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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
2010年 縁編
47/54

20101114 返還式と帰郷

 二〇一〇年十一月十四日、日曜日。

 本来であれば静まり返っているはずの霞が関・厚生労働省の庁舎の一角は、独特の緊迫感と慌ただしさに包まれていた。小林家における花子の葬儀日程を伝え聞いた厚労省側が、異例の配慮を示し、休日に臨時の「遺品返還式」を執り行ってくれたのだ。


 昭和の高度経済成長期を支えてきた庁舎の廊下は、少し古臭く、天井も低い。リノリウムの床は長い年月で磨り減り、冬を前にした冷たい空気が足元から這い上がってくる。しかし、どこか不思議な落ち着きと、国の意思決定の場としての重みがそこには漂っていた。

 黒い礼服に身を包んだ正博が受付を通ると、神妙な面持ちの厚労省職員たちが、声高に話すこともなく厳かに一礼を返した。

 案内された会議室の前。重厚な木製の扉が静かに開かれ、正博が一歩中へ足を踏み入れると、そこにはすでに数人の男たちが待機していた。

 

 そして、部屋の壁際、正博の予想を超えた光景がそこにはあった。

 数台の大きなテレビカメラと、スチールカメラを構えた記者たちの姿――。

 今年の四月、全国ニュースとして報じられた「マリアナ沖での日本軍機の引き揚げ」。あの不思議な出来事から数ヶ月、ついに遺族が判明したというニュースは、歴史的にも社会的に大きな価値を持つため、日曜日の休日返上で数名の報道陣が取材に駆けつけていたのだ。


(うわ……カメラが入ってる……!)


 一瞬、正博の身体が硬直した。

 しかし同時に、姉・瑞穂の顔が脳裏に浮かぶ。

『ちゃんとした礼服を着て、凛とした格好で行きなさいよ。わかった!?』

 朝、家を出る前に洗面所で入念に髭を剃り、シワ一つないフォーマルスーツに袖を通し、ネクタイの結び目をきっちりと正しておいて、本当に良かったと正博は心の底から胸をなでおろした。


 部屋の中央に置かれた長机。その上には、白い布が敷かれ、いくつかの遺品が整然と並べられていた。

 正博の目が、真っ先に一つの小さな金属片に釘付けになる。

 鈍い光を放つ、真鍮製のプレートだった。


 それは、大叔父・将吉が搭乗時に肌身離さず首からぶら下げていた認識票ドッグタグの代わりだった。

 かつて南方の基地で、アメリカ軍の捕虜が首から下げている金属製の認識票を見た将吉や黒田、赤坂たちは、その合理性に合点がいった。

 万が一、自分が骨になっても、これがあれば自分が誰なのか分かってもらえる――そう確信した彼らは、上官には内緒で整備兵に頼み込み、不要になった真鍮の端切れを譲り受け、自前で名前と所属を刻み込んでいたのだ。誰に褒められるためでもない。自分たちが確かに生き、命を懸けて大空を駆けたのだという「生きた証」を、誰かに拾い上げてほしかった。その祈りが、まさに目の前にあった。


 そしてその隣には、赤錆びてはいるが、確かに四角い輪郭を保っている鉄製の薄いお札が並んでいた。

 海軍へ入隊した直後、将吉が信州の穂高神社を訪れた際、神主に無理を言って特別に作ってもらった「鉄製のお守り」だった。木のお札では海に沈めばすぐに朽ち果ててしまう。だが鉄であれば、たとえ錆びても、いつか誰かが見つけてくれるかもしれない。二十歳そこそこの青年が、死を見据えた極限のなかで残した、文字通りの執念の塊だった。


「――私たちが、拾い上げさせていただきました」


 沈黙を破ったのは、日曜日にもかかわらず正装で駆けつけていた、海洋調査船『白鳳丸』の甲板長・相澤と、船員の佐藤だった。

 ふたりは海の男の最高の正装である濃紺の冬用制服に身を包んでいた。

 胸元できらりと光る錨の金ボタンと、袖口に刻まれたゴールドの階級線が、おごそかな会議室の空気の中で静かに威厳を放っている。軍人ではない。しかし、同じ海を恐れ、海を愛し、命を懸けて船を動かす現世の船員たちのその姿には、大叔父・将吉たち英霊に対する、最大限の敬意と礼節が込められていた


 相澤は引き揚げ当時の天山の残骸が写った何枚かの写真を手元に広げながら、訥々

と、しかし強い感情を込めて説明を始めた。


「海底から、機体の残骸や破片、砂に埋もれていたものを、すべて手作業で拾い集めました。……小林さん、この真鍮のプレートですが、実は他にも二つ、すぐ近くから見つかったのです」


 相澤は、そっと写真を指し示した。

「明日以降、厚労省の職員が、名古屋と滋賀のご遺族の元へもお届けに上がることになっています。あの天山は三人乗りでした。これで、一緒に散っていったお仲間全員が、ご遺族の元へお戻りになります」


 その言葉に、正博の胸の奥が熱く震えた。黒田、赤坂、そして将吉。あのマリアナの夜空に消えた三人の魂が、今、同時に日本へ、それぞれの故郷へ還ろうとしている。


甲板長の相澤は、一呼吸置くと、引き締まった顔を少しだけ和らげて正博を見つめた。

「……実は小林さん。私も、同じ信州の出身なんです。だから、あの海底の泥の中から、この『穂高神社』の鉄のお札が出てきた時は、正直、全身に鳥肌が立ちました。私たちが今、この仕事をしていて、この海域で大叔父様の機体を見つけたのは、決して偶然ではない。何かの強い思いが繋がった、尊いご縁だと思っています。命がけで国のために戦われた大叔父様たちには、敬意の言葉しかありません。……私は子供を持つ身ですが、この引き揚げの真実と大叔父様たちの生き様を、我が子や後世の人々に語り継いでもよろしいでしょうか」


 相澤の相澤の言葉、そして船員たちの神妙かつ誠実な眼差しに、正博は深く感銘を受け、居住まいを正してまっすぐに答えた。

「ありがとうございます。そうやって、大叔父のことが語り継がれていくことで、思いが繋がっていく……。そういう目に見えない精神的な文化こそが、やっぱり私たち日本人が一番大切にしていかなければならない思いだと、今、強く実感しています。ぜひ、よろしくお願いいたします」


 その後、正博は調査報告書を丁重に受け取り、受領のサインを行った。

ペンを置くと、厚労省の担当職員である田畑が、静かに一歩前に出た。

「ご祖母様がご逝去されたと伺いました。心よりお悔やみ申し上げます。……それでは皆様、小林将吉様、ならびにご英霊の方々へ、黙祷」


 チーン、という小さな鈴の音が響き、全員が静かに目を閉じた。

 古い会議室の、冷たく澄んだ空気の中に、確かな祈りが満ちていく。


 黙祷が終わり、簡易的な返還式が終了すると、田畑から白木の桐箱に収められた遺品が、正博の両手へと手渡された。ずっしりとした、歴史の重みがそこにはあった。


「長い年月を経て、このような形でお戻りになりましたこと、ご家族にとっても様々な思いがおありかと存じます。本日お渡しした資料には、発見場所や調査の経緯をまとめてございます。どうぞご確認ください。――本日はお越しいただき、誠にありがとうございました。小林将吉様。そして花子様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます」


 職員一同の深い一礼に見送られ、正博は桐箱を大切に抱えながら、厚労省の庁舎を後にした。


 式典がつつがなく終了すると、そのまま庁舎外の片隅で、記者たちによる囲み取材が始まった。マイクが向けられ、まずは海洋調査船『白鳳丸』の甲板長・相澤と、船員の佐藤がインタビューに答える。


「海底から、機体の残骸や破片をすべて手作業で拾い集めました」

 相澤はカメラをまっすぐに見つめ、強い口調で語った。

「実は私自身も、同じ信州の出身なんです。だから、あの暗い海底の泥の中から、この『穂高神社』の鉄のお札が出てきた時は、正直、全身に鳥肌が立ちました。こういった思いや歴史のお話は、私自身、子供を持つ身として、次の世代へちゃんと語り継いでいかなければならないと強く思っています」


 記者が頷き、続いて、遺品を受け取った遺族代表として、正博の前に複数のマイク(インタビューマスク)が差し出された。レンズが、正博の引き締まった顔を真正面から捉える。


「ご遺族として、今、どのようなお気持ちでしょうか」


 正博はカメラの向こうにある、無数の視聴者の視線を一瞬意識したが、すぐに静かに息を吸い込み、今のありのままの事実を口にした。

「……実は、今、信州安曇野の実家では、先週の金曜日に亡くなったばかりの私の祖母の、あ、この度の小林将吉の妹です。その祖母の葬儀の準備が進んでおります。本日は、私が名代として、こちらに伺いました」


「えっ・・・」

 と一瞬驚いた記者たちが一斉にペンを走らせる。


「ですが……こうして、祖母がずっとずっと待ち続けていたお兄様――私の大叔父の遺品を、このタイミングで実家へ持ち帰ることができるのは、遺族として、本当に光栄なことだと思っています」


 語るうちに、昨晩の日比谷公園の記憶、そして祖母の優しい笑顔が溢れてきた。

「きっと……今頃お空の上で、お兄様と私の祖母は、長い時間を経て、笑顔で再会できていると思います。ですから……」

 そこまで言って、正博は思わず胸が熱くなり、カメラの前で言葉に詰まってしまった。溢れそうになる涙を堪え、しかし凛とした佇まいで唇を噛み締める正博のその表情は、そのまま夕方の全国ニュースの映像として、電波に乗って全国へ、リアルタイムで流れていった。


――――

 東京、大岡山と都立大学の間にある、綺麗に整えられたアパートの一室。

 山岡由梨江は、休日の夕食の支度をしながら、部屋のテレビをなんとなく点けていた。流れていたのは、日曜夕方の全国ニュースだった。


『――続いてのニュースです。今年四月、マリアナ沖で引き揚げられた旧海軍の艦上攻撃機「天山」の遺品が、本日、厚生労働省にてご遺族へと返還されました』


 アナウンサーの声を背景に、画面に映し出されたのは、霞が関の庁舎、そして――黒い礼服を着て、真っ直ぐな視線でインタビューに答える、一人の若い男性の姿だった。

「――きっと、お空の上で、お兄様と私の祖母は……」


「……えっ!?」

 由梨江の手から、危うくお玉が滑り落ちそうになった。テレビ画面に大写しになっているのは、まぎれもない、数日前まで会社の一号会議室で、一緒に脳内シナプスをフル回転させて白目を剥いていた同僚・小林正博の姿だった。


「えええええええ~~っ!? !?」

 由梨江は思わずテレビの目の前まで駆け寄り、画面に顔を近づけた。

(来週、おばあちゃんのご不幸で忌引きを取るっていうのは聞いていたけど……え、大叔父さんが英霊!? 天山!? 厚労省で全国ニュースのインタビューに答えてるの!?)


 画面の中の正博は、言葉に詰まりながらも、いつものどこか頼りない彼ではなく、驚くほど凛々しく、一人の大人の男として毅然としたオーラを放っていた。

 由梨江は、あまりのスケールの大きさとドラマチックな展開に、ただただ開いた口が塞がらないまま、テレビの中の頼もしい同僚の横顔を見つめ続けるしかなかった。


―――――

 囲み取材を終えた正博は、桐箱を胸にしっかりと抱え、丸ノ内線から中央線の特急へと乗り換えるため、新宿駅へと向かう電車に乗っていた。

 骨壺を持っているわけではない。しかし、黒い礼服を着た若者が、ただならぬ厳かさを纏って白木の桐箱を抱えているその姿に、休日の混み合う車内の空気は自然と変わっていった。


 前に立つ乗客が、正博の抱える箱を一瞬見つめ、何かを察したようにスッとスペースを空けた。横の席に座っていた年配の男性は、「どうぞ」と無言で席を譲ろうと立ち上がってくれた。


(ああ……みんな、分かってくれるんだな)


 正博の胸に、じんわりとした温かさが広がった。

 地方から東京に出てくる前、正博はどこかで「東京の人は冷たい、他人に無関心だ」という先入観を持っていた。しかし、東京に出てきて怪我をし、松葉杖をついて電車に乗った時も、多くの人がさりげなくドアを開け、席を譲ってくれた。そして今日、このやんごとなき桐箱を抱える自分に対して、周囲の人々は言葉にせずとも、最大限の礼節と配慮を示してくれている。

 東京という街には、冷たいコンクリートの奥に、洗練された高い民度と、他者を思いやる豊かな礼節が確かに息づいているのだと、正博は深く実感していた。


 新宿駅から特急「あずさ」に揺られること約二時間半。

 列車は甲信越の山々を抜け、澄み切った初冬の空気が満ちる信州・松本駅へと滑り込んだ。


 松本駅の長い階段を、正博は一歩一歩、胸の桐箱に振動を与えないよう、細心の注意を払いながら丁重に下りていく。

 改札を抜け、ロータリーへ出ると、冷たく鋭い信州の風が正博の頬を打った。その視線の先、ロータリーの端に、ハザードランプを点滅させた実家の車と、その横に立つ姉・瑞穂の姿があった。


 階段を下りてくる礼服姿の弟を、瑞穂はじっと見つめていた。

かつての、どこか頼りなく、いつも自分の後ろに隠れていたような「ヘタレな弟」の面影は、そこにはなかった。背筋をピンと伸ばし、顎を引き、小林家の歴史そのものである桐箱を命がけで守るように抱えて歩いてくるその姿は、息を呑むほどに男らしく、凛々しかった。


「ふっ……」

 瑞穂は、頼もしさと気恥ずかしさが混ざったような笑みを小さく浮かべると、近づいてきた正博の目をまっすぐに見つめた。


「――おかえり、正博。ずいぶん、男前になったじゃない」


「ただいま、姉貴」

 正博は短く答えると、車の助手席へ、宝物を扱うように慎重に桐箱を安置した。


 ドアが閉まり、静雄の運転する車は、一気に加速して安曇野の葬儀式場へと向かって走り出した。

 窓の外には、冠雪した高妻山や北アルプスの雄大な山々が、夕日に照らされて美しく輝いている。

 六十六年の旅路を終えた大叔父・将吉の魂、そしてそれを待ち続けた花子おばあちゃんの魂。二つの魂を同時に還すための、最後の厳かな儀式が、今まさに始まろうとしていた。車内には、ただただ静かで、力強い家族の決意が満ち満ちていた。

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