、定められた天命には抗えないのだ……」
安倍の声は激しく震え。
「所縁のある先祖会が、総出で、子孫たちを、現世の人々を助けようと動いている。だが、ダメなのだ……。あまりにも巨大な力の前に、老若男女、多くの命が、今、黄泉の門をくぐってこちらへ押し寄せてきている……」
その瞬間、安倍の強い思念が将吉と志乃の脳裏に直接共有された。
ニュース映像など比較にならない、生々しい阿鼻叫喚の光景。
真っ黒な、家をも飲み込む巨大な水の壁が、美しい沿岸の街を、そこに生きる人々の笑顔ごと一瞬にして押し流していく地獄絵図。
「っ……!!」
将吉はあまりの惨状に絶句し、志乃は小さな悲鳴を上げてその口元を両手で覆った。霊体である彼らでさえ、その魂が引き裂かれそうなほどの巨悪な悲哀のエネルギーだった。
「……私にできることは、もう多くない」
安倍は涙を拭い、虚空を見つめた。
「我が子孫である安江紀子…、これから故郷と親族の惨状を知り、言葉に尽くせぬほど辛く、苦しい思いをすることになるだろう。だから私は、今はただ、そっと彼女の背中に付き添って、この大混乱の夜道を、せめて安全に送り届けてやることしかできない……」
そう呟くと、安倍は安江を追うようにして静かにその場から消え去っていった。
「志乃さん」
将吉は四式小銃の薬室に霊力に満ちた弾丸を装填した。
「国が揺らぎ、人が弱る時、負の感情を糧にする鬼どもが地の底から湧き出るのは古今東西の常だ。東北の同胞たちのために祈ることもできぬ今の俺たちにできることは、ただ一つ」
「ええ」
志乃の両手には、鋭い輝きを放つ二振りの短刀が握られていた。その美しくも冷徹な瞳が、暗黒に包まれつつある東京の街を見据える。
「私たちの、大切な子孫を、何があっても守り抜く。行きましょう、将吉さん」
―――――
正博と由梨江がまず向かったのは、新橋駅。
地下鉄やJRが万が一にも動いていないか、その一縷の望みを確認するためだ。
しかし、SL広場前に到着した二人が目にしたのは、異様なほどの人だかり。
帰る手段を失った無数のビジネスパーソンが広場を埋め尽くし、駅の入り口には黄色い規制線が張られている。
拡声器を持った駅員が、声を枯らし。
「現在、すべての路線で運転を見合わせております! 再開の目処は全く立っておりません! 駅構内への立ち入りはできません!」
「やっぱり、ダメか……」
正博は溜息をつき、隣の由梨江を見た。
「大丈夫です」と健気に微笑んでみせたが、その足元は、普段のオフィスワーク用の、踵の高いヒールパンプス‥‥。
(電車がいつ再開するか分からない以上、待つより歩いたほうが早い。まずは山岡さんの家のそばである大岡山を目指して、国道15号から1号線に抜けるルートで行くしかない…だとすると…)
正博の視線に、たまたまSL広場のすぐ近くにある「ニュー新橋ビル」のテナントが飛び込んできた。
「山岡さん、ちょっとここで待ってて!」
「え? 先輩!?」
「靴のサイズ、何センチ!?」
「えっ、あ、23.5センチ、ですけど……」
その言葉を聞くや否や、正博はニュー新橋ビルの中にまだ明かりを灯している靴屋へと猛ダッシュで駆け込んだ。
店内は、正博と同じことを考えた帰宅困難者たちでごった返していた。棚の靴は次々と奪い取られるように売れていき、デザインや色を選んでいる余裕など微塵もなかった。
正博は店員に「23.5の、歩きやすい靴! 何でもいいです!」と叫び、差し出されたスニーカーを掴んでレジへ走る‥‥。
息を切らせて広場に戻った正博は由梨江に袋を差し出す‥。
「これ…色とかデザインとか選べなくて……ちょっと派手だけど、背に腹は代えられないから」
袋に入っていたのは、少し目立つような鮮やかなピンク色のスニーカー。
「え!?、これ……」
「いいから、ほら、ここ座って履き替えて。この先、何キロ歩くか分からないんだ。ヒールじゃ絶対に無理だから」
正博にとっては、下心など一切なかった。
これからの過酷な徒歩帰宅の行程を冷静に考えた時、同行者の機動力を確保することは絶対に必要な「最善の手」だったに過ぎない。
しかし、言われるがままにビルの脇の縁石に腰掛け、新しいスニーカーに足を滑り込ませた由梨江の胸の奥には、言葉にならないほど熱いものが込み上げていた。
(自分のことじゃなくて、私の足を心配して、わざわざ買ってきてくれるなんて……)
ぴったりと足に馴染むピンク色の靴を見つめながら、由梨江は小さく、しかし深く、先輩である正博に対する特別な信頼と感謝をその心に刻み込んでいた。
「……すごく歩きやすいです。ありがとうございます‥‥」
「よし、じゃあ行こう。焦らず、一歩ずつだ」




