20101114 静かなバトン
松本駅から瑞穂の運転する車に揺られ、正博はようやく見慣れた安曇野の小林の実家へと辿り着いた。
庭の柿の木が晩秋の風に揺れ、いつもと変わらぬ佇まいを見せているが、玄関には忌中の紙が貼られ、厳かな静寂が家全体を包み込んでいた。
正博は抱え続けた白木の桐箱を居間の座卓にそっと置くと、何よりも先に、奥の和室へと向かった。
そこは、花子おばあちゃんが長年過ごしてきた部屋だった。
冷たく澄んだ空気の中に線香の香りが微かに漂う。
白い布がかけられた平床の傍らに正博が座り、そっと布をめくると、そこには綺麗に死に化粧を施された祖母が横たわっていた。
信州の厳しい冬を幾度も超え、激動の昭和から平成の世を凛として生き抜いたその顔は、まるですやすやと深い眠りについているかのように、どこまでも穏やかで、優しい表情を浮かべていた。
「……ばあちゃん…」
その顔を見た瞬間、正博の視界が一気に熱い涙で溢れた。
胸の奥から堪えきれない感情が突き上げ、畳に突いた膝が激しく震える。
子供の頃、泥だらけになって学校から帰ってきた自分をいつも「おかえり、正博」と大きな愛で抱きしめてくれた、あの温かい祖母のぬくもりが、昨日のことのように蘇る。
正博は声を押し殺して嗚咽し、何度も何度も涙を拭ったが、溢れる涙は止まらなかった。
しかし、彼はいつまでも泣き崩れる「ヘタレな男」ではなかった。
霞が関の厚生労働省で受け取ってきた、あの白木の箱の重み。
そして、祖母が兄を想い、命がけで残してくれた「小林」の家名。
それを今、自分が背負うのだという決意が、彼の背筋を再びピンと伸ばさせた。
「ばあちゃん……俺、ちゃんと使命を果たすからね」
正博は溢れる涙を力強く拭うと、静かに深く一礼し、自らの足でしっかりと立ち上がった。
花子おばあちゃんの葬儀が、急遽、大叔父・将吉との「合同葬儀」に切り替わったため、住み慣れた我が家から広くて設備の整った斎場(式場)へと移動することになった。
居間に運び込まれた棺に、おばあちゃんの身体が優しく納められる。
「正博、頼むぞ」
父・静雄の静かな声に応え、正博は棺の先頭へと回った。
「せーの……」
本家の親戚たちと息を合わせ、棺を持ち上げる。ずっしりとした重みが、正博の両腕に、そして掌に直接伝わってきた。一歩、一歩、実家の玄関口から霊柩車へと向かって、正博はその棺を誰よりも力強く、しっかりと支えて歩いた。
この重みこそが、自分がこれからの小林家を支えていくという覚悟そのものだった。
―――――――
安曇野の空を茜色に染めていた夕日が静かに山並みの向こうへと沈み、到着した斎場の周囲には、しっとりとした薄紫色の夜の帳が降りようとしていた。
式場の広間へ出ると、そこにはすでに本家をはじめとする小林家の一族、おじやあば、親戚一同が数十人も集まり、慌ただしく、しかし一丸となって通夜の準備を進めていた。
正博が姿を現した瞬間、広間の空気が一変した。親戚たちが一斉に動きを止め、正博の元へと駆け寄ってきた。
「正博! 本当によくやったな!」
「今さっき、みんなでここのテレビにかじりついて夕方のニュースを見ていたんだよ。厚労省のあの立派な態度、本当にお見事だった」
「小林の家の名代として、これ以上ない大役を果たしてくれた。最高の親孝行、いや、先祖供養だよ。ご苦労様、本当にありがとう」
口々に正博の肩を叩き、涙ぐみながらねぎらいの声をかけるおじやおば達。
誰もが、東京で一段とりりしく成長した正博の姿に目を見張り、一族の誇りとして彼を温かく迎え入れた。
正博は、周囲の温かい視線に何度も深く頭を下げながら、大切に運んできた白木の桐箱を胸に、祭壇の前へと進んだ。
今夜の通夜も、おばあちゃんと大叔父の合同で行われる。
正博は桐箱から、大叔父・将吉の生きた証である真鍮のプレート(ドックタグ)と、錆びた穂高神社の鉄のお札を丁寧に取り出し、花子の祭壇の隣に設けられた特設の祭壇へと、厳かに、心を込めて捧げた。
ちょうどその時だった。葬儀社の職員が、脚立に登って祭壇の最上部へ、将吉の遺影を設置しようとしていた。
それは、父・静雄が奥の間から探し出し、瑞穂が磨き上げた、昭和十六年のあの肖像写真を引き伸ばしたものだった。
額縁が祭壇に固定され、その遺影の全貌が正博の目に飛び込んできた瞬間――正博は、雷に打たれたかのようにその場に凝固する。
(――あッ!!!)
息が止まり、全身の毛穴が総毛立つような、強烈な衝撃が走る。
遺影の中から、真っ直ぐに自分を見つめている、二十歳そこそこの凛々しい海軍飛行兵の横顔。その澄んだ、しかし深い陰影を宿した瞳。
間違いない。あの夏の日、トラックに跳ねられ、生死の境を彷徨う朦朧とした意識の中で見た、あの夢の光景。
安曇野の中学校の夕暮れの木造校舎の前で、自分に優しく微笑みかけ、現世へと力強く背中を押してくれた、あの軍人。
まさに、その人が、今、遺影の中から自分を見つめていた。
「…かぁ…かあちゃん」
「ん?‥どした正博」
正博は、震える声のまま、隣にいた母・和美の袖をそっと引いた。
「この人……俺、会ったことある。あの事故の時、夢の中で、安曇野の景色の中で会ったんだ。すごく、すごく温かい感じで、俺を助けてくれたんだ……」
正博のその呟きに、和美は驚く風でもなく、すべてを包み込むような深く優しい聖母のような笑みを浮かべ、正博の肩をそっと抱き寄せ。
「そう……やっぱりそうだったのね。きっとあの時、大叔父さんが、おばあちゃんに頼まれて、あんたのことをあっち側に行かないように、必死で見守って、押し返してくれたんだね。……本当によかった。守られていたんだね、正博」
「っう…うん……」
正博は、喉の奥が震えて言葉にならなかった。
自分が今、こうして生きて、ビジネスの世界で必死にもがき、一人の男として立っていられるのは、偶然なんかじゃない。
時空を超えて、何十年も前から自分を想い、守り続けてくれていた大きな、大いなる先祖の愛の網の目に、自分は生かされているのだ。
正博は、温かい涙を流しながらも、今度は恐怖ではなく、絶対的な安心感と深い感謝をもって、もう一度、将吉の遺影に向かって、美しく襟を正した。その横顔は、名実ともに小林家を継ぐ者にふさわしい、神聖な輝きを放っていた。
現世の子孫たちが、涙と感動の中で響き合うその式場の、すぐ後ろ。
生きている人間の目には見えない、しかし確かにそこに存在する、半透明の清らかな光に包まれた一画があった。
そこには、小林家先祖会の面々が、大集結していた。
最前列には、つい先ほど、兄に連れられてこちらの世界へやってきたばかりの、あの美しい藤色の訪問着を着た花子が立っていた。その隣には、しっかりと妹の手を握りしめ、かつてないほど満足げに、誇らしげな笑顔を浮かべる将吉の姿がある。
「ふふ、お兄ちゃん、正博ったら私の前ではあんなに泣いて。でも、立派になったでしょう?」
「ああ。霞が関でも見事な態度だった。俺たちの誇りだな、花子」
二人の兄妹の後ろからは、彼らを慈愛に満ちた目で見つめる、二人の生みの親――母・やえと、父・善吉が、深く深く頷いていた。
「将吉、花子、本当によく頑張ったねえ。これでお前たちも、ようやく一緒に小林の家に還れるんだよお…」
さらにその背後には、戦国の時代から安曇野の厳しい大地を耕し、命のバトンを繋いできた次郎座衛門、そして優しく微笑む永子をはじめとする、何代にもわたる小林家の先祖たちが、幾重にも重なって現世の子孫たちを見守っていた。
一族の誰も、孤独ではない。
理不尽な戦争で散った命も、戦後を必死に生き抜いた命も、そして今、2010年の現代で、新しいビジネスの荒波に揉まれながら必死に生きている正博の命も。
すべては一本の、決して切れることのない美しい大河のように繋がっている。
祭壇の蝋燭と線香の炎が、優しくゆらゆらと揺れる。
現世の涙と、彼岸の笑顔が、安曇野の静かな夜の中で一つに溶け合い、小林家を包む空気は、どこまでも、どこまでも、温かく優しい光で満たされていくのだった。




