20110311 大地震の日 会津の情景
第二震の長く狂おしい激動が、ようやく収まりを見せた。
しかし、オフィスに残された誰もが、これが一過性の地震ではないことを完全に悟っていた。空気は完全に張り詰め、誰もが次の衝撃を恐れて息を呑んでいる。
その沈黙を破ったのは、先ほど正博の言葉によって覚悟を決めた、人事部長・蓮見の鋭い「英断」の声だった。
「――全員、これ以上の執務室待機は危険です! 日比谷公園に避難します!」
蓮見はオフィスの中心で、全員を見渡しながら声を張った。
「各自、防寒具と貴重品だけを持って移動! エレベーターは絶対に使うな! 非常階段を使って、足元に気をつけて下りるぞ!」
その指示が飛ぶや否や、Rコンサルタントの社員たちは、パニックを起こすことなく速やかに動き出した。
日本のビジネスパーソンならではの、理路整然とした強さがそこにあった。
誰もが無言で、しかし一刻を争う事態であることを理解し、黙々と最小限の荷物をまとめ、声を掛け合いながら非常階段の重い扉へと吸い込まれていった。
薄暗い階段を一歩一歩下り、ようやくビルの外へと這い出す。
外の空気は刺すように冷たい。
会社から歩いて数分の距離にある日比谷公園を目指す道すがら、正博の目に映ったのは、異様な霞が関の光景。
あらゆる高層ビルから、吐き出されるようにして溢れてきた無数のビジネスパーソンたちが、一方向へと黙々と歩いている。
日比谷公園に到着すると、そこはすでに人で埋め尽くされていた。
黒や紺のスーツを着た数千、数万の群衆が、不安を隠せない面持ちで広場を埋めている。
「――おい、あっちを見ろ」
周囲のざわめきに正博が目を向けると、公園の象徴である日比谷公会堂の周辺に、いち早く黄色い非常線が張り巡らされているのが見えた。
「危ないですから近寄らないでください! 建物から離れて!」
警備員たちが血相を変えて群衆を制している。
よくよく見ると、歴史ある建物の足元のコンクリートやアスファルトが、凄まじい力で大きくひび割れ、大人の膝ほどもあろうかという高さにまで不気味に起伏していた。
大地の怒りが、そのまま形を成したかのような傷跡…。
正博たちは、公会堂から離れた比較的安全な広場の一角に、どうにか部署のメンバーで固まって落ち着くことができた。
凍てつく寒さの中、誰もがポケットから携帯電話を取り出し、必死に画面を見つめている。しかし、誰もが「繋がらない」「圏外だ」と首を振るばかりだった。回線は完全にパンクしていた。
そんな中、営業企画部の安江が、私物の携帯電話のワンセグ機能を立ち上げ、小さな画面を必死に覗き込んでいた。粗い画質から流れてくる音声が、静まり返った正博たちの耳に届く。
『――現在、入ってきた情報によりますと、宮城沖の地震に伴い、東北地方の沿岸部を中心に大津波が発生している模様です。……信じられない光景です、数々の家屋や車が、黒い濁流に押し流されています……』
アナウンサーの、緊迫した、どこか震えるような声。
まだ全容は掴めない。しかし、明らかに日本が、この東北が、未曾有の大災厄に見舞われていることだけは確かだった。
「……嘘……」
そのニュースを耳にした瞬間、安江の顔から血の気が完全に引いた。
彼女は岩手県石巻の出身だ。
自分の愛する故郷の空が、海が、今どうなっているのか。
最悪の光景が脳裏をよぎったのか、安江は目を見開いたまま、めまいを起こしたようにスッとその場に倒れそうになった。
「安江さんっ!」
その身体を、隣にいた由梨江が間一髪で抱きとめ、しっかりと支えた。
しかし、その由梨江の顔もまた、今にも泣き出しそうなほどに強張っている。
由梨江は秋田由利本荘の出身だ。
震源地からは山を挟んでいるとはいえ、同じ東北の人間として、故郷を襲う未曾有の事態に、その心は激しく揺らいでいた。
由梨江は安江を抱きしめながら、冷たい風の中でぶるぶると身震いをしていた。
「……あ」
その二人の姿を見て、正博の脳裏に、あの温かいお正月の風景が弾け飛ぶように蘇る。
(誠二郎さん……!!)
会津から自分たちのために、最高級の純米大吟醸を一ダースも送ってくれた、あの粋な男。
あの優しい親戚たちの顔が、一瞬にして頭を支配した。
福島はどうなっている。会津は大丈夫なのか。
正博は、気がつけば自分の携帯電話を握り締め、誠二郎の番号を夢中でダイヤルしていた。
だが、耳に聞こえてくるのは、冷たい「ただいま大変混み合っております」という無機質なアナウンスか、プー・プー・プーという切断音。
「クソッ……繋がれ、繋がってくれ……!」
何度もリダイヤルを押すが、電波のアンテナマークは虚しく明滅する。
かつて大叔父・将吉がマリアナの海底に沈み、国との連絡を絶たれた時のように。
おばあちゃんが、消息不明の兄の情報を求めて途方に暮れていた、あの戦後の混乱期のように。
2011年の現代において、これほど通信技術が発達した東京のど真ん中にいながら、正博は大切な人の安否を全く知ることができない、巨大な「焦燥感」と「無力感」に、激しく身を焼き尽くされようとしていた。
外の冷気とは裏腹に、正博の背中には冷たい汗が流れ落ちていく。
何度リダイヤルを繰り返しても、携帯電話の画面には「回線混雑」の無情な表示が出るばかり。正博が激しい焦燥感に駆られ、冷たい手で携帯を握り締め直した、その時だった。
ブーーッ、ブーーッ、と突如として手元でバイブレーションが震え出した。
液晶画面に表示されたのは、見慣れた市外局番――信州安曇野にある、小林の実家の固定電話の番号だった。
「――もしもし! かあちゃん!?」
正博は、周囲の群衆のざわめきに負けないよう、慌てて受話器に耳を押し当てた。
『あ、正博!? 繋がったわ、良かった……! あんた大丈夫!? 怪我はない!?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもの穏やかさを少し失った、焦ったような母・和美の声。
信州でもそれなりの揺れを観測したのだろう、何より東京の激しい状況がテレビで報道され始め、息子の身を案じて一刻も早く連絡をくれたのだ。
「ああ、俺は大丈夫! 今、会社の仲間と近くの日比谷公園に避難してて、怪我もないよ。……でも、かあちゃん、よく電話繋がったね。こっちは携帯が全滅で、どこにもかからないんだ」
『そうなの? 実はさっき、埼玉のおばさんのところにも連絡してみたんだけど、あっちも何とか無事そうだったわよ』
「え、埼玉のおばさんにも!? 携帯に繋がったの?」
『う、うん、一回こっちからおばさんの携帯にかけた時は、プツプツ切れて全然ダメだったの。でもね、数分したら向こうの携帯から、実家のこの固定電話宛てに折り返しがかかってきたのよ』
母のその言葉に、正博の脳内シナプスが再び高速で回転を始めた。
(そうか……! 携帯同士の通信や、被災地へ向かう回線は完全にパンクしている。でも、被害の少なかった地域からの発信、あるいは『携帯から地方の固定電話へ向かう回線』なら、奇跡的に通りやすいルートが残っているんだ……!)
この大混乱の中で見出した、わずかな回線の法則。
正博は、秋田や岩手の故郷を想って震えている由梨江や安江の姿を視界に入れながら、すぐさま受話器の向こうの和美に懇願するように声を張った。
「かあちゃん! お願いがあるんだ!」
『え? なに、どうしたの?』
「会津の誠二郎さんの家に、実家の固定電話から連絡してみてくれないか!? 福島が、東北が大変なことになってるんだ。誠二郎さんたちのところが無事かどうか、確かめたいんだけど、僕の携帯からはどうしても繋がらないんだよ!」
『会津の……あ、あのお酒送ってきたお兄さんのことね!』
和美の声が、一瞬で真剣なトーンに切り替わった。
お正月に、あの極上の純米大吟醸を一ダースも送ってくれた人。
和美はあの時、お礼状を書くために誠二郎の連絡先をしっかりとメモ帳に控えていた。
『分かった! すぐに会津にかけてみる。確認できたら、またあんたの携帯に繋がるまで何度もかけ直すから!』
「頼むよ、かあちゃん! ……そっちも余震に気をつけて!」
『あんたこそ、本当に気をつけなさいよ。じゃあ、一回切るわね!』
ツーツーツー、と接続が切れた携帯画面を、正博は見つめた。
通信が途絶した現代の東京。
しかし、安曇野の実家という確かな拠点を経由することで、遠い会津へと手を伸ばすルートが今、一本だけ繋がろうとしていた。
正博は祈るような気持ちで、母からの次なる報せを待つべく、冷たい風が吹き抜ける日比谷公園の空を見上げた。
―――――――
同じ頃、東京から遠く離れた福島県、会津若松駅のロータリー。
冷たい風が吹き抜ける駅舎の前で、立ち尽くしている一人の女性がいた。
馬場澪である。
澪は、この数日ほど会社で有給休暇を消化し、プライベートの観光を兼ねて会津の街を訪れていた。
目的は、もちろん観光もあったが――まだ「友人」という関係ではあるものの、心のどこかでずっと気になっていた男、山﨑誠二郎に会うためでもあった。
昨日まで城下町を巡り、誠二郎とも久しぶりの再会を果たして穏やかな時間を過ごしていたのだ。
しかし、東京へ帰るための列車を待っていた、まさにその日の時。
突如として、会津盆地を激しい激震が襲った。激しい横揺れに駅舎の窓ガラスがガタガタと鳴り響き、周囲の観光客からは悲鳴が上がった。
幸いにも、内陸部に位置する会津若松市内は、沿岸部に比べれば建物の倒壊などの大きな被害は免れた。
しかし、駅の電光掲示板は一瞬にしてすべて消灯。
アナウンスからは「ただいまの地震の影響により、すべての路線で運転を見合わせます。再開の目処は立っておりません」という絶望的な音声が繰り返されるばかりとなった。
「どうしよう……」
携帯電話を開いても、画面は完全に「圏外」の文字。
周囲の観光客たちも一様に青ざめ、帰りの足を失って途方に暮れていた。
澪もまた、見知らぬ土地で一人きり、冷え込んできた夕方の空気の中で、言い知れぬ不安に身をすくめていた。
その時‥‥。
「――馬場澪さん!! 馬場澪さんはおられませんか――っ!!」
ざわめく駅舎のホールに、地鳴りのように響き渡る、太く大きな男の声。
澪がハッとして振り返ると、そこには、息を激しく切らし、額に汗を浮かべた誠二郎が、人混みをかき分けるようにして必死にこちらを探し回っている姿があった。
「誠二郎さん……!?」
「あ、澪さんっ! よかった、まだ駅にいてくれた……!」
澪の姿を見つけた瞬間、誠二郎の強張っていた顔が一気に綻んだ。
彼は大きな歩幅で澪の元へと駆け寄ると、その華奢な両肩を視線で確かめるように見つめ。
「怪我はありませんか!? 怖かったでしょう、大丈夫ですか」
「は、はい……私は大丈夫です。でも、電車が全部止まっちゃって……」
「駅の状況を見て、すぐに車を飛ばしてきました。うちの蔵(山﨑酒造)は、いくつか仕込み桶が揺れたり壁の漆喰が落ちたりはしましたけど、幸いにも全員無事です。建物も持ち堪えました」
誠二郎はそう言って、優しく、しかし確かな力強さで澪の荷物を持って。
「列車は今日中には絶対に動きません。余震も続いていますし、こんなところで夜を明かすのは危険です。
……澪さん、もしよければ、今日は僕の実家に泊まっていってください…。
親父も、母親も、家を空けているわけじゃない。あたたかい部屋と食事くらいは用意できますから」
「え……」
澪は一瞬、驚きに目を見張る。
しかし、何よりも、この大混乱の中で自分のことを真っ先に心配し、危険を顧みずに駅まで全力で探しにきてくれた誠二郎の、圧倒的な頼もしさと優しさ――。
その「男の器」に、澪の胸の奥は激しく揺さぶられ、言葉にならない温かい感情で満たされていく。
「…は…はい。ありがとうございます。お言葉に甘えても、いいですか?」
「もちろんです。さあ、行きましょう。車、ロータリーに停めてありますから」
誠二郎の背中に続いて歩きながら、澪は小さく苦笑の微笑みを浮かべる。
まだ正式にお付き合いをしているわけでもない段階で、まさかこんなひょんな震災のトラブルから、彼の両親へ挨拶をすることになるとは夢にも思っていなかった。
けれど、誠二郎が運転する車の助手席に乗り込んだ澪の心からは、いつの間にか、駅前で感じていたあの孤独な恐怖は、綺麗さっぱりと消え去っていたのだった。




