20101113 繋がれた家名
祖母・花子が天寿を全うした翌日。
信州・安曇野の小林家は、押し寄せる哀悼と、それに伴う葬儀の手続きや準備で、文字通り目の回るような慌ただしさに包まれていた。
晩秋の澄んだ冷気が窓から忍び込む家の中で、母の和美はエプロン姿のまま、親戚への連絡や寺との調整、弔問客への対応でパタパタと忙しなく廊下を行き来している。
そんな中、居間の電話が、静まり返った家中に高く鳴り響いた。
「あ、お母さん、私が取るよ」
そう言って受話器を上げたのは、近くの嫁ぎ先から、祖母の急逝をきいて一足早く手伝いに駆けつけていた、正博の姉・瑞穂だった。
「はい、小林でございます」
『――突然のお電話で失礼いたします。私、厚生労働省の社会・援護局の田畑と申します。こちら、海軍一等飛行兵曹・小林将吉様のご遺族のお宅でよろしかったでしょうか』
「え……?」
受話器から流れてきた「厚生労働省」、外務省や防衛省とも異なるその厳かな響きに、「海軍」「一等飛行兵曹」と日常聞き慣れぬ単語に、瑞穂は思わず言葉を詰まらせた。
「あの……『将吉』という名前には、私はちょっと馴染みがないのですが……確かに小林の家ではございますが。一体、どういったご用件でしょうか?」
瑞穂の問いに、電話口の田畑という職員は、静かで丁寧なトーンを崩さずに言葉を続けた。
『さようでございますか。実は、昭和十九年六月にマリアナ沖海戦において戦死された、小林将吉様の搭乗されていた機体が、今年の春、現地の海域から引き揚げられまして……。
その機体内部に残されていた遺品の中に、お名前が刻まれた私物がございました。 当省にて専門家を交えた長期間の鑑定と、過去の軍歴簿の照合作業を行いました結果、安曇野の小林将吉様ご本人のものであるという事実が、この度ようやく特定された次第でございます』
「っ……!」
大学時代に地政学を深く学んでいた瑞穂にとって、その言葉が持つ歴史的な重みは、瞬時に理解できた。
一九四四年、マリアナの海――あの激戦の地から、六十六年の時を超えて親族の形見が戻ってきたのだ。息を呑む瑞穂に、田畑はさらに言葉を重ねた。
『鑑定で将吉様のご身元が判明した後、当省から信州安曇野の役場、ならびに現地の戦友会の方々へ、現在のご遺族についての追跡調査を依頼いたしました。
その際、役場の方から「将吉様には花子様という妹がおられ、その花子様が小林の家を繋げて今に至っている」と伺い、こうしてご連絡を差し上げた次第です。
花子様はご結婚された際も他家へは嫁がず、お婿様を迎えて、小林の家名を存続させたと伺っております』
「――え?」
田畑のその言葉を耳にした瞬間、瑞穂の脳裏に、カチリとすべてのピースが嵌まるような、強烈な衝撃が走った。
(そうだったんだ……! だから、おばあちゃんは……)
子供の頃からの、一つの大きな疑問が氷解した瞬間だった。
瑞穂と正博の実家である小林家は、祖母の花子が家長として守ってきた家だ。
幼い頃の瑞穂は「なんでおばあちゃんはお嫁に行かずに、おじいちゃんをお婿さんに貰ったんだろう」と不思議に思ったことがあった。
当時、周囲の古い慣習からすれば、娘が婿を取って家を継ぐのは珍しいことでもあったからだ。大人たちに理由を聞いても「まあ、いろいろあってね」とはぐらかされるだけだった。
だが、今、すべてを理解した。
花子おばあちゃんは、二十代の若さで南の海に散り、子供も残せなかった最愛の兄・将吉の「生きた証」を、この地上から絶対に消したくなかったのだ。
自分が小林の姓を捨ててしまえば、兄のいた小林の家が途絶えてしまう。
だからこそ、彼女は激動の戦後の中でお婿さんを迎え、命がけで「小林」の名を繋ぎ、父・静雄を生み、そして自分や正博へと血を繋いできたのだ。
瑞穂の目から、熱い涙がじわりと溢れ出た。受話器を握る手が震える。
おばあちゃんが命がけで守り抜いた家。そのバトンが今、自分たちの手元にあることの、なんと尊く、重いことか。
『――もしもし、小林様? 聞こえておられますでしょうか』
静まり返った瑞穂を心配する田畑の声に、瑞穂はハッと我に返り、涙声を悟られないよう必死に声を整えた。
「あ……はい、申し訳ありません。しっかり聞こえております。本当に、そこまで丁寧に調べていただいて……ありがとうございます」
瑞穂は深く感謝の念を抱きながらも、ふと、今まさに祭壇が組まれようとしている周囲の慌ただしい情景に目をやった。昨日、その花子おばあちゃんが亡くなったばかりなのだ。
「ただ、本当に不思議なめぐり合わせなのですが……。実は、その将吉さんの妹である私の祖母『花子』が、ちょうど昨日、天寿を全うして亡くなったばかりなんです。今、まさに家じゅうが葬儀の準備の真っ最中でして……。このような中で、せっかくの厚生労働省の皆様をこちらにお迎えするのは、少し難しい状態でして……」
『なんと……それは、誠にご愁傷様でございます。大変な時にお電話してしまい、申し訳ありませんでした』
田畑は電話口で深く恐縮した。
瑞穂は涙を拭い、地政学を学び歴史の重みを知る者として、毅然とした口調で、ある一つの機転を閃かせた。
「いえ、とんでもありません。おばあちゃん、きっとあっちの世界でお兄さんに会えて、喜んでいると思います。……あの、田畑様。もし可能であればなのですが。今、東京に私の弟がおります。その弟が、葬儀のためにこちらに帰省する予定なのですが、信州へ戻ってくる前に、厚生労働省に直接伺って、身内を代表してご遺品を受け取らせていただくことは可能でしょうか?」
『はい、もちろんでございます。そのような形でのご返還も、省内にて厳格な手続きのもと、正式に承っております。では、弟様のお名前とご連絡先をお伺いしてもよろしいでしょうか』
「ありがとうございます。弟は小林正博と申します。よろしくお願いいたします」
受話器を置いた瑞穂は、静かに胸を突く感動に震えながら、すぐにスマートフォンを手に取り、東京の正博へのダイヤルを押し始めた。
――――――
東京の自室で、信州へ帰るための荷造りを呆然と進めていた正博の携帯が鳴った。画面には「姉貴」の文字。
「もしもし、姉貴? 葬儀の日取り決まった?」
『正博、ちょっと落ち着いて、よく聞いてね。あんた、信州に帰ってくる前に、霞が関の厚生労働省に立ち寄ってほしいの』
「え? 厚生労働省? なんで?」
突拍子もない言葉に、正博は眉をひそめた。
『さっきね、厚労省の社会・援護局ってところから実家に電話があったの。あのね……昨日亡くなった花子おばあちゃんには、昔、お兄さんがいたんだって』
「おばあちゃんのお兄さん……?」
『そう。小林将吉さんっていう、海軍の飛行士だった方。そのお兄さんがね、大戦中のマリアナってところで戦死されたんだけど、今年の春に、その乗っていた飛行機が海から引き揚げられたの。その中に遺品が残されていて、厚労省の人たちが一生懸命、気の遠くなるような照合作業をしてくれてね、昨日、ついにおばあちゃんのお兄さんのものだって特定されたんだって』
瑞穂の早口ながらも、地政学的な視点も含んだ熱のこもった説明が、受話器を通じて正博の脳へ流れ込んでくる。
『おばあちゃんが生きていれば、何よりの親孝行になったんだろうけど……本当に不思議なタイミングよね。それでね、これから厚労省の庁舎で、小さく返還式を開いてくれるみたいだから。担当の田畑さんって方からあんたの携帯にすぐ連絡が行く手はずになってる。瑞穂の弟ですっていうんだよ!でね、ちゃんとした礼服を着て、凛とした格好で行きなさいよ。わかった!?』
「あ、う、うん、ああ……分かった」
通話を終え、正博はベッドの上にゆっくりと携帯電話を置いた。
祖母の死、そして、六十六年前に戦死したという大叔父の遺品の返還。
あまりにも突拍子もない大きな出来事が立て続けに起こり、頭の整理が追いつかない。
しかし、その時、正博の胸の奥で、カチリと何かのスイッチが入る音がした。
昨晩の日比谷公園では、希美の優しい温もりに甘え、子供のようにボロボロと涙を流して嗚咽してしまった。己のすべてを曝け出し、彼女のさする手の温かさに救われた。
だが、いつまでも悲しみに暮れて足が止まったままの、あの頃の「ヘタレな小林正博」であってはならない。
今、信州の実家は、おばあちゃんを送り出すために戦場のようにバタバタしている。そして、おばあちゃんがずっとずっと待ち続けていたであろう、お兄さんの遺品が、このタイミングで帰ってきたのだ。
(これこそ……俺がしっかりしなきゃいけない局面だ。男たるもの、ここでしゃんとしなくてどうする)
桔川から教わった「視座を高く持つ」ということ。本山や須田たちが見せてくれた「不測の事態にも冷静に対処する」プロのスタンス。それらが、正博の血肉となって、この瞬間に呼び覚まされようとしていた。
正博は、クローゼットから黒いフォーマルスーツを取り出し、丁寧にシワを伸ばした。
鏡に映る自分の顔を見る。そこには、ただ悲しみに打ちひしがれる男の姿はなかった。日比谷公園で希美に心を救われたからこそ、今度は自分が家族を、そして先祖の魂を背負うのだという、一段とりりしく、引き締まった男の表情がそこにあった。
その正博の姿を、背後で腕を組んで見つめていた将吉は、深く、静かに頷いていた。
(よく言った、正博。お前が俺の還るべき場所へ、俺を連れて行ってくれるのだな。……安曇野の、あの懐かしい家へ)
――――――
東京で正博が霞が関の厚生労働省へと向かう準備を進めていた、まさにその頃。 信州・安曇野の小林家では、受話器を置いたばかりの瑞穂が、居間へと急ぎ足で戻っていた。
「お父さん、お母さん、ちょっと手をとめて。驚かないで聞いてね」
瑞穂の切迫した、しかしどこか震える声に、葬儀の手筈の確認をしていた父・静雄と母・和美が顔を上げた。
瑞穂は、先ほど厚生労働省の社会・援護局からあった電話の内容を、一言も漏らさぬよう、てきぱきと二人に伝える。
マリアナの海から引き揚げられた機体。遺品から特定された、大叔父・小林将吉の身元。そして、亡くなったばかりの花子おばあちゃんが、なぜ「小林」の家名を婿を取ってまで守り抜いたのかという本当の理由――。
瑞穂の話をじっと聞いていた静雄と和美は、しばらくの間、言葉を失って立ち尽くした。
静雄にとっては、自分の母親が命がけで繋いでくれた家の歴史であり、和美にとっては、嫁いできてからずっと見守ってくれた義母の、胸の奥底に秘められた祈りの物語だった。
沈黙の中、夫婦は自然と視線を交わした。
言葉は要らない。
長年連れ添った夫婦の間に、静かな、しかし確固たる合意が通い合う。
「……和美。お前が考えていることは、俺と同じだな」
「ええ、お父さん。これ、偶然じゃないわ。おばあちゃん、お兄ちゃんが帰ってくるのを、本当にギリギリまで待っていたのよ。だから、今しかないわ」
二人は深く頷き合うと、そこからの動きは電光石火だった。
「瑞穂、正博にすぐ連絡してくれて手柄だったな。俺はちょっと奥の間へ行ってくる」
父・静雄はそう言うと、足早に廊下を渡り、今は物置のようになっている母屋の最も古い「奥の間」へと向かった。薄暗い部屋の重い引き戸を開け、埃の匂いが立ち込める中、かつて花子が大切に仕舞っていた古い桐の箱を引っ張り出す。
暗がりのなかで静雄が探し当て、両手で抱えるようにして取り出してきたのは、一枚の古い木製の額縁だった。
それは、昭和十六年の秋――将吉が海軍に入隊して間もない頃、蒲田の駅前で紗子と、生涯で最初で最後の淡い恋情を駆け抜けた、その直後に撮影されたものだった。紗子との切ない別れを経て、横須賀の航空隊へと戻る直前につかの間の帰郷を果たした将吉が、穂高駅前の写真館に立ち寄って残した、唯一の鮮明な肖像写真。
まだ二十歳そこそこの引き締まった肉体。若き海軍飛行兵としての凛々しい軍服姿でありながら、その澄んだ瞳の奥には、蒲田の街に置いてきた最愛の女性を想うような、どこか哀愁を帯びた深い陰影が宿っていた。
花子おばあちゃんは、南の海で消息を絶った兄の遺骨の代わりに、この「最も美しく、そして一人の男として激しく生きていた頃」の将吉の写真を、戦後の混乱期も、自分が老いていく日々の中でも、桐の箱の底で大切に、大切に守り続けてきたのだ。
「よし……」
静雄は少し埃をかぶっていた額縁を、乾いた布で丁寧に、その凛々しい横顔をなぞるように拭き上げた。ガラスの向こうから、六十六年の時を超えて、安曇野の青年の瑞々しい命の輝きが再び鮮やかによみがえる。
「瑞穂、これをおばあちゃんの遺影の隣に飾る準備をしてくれ。おふくろが命がけで繋いだ家に、ようやくお兄ちゃんが還ってくるんだ」
静雄から写真を受け取った瑞穂は、写真の中の大叔父の眼差しに宿る、言葉にならないほどの強い想いと歴史の重みを感じ取り、ゴクリと息を呑んだ。
(おばあちゃん……本当にお兄ちゃんが大好きだったんだね。そして、このお兄ちゃんも、この家を、安曇野をずっと想っていたんだ……)
一方、居間に残った和美は、すぐさま葬儀社の担当者の携帯電話へとダイヤルを走らせていた。その横顔には、小林家の台所と裏方を長年支えてきた主婦としての、強固な頼もしさが宿っていた。
「あ、もしもし、○〇葬祭の松本さんですか? 小林です。度々すみません。実は……今さっき、とんでもない報せが入りまして、葬儀の件で大きなお願い変更があるんです。――はい、昨日亡くなった義母の花子の葬儀なのですが、実は、大戦中に南方で戦死した義母の兄、小林将吉の遺品が、このタイミングで国から返還されることになりました。……ええ、そうなんです。ですので、おばあちゃんの葬儀だけでなく、六十六年ぶりに生還を果たす大叔父の葬儀も、二人の合同葬として、一緒に執り行いたいのです」
電話口の葬儀担当者も色めき立った。前代未聞の事態ではあるが、歴史の重みと家族の想いを察し、「全力を尽くします」と力強い返答が返ってきた。和美はすぐさま、祭壇の規模、遺品を安置するスペースの確保、会葬御礼の追加手配など、必要な変更点をノートに書き留めながら、てきぱきと指示を出していく。
同時に、
静雄は写真を瑞穂に手渡すと、間髪入れずに次の行動に移った。今度は、居間の固定電話の受話器を上げ、重厚な面持ちでダイヤルを回す。かける相手は、小林家の「本家」の家長小林雄二だった。
「あ、もしもし。雄二ちゃん、静雄です。実は、おふくろの葬儀の件で、ちょっと大変大きな動きがあって、本家のお力とお手伝いを事前にお願いしたく…」
静雄は、大叔父・将吉の遺品還送の件、そして合同葬にする旨を、一族の家長として厳かに伝えた。元々、本家の小林家とは縁が深く、戦前戦後を通じて最も交流が深かったため、将吉の存在の重さは本家にとっても他人事ではない。
「――はいはい、おふくろが命がけで守ったこの家名に、ようやくお兄さんが還ってくるんだね。僕らにとって、これは歴史的な儀式だ。受付の手配や親戚一同の差配とか、本家の皆様にも横ぐしで音頭を取っていただきたい。……うん!、ありがとう。じゃまた!」
静雄の力強い声が、安曇野の古い家屋に響き渡る。
母・花子の死という深い悲しみの最中にありながら、小林家の人々は誰一人として立ち止まっていなかった。父・静雄、母・和美、そして姉・瑞穂。それぞれが自分の役割を瞬時に理解し、押し寄せる怒涛のようなタスクを、驚くべき連携でてきぱきと処理していく。
それは、南方の冷たい海の底から、六十六年もの間、ただひたすらに我が家を、妹を想い続けて還ってきた一人の魂を、最高の大礼をもって迎え入れるための、家族の「愛」と「覚悟」のあらわれだった。
安曇野の晩秋の風が、あわただしくも熱気を帯びた小林家の屋根を、優しく撫でるように吹き抜けていった。




