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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
2011年 結び編
49/54

20110101 喪中のお正月@小林家

 およそ一カ月半前、一族を挙げて執り行われた、花子おばあちゃんと大叔父・将吉の合同葬儀。

 あれは間違いなく、小林家にとって地殻変動のような一大イベントだった。

 激動の戦中から平成へと至る、六十六年分の重い歴史のバトンを、現世の子孫たちが総出で受け止めた、熱く、そしてあまりにも濃密な数日間。


 その怒涛の労をすべてねぎらい、天へ還った二人の魂を静かに悼むように、安曇野の地には例年よりも少し早く、白く厳しい冬が訪れていた。


 明けて、二〇一一年。一月。

 小林家は、静かな喪中の正月を迎えていた。

 例年であれば玄関を彩るはずの立派な門松も、神棚の注連縄しめなわもない。居間には、おめでたいおせち料理の重箱もなければ、新春を祝う華やかな飾り付けも一切なかった。


 だが、そんな小林家の台所には、他家にはない一風変わった、しかし最高に贅沢な景気良さが漂っていた。

 きっかけは、年の瀬に会津の誠二郎から届いた、一つの大きな段ボール箱だった。

 花子の急逝と将吉の帰還という一連の経緯を風の噂に聞いていた誠二郎が、小林家のバタバタした状況や喪中であることを細やかに察し、


『お歳暮でもお年賀でもありませんが、せめて長い休みの間、皆さんで静かにお嗜みください』


 と、手紙を添えて、会津の選び抜かれた新酒――それも、最高峰の「純米大吟醸」を一升瓶でまるまる一ダース(十二本)も送ってきたのだ。


 そのお陰で、喪中の小林家は、静まり返りながらも「極上の酒」に困ることだけは一切なかった。


「ちょっとお父さん、もう一本開けちゃうわよ? せーちゃんが送ってくれたんだから、贅沢に飲まないとバチが当たるわ」


「おお、開けろ開けろ。こんな美味い酒、ちびちび飲んでたら一升瓶が泣くぞ」



 炬燵こたつを中心に据えた小林家の居間では、毎夜、賑やかな「日本酒嗜み会」が開催されていた。

 そこには、正博の姿だけでなく、姉の瑞穂の姿もあった。


 瑞穂は「喪中だから」という、これ以上ない強力な大義名分を盾に、嫁ぎ先での面倒な

 『正月のお嫁さん業務』から鮮やかに逃れ、実家へと戻ってきていたのだ。


 小林家の酒席の構図は、昔から実にはっきりしている。

 

 毎晩のようにハイペースで杯を干す、底なしの酒豪・瑞穂。

 じっくりと味わいながら上機嫌でピッチを上げる、生粋の酒好きの父・静雄。

 そして、自分自身はほとんど杯を口にしないものの、酔っ払った二人を冷徹にいなし、実は家族の誰よりもアルコール分解能力が高くて“一番強い”母・和美。

 最後に、東京のビジネスの世界でどれだけ精悍になろうとも、酒の席では相変わらず一杯で顔が真っ赤になる、一族最弱の正博。


「いい? 正博、よーく聴きなさいよ」

 すでに三合は下らない純米大吟醸を胃袋に収め、うっすらと頬を桜色に染めた瑞穂が、緑色の一升瓶をまるで我が子のように愛おしそうに抱えながら、正博に向けてビシッと人差し指を突きつけた。


「日本酒ってのはね、やっぱり『純米』に限るの。それが吟醸なのか大吟醸なのか、すっきり辛口なのか芳醇旨口なのかは、それぞれの味の好みに寄るわよ? でもね、場末の居酒屋にあるような、醸造用アルコールをごてごて混ぜた安い日本酒は絶対にダメ。

 どうやら私も、そしてうちの小林家の体質上、あの手のお酒は翌日にてきめんに頭が痛くなる仕組みになってるのよ」


「はは……そうなんだ」

 お猪口ちょこに半分ほど注がれた酒をちびちびと舐めながら、正博は苦笑する。


「そうなの! だから、これから先、あんたが東京で偉い人たちと日本酒を嗜む機会があったら、迷わず純米酒を選びなさい。……でね、会津のセーちゃんが、わざわざこの時期に『純米大吟醸』を一ダースも送ってよこしたのも、やっぱりあの人がお酒の本質をよーく分かっているからなんだから。本当に粋な男よねえ」

 瑞穂はそう言って、自分のガラスの御猪口にトトト……と器良く酒を注ぎ、実に見事な飲みっぷりで喉を鳴らした。


 その瑞穂の講釈を、台所から持ってきた湯豆腐の鍋を炬燵の真ん中に置きながら聞いていた和美が、ふっと楽しげに鼻で笑った。


「瑞穂の言う通りよ。日本酒だけじゃないわ。ビールだって、コーンスターチや米みたいな余計な副原料が入っていない『麦芽百パーセント』のピュアなものが一番美味しいし、ウイスキーだって色んな樽を混ぜたものより『シングルモルト』が五臓六腑に染みるの。あ、そうそう、最近はワインでも亜硫酸無添加ナチュールなんてのが流行り始めてるわね。やっぱりね、人間の身体には、余計な混じり気のない『ピュアなもの』が一番優しくて、一番合うのよ」


「……お母さん、妙に詳しいね」

 正博は、母の口から次々と飛び出す本格的な洋酒の銘柄やオーガニックワインの知識に、目を丸くした。普段、安曇野の農家の主婦として、エプロン姿で畑仕事や家事に追われている和美からは、およそ想像もつかない専門用語だった。


「あら、驚いた? 正博、お母さんをただの田舎のおばさんだと思ったら大間違いよ」

 瑞穂がニヤニヤしながら正博の肩を小突く。

「お母さんはね、こう見えて元々は名古屋の、あの屈指の高級住宅街である『千種ちくさ区』出身のご令嬢だったんだから。

 短大を卒業した後は、栄や錦の洗練されたオーセンティックバーやジャズクラブを夜な夜な飲み歩いていた、お目々の高いシティーガールだったのよ」


「えっ、名古屋の千種区……!? 栄のバー!?」

 正博は驚きのあまり、持っていた御猪口をひっくり返しそうになった。


「もう、瑞穂、昔の話を大げさに言わないで頂戴」

 和美はそう言って困ったように笑ったが、その手つきはどこか上品で、若い頃に都会の洗練された文化の中で生きていた者の片鱗を、確かに覗かせていた。

 花子おばあちゃんの葬儀という、家を挙げた一大イベントを経て、喪中という静かな時間を家族で共有したからこそ、正博は初めて、母親のそんな若かりし頃の「眩しい過去」を知ることになったのだ。


「でもねえ……」

 和美は、炬燵の中で静かに自分の足を静雄の足へと寄せながら、愛おしそうに部屋中を見渡した。

「どんなお洒落なバーで飲む最高級のカクテルよりもね、こうやって信州の古い家で、家族みんなで炬燵に潜り込んで、せーちゃんのピュアなお酒をいただくのが、人生で一番美味しいわ」


「……だな」

 それまで黙って美味そうに酒を啜っていた父・静雄が、短く、しかし心の底から実感を込めて呟いた。その一言に、小林家のすべてが凝縮されていた。


 ふと、正博は居間のガラス窓に目をやった。

 外は、信州の容赦ない冷気があたりを支配している。

 漆黒の闇に包まれた北アルプスの山並みからは、激しい風に乗って、まるで白い花の粉のような、きめ細やかな雪の結晶――雪のよきのこが、ハラハラと安曇野の平野へと舞い散っていた。外を出歩く者など誰もいない、凍てつく冬の夜だ。


 けれど。

 この古い小林家の、炬燵を囲んだ家族の団らんの中には、ただただ、どこまでも温かく、優しい空気がゆったりと流れていた。


 おばあちゃんが亡くなった寂しさは、今でも胸の奥にある。

 大叔父が命を懸けて戦った歴史の重みも、消えることはない。

 だが、悲しみや苦しみの季節を越えたからこそ、今、こうして生きている家族が一本の糸のように繋がり、互いの労を労い、笑い合っている。


 余計な混じり気の一切ない、会津のピュアな新酒の香りが、湯豆腐の湯気とともにふんわりと部屋中に広がる。

 それはまるで、何代にもわたって嘘偽りのない「愛」と「覚悟」だけで命のバトンを繋いできた、小林家そのものの味のようだった。


 正博は、自分の身体の奥が、じんわりと温かいものに満たされていくのを感じていた。

 東京での厳しいビジネスの戦い、希美と育んだ温かい手のぬくもり、由梨江と駆け抜けるオフィスでの日々。そのすべての土台には、この安曇野の、ただただ温かい家族の風景がある。


「ほら、正博、何ぼんやりしてんの。ほっぺた真っ赤よ? 弱っちいんだから、無理しないで湯豆腐食べなさい」

「あ、うん。ありがとう、お母さん」


 瑞穂の豪快な笑い声が響き、静雄が満足げに目を細め、和美が優しく微笑む。

 

 外の雪は激しさを増していくが、小林家の灯火は、現世の家族の笑顔は、そして背後でそっと見守っているであろう将吉や花子、先祖たちの魂の眼差しは、この凍てつく信州の夜を、どこまでも温かく、どこまでも優しく、永久とわに照らし続けていくのだった。

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