表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
2011年 結び編
50/54

20110311 大地震の日 正博覚醒

 静かな喪中の正月が明け、凍てつく安曇野から東京の喧騒へと戻った正博を待っていたのは、息つく暇もないほどの激務だった。


 一月、二月が瞬く間に過ぎ去り、三月。

 Rコンサルタントは、いよいよ悲願の上場(IPO)を見据えた「Nマイナス2期(上場2年前)」を来期に控え、社内のあらゆる部門が生き物のように慌ただしく動き出していた。

 正博が所属する営業企画部には、全社の売上予測やコンプライアンス関連のデータ、そして全国の拠点から日々目まぐるしく変化する現場の情報が集約され、その精査に追われる日々が続いていた。


 二〇一一年三月十一日、金曜日。

 午後二時四十分を回った頃。オフィスのデスクで、数千行に及ぶ大量のデータの整合性を整理し、システムとの突き合わせ作業を行っていた正博と由梨江は、ようやく一つの大きな塊を処理し終えた。


「――ふぅ。これで一旦、本期の数字は綺麗にまとまりましたね」

 由梨江がキーボードから手を離し、大きく伸びをする。


「お疲れ様、山岡さん。いや、本当に助かったよ。……ちょっと一息つこうか。息抜きに近所のカフェまでテイクアウトのコーヒーでも買いに行かない? 僕が奢るよ」

「えっ、本当ですか!? やった、喜んでついていきます!」


 張り詰めた空気を緩め、二人は席を立ってエレベーターホールへと向かった。

 金曜日の夕方前ということもあり、エレベーターホールには他の部署の人間も数人集まっていた。ちょうど総務部のメンバーが、打ち合わせを終えた大切な来客を送り出すところだったようで、大人のビジネスパーソンたちが和やかに談笑しながら、エレベーターの到着を待っていた。


 その時‥‥‥。


 地底の遥か深く、遠くの方から、「ゴゴゴゴゴ……」という、不気味で重厚な地鳴りが響いてくるのを、正博の鋭敏な感覚がいち早く捉えた。


「……え?」

 正博が眉をひそめた、その刹那。


――ズバババババッ! ドババババッ!!!


 爆発が起きたかのような凄まじい衝撃とともに、高層ビルが文字通り「激変」した。

 経験したことのない、狂ったような横揺れ。

 エレベーターホールの白い天井がミシミシと悲鳴を上げ、備え付けられた大型エアコンの筐体と、天井の展示パネルが、数十センチメートル以上の幅で激しくズレながら、今にも頭上へ脱落してきそうな極限状態に陥った。


「キャッ……!?」

 あまりの恐怖に足がすくみ、悲鳴を上げる由梨江。


「山岡さん、危ないっ!」

 正博の身体は、完全に無意識のまま動いていた。

 由梨江の両肩をガシッと力強く抱き寄せると、床へとしゃがみ込ませ、自らが盾となるように彼女の頭上へ覆いかぶさる。


 パシャーン! と近くのガラスが割れる音が響き、ビルの鉄骨がきしむ音が轟く。 

 正博は背中に天井が落ちてくるかもしれない恐怖を感じながらも、ただただ、腕の中の由梨江を死守するように力を込めた。


 やがて、狂ったような大揺れが、長い時間をかけて徐々に小さくなり、ゆっくりと収まっていった。


 ホールには非常警報のサイレンが鳴り響き、呆然とする来客たちを前に、総務部の課長がいち早く声を張った。


「エレベーターを使うのは危険です! 閉じ込められます!」

 来客のビジネスパーソンたちも、青ざめた顔をしながらも冷静に頷いた。

「分かりました、私たちは非常階段で下りますね」

 総務部の案内のもと、彼らは足早に避難経路へと向かっていった。


「山岡さん、大丈夫か!?」

 正博は腕を緩め、由梨江の顔を覗き込んだ。由梨江は完全に腰を抜かしたように、どきどきと激しく波打つ胸を押さえながら、真っ白な顔で正博を見上げていた。


「は、はい……助かりました、先輩くん……」


「よし、一旦執務室に戻ろう。みんなの様子を確認するんだ」

 正博は由梨江の手を引き、足早に営業企画部のある執務室へと引き返した。


 執務室の中は、何人かのデスクトップPCやファイルが床に倒れ、書類が散乱して騒然としてはいたが、幸いにも書棚の転倒などの大きな被害はなく、メンバーに怪我はなさそうだった。


 だが、正博の胸の中には、言葉にならない巨大な「嫌な予感」が渦巻いていた。

 あの不気味な地鳴り。東京の強固なビルがあそこまで歪むほどのエネルギー。これは、ただの「よくある地震」ではない。


(――震源地はどこだ!? !?)


 正博の頭の中で、これまで本山や桔川、須田たちから叩き込まれてきた「不測の事態ショックにおけるリスクマネジメント」、そして何より現場を誰よりも重んじる「営業企画」の回路が一気に、爆発的に繋がり始めた。

 正博は散らかった床を飛び越え、本来なら管轄違いであるはずの、全社の労務を司る人事部のデスク島へと猛然と駆け寄った。


「震源地はどこですか! 誰か、テレビかネットを繋げてください!」


 まだ突然の揺れの余韻から立ち直れず、日常の業務から思考を切り替えられずに右往左往していた人事部のメンバーたちは、普段は物静かな営業企画部の正博が、突然違うフロアから見たこともないほどの迫力で詰め寄ってきたことに圧倒された。


「え、あ、小林くん!? は、はい! 今点けます!」

 急ぎ設置されたオフィスの大型モニターにテレビのニュース画面が映し出され。


『――たった今、激しい地震がありました。震源地は、三陸沖です。激しい揺れが、東北地方を……』


 画面に躍る「震度7」「大津波警報」の禍々しい文字。

 それを見た瞬間、正博の脳内シナプスがフル回転した。

 営業企画部として、東北各地の支社や営業拠点、そしてそこにいる営業マンや顧客の顔が、次々と頭に浮かんできたのだ。


「東北各地の支社、支店に、今すぐ安全確認の電話を入れましょう!!」


 静まり返っていたオフィスに、正博の怒号のような叫びが響き渡った。

 その声にハッと我に返ったのは、人事部部長の蓮見はすみだった。

 企業の労務と社員の命を預かるトップとして、他部署であるはずの若手社員の、この尋常ではない気迫の言葉に、蓮見は一瞬にして己の役割を思い出した。


「――そうだ! 全員、東北拠点の管掌スタッフのリストを出して! すぐさま各メンバーの携帯、固定電話、あらゆる手段で連絡を取って!」


 蓮見の鋭い指示が飛び、人事部のメンバーが一斉に受話器を掴み、携帯電話を操作し始める。


 その混乱の渦中で、正博の動きはさらに加速していた。

 正博はオフィスの壁際にあった大きなホワイトボードを力任せにゴロゴロと中央へ引っ張ってくると、太い黒のマーカーを握り締めた。


 パン、パン、とホワイトボードを叩き、全員の注目を集める。

「皆さん! 連絡がついたところから、僕に拠点の状況を叫んでください! ここに一元化して書き出します!」


 正博はホワイトボードに素早い手つきで、

【安否確認済】【一部怪我人あり】【音信不通・要確認】・・

 という分類の枠線を、力強く引き始めた。

 情報を整理し、視座を高く保ち、次の打ち手を決めるための「司令塔」の役割を、営業企画部の男が、誰に命令されるでもなく、自らの意志で買って出たのだ。

 周囲の人事部のメンバー、そして由梨江や安江も、その圧倒的な行動力と普段のギャップに言葉を失いながらも、引きずられるように動きを加速させていく。


「仙台支店、固定電話繋がりません! 支店長の携帯へかけます!」


「盛岡の営業所、スタッフ全員無事、建物の破損軽微です!」


「よし、盛岡【安否確認済】、仙台は【要確認】だ!」


 マーカーを走らせ、的確に指示を出し、オフィス全体の動揺を「安否確認」という一つの目的に向かって統率していく正博。


 正博が主導したホワイトボードへの情報集約により、少しずつ拠点の状況が見え始めると、オフィスの面々も徐々にパニックから脱し、冷静さを取り戻していった。

 散らかった書類や倒れたデスクトップPCを急ぎ整理し、それぞれが自分の持ち場へ戻り、顧客への状況連絡や緊急の業務対応に全力を尽くすべく動き出す。


 しかし、ここで深刻な問題が浮き彫りになった。

 おりしも三月。


 年度末の多忙な時期である。社長をはじめとする経営幹部、取締役たちは、主要な顧客先への期末の挨拶回りなどのため、そのほとんどが社外に赴いており、連絡もつきにくい状態になっていた。

 つまり、現在この本社オフィスには、有事の経営判断を下せるトップ――指揮官が不在。結果として、今この場に残されているメンバーの最高役職者は、人事部長の蓮見ということになる。

 

 全社員の命と拠点の安否という、あまりにも巨大な責任が突如としてその両肩にのしかかり、蓮見の顔は不安とプレッシャーで見る見るうちに青ざめていった。


 受話器を持つ手が微かに震えている。


 正博はその状況を、鋭く察知した。

 彼はホワイトボードのマーカーを置くと、蓮見のデスクの傍らへと歩み寄り、その目を見て、低く、しかし力強い声で呼びかけた。


「蓮見部長。大丈夫です」

「え……小林くん……」


「ここには安江さんもいます。それに、私たちだって全力で動きます。みんなで、この状況を絶対に乗り切りましょう。だから、足元だけ見て動き続けましょう」


 不安に駆られ、今にも押し潰されそうになっていた蓮見は、営業企画部の一若手社員にすぎない正博の、その揺るぎない眼差しと頼もしい言葉に、胸の奥を激しく突かれたようだった。


「……そうだね。ありがとう、小林くん。頑張ろう、みんなで……っ」

 蓮見がそう言いかけ、安安堵の表情を浮かべようとした、まさにその矢先。


――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。


 またしても、地底の底の底から、先ほどよりもさらに禍々しく、重い地鳴りがオフィスに響き渡った。


「嘘……また……!?」

 誰かの短い悲鳴。


 直後、ドォォォン!!! という凄まじい縦衝撃とともに、ビルが先ほどと同等、いや、それ以上に狂ったような大揺れを始めた。


 第二震だ…。


 グラグラとオフィス全体が激しくきしみ、窓の外に目をやると、立ち並ぶ霞が関や六本木のビル群が、あり得ない角度でグニャグニャと波打つように揺れ、ビルの合間から白い埃や煙が立ち上っているのが見えた。


「キャーーッ!!!」

「うわあああ!」


 オフィス内に、さっきよりも切迫した女性たちの金切り声や悲鳴が響き渡る。整理しかけた書類が再び宙を舞い、棚に残っていた備品が音を立てて床へ転げ落ちていく。


「――皆さん! 姿勢を低くして、机の下に隠れてください!!」


 激しい揺れに足元を取られそうになりながらも、正博は喉が張り裂けんばかりの大声を張り上げ、オフィスの全員に向けて鋭く叫んだ。その眼差しは、再び襲いかかってきた未曾有の危機に対し、一歩も退かぬ強い覚悟に満ち溢れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ