20101112 花子おばあちゃん
決定的な言葉が希美の唇から零れ落ちようとした刹那、卓上で激しく震え出した携帯電話。
その無機質な振動音を、二人の背後で見守っていた守護霊の将吉は、腕を組みながら苦り切った顔で見つめていた。
「全く……携帯電話というものは、こういった人の気持ちの繋がりが、まさに美しく昇華しようという時に、ずいぶんと失敬な代物だな。文字通り、水を差すとはこのことか」
大真面目に憤る将吉の横で、お慶はふっと柔らかな笑みを漏らし、煙管の煙をくゆらせた。
「兵隊さんは相変わらずだねえ。いいじゃないか、これが子孫たちの生きる『日常』ってやつなんだよ。……おや? ところで、お知り合いかい?」
お慶が、ふと将吉の斜め後ろへと、優しげな目を配る。
将吉が驚いて振り返ると、そこには、居酒屋の暖色系の灯りの中に、晴れ着とまではいかないが、上品で綺麗な淡い藤色の訪問着に身を包んだ、一人の女性が静かに佇んでいた。
「……え?」
将吉の目が、これ以上ないほどに大きく見開かれる。その厳格な顔が、一瞬にして子供のような驚きへと変わった。
「お兄ちゃん! ――ふふ、久しぶりだね」
鈴を転がすような、しかしどこか懐かしい響きを持った声。
「花子……! お前、花子なのか……!?」
将吉の記憶にある妹の姿は、昭和十九年六月、マリアナ沖への出撃を前にしたつかの間の休暇で、信州の故郷へ戻ったときのものだ。
原隊へと戻る自分を、松本駅のホームでいつまでも手を振って見送ってくれたあの時の花子は、まだあどけなさの残るモンペ姿の女学生だった。
それが今、目の前にいるのは、きらびやかな訪問着を美しく着こなした、気品ある大人の女性の姿だった。
だが、将吉は、そして隣にいるお慶も、今ここに花子がこの姿で現れたということが「どういう意味を持つのか」を、言葉を交わさずとも魂の根源で理解した。
花子は、かつて安曇野の川沿いで兄の背中を追いかけていた頃と同じように、はにかんだ笑みを浮かべ、
「とうとう、こっちに来ちゃった。えへへ……ずいぶん長生きしちゃったけど、お兄ちゃん、待たせちゃったね」
いたずらっぽく、しかし愛おしそうに兄を見上げる妹。
将吉の胸の奥から、何十年もの間、ずっと仕舞い込まれていた熱い感情が溢れ出す。張り詰めていた頑なな頬が、ゆっくりと、心からの優しい笑顔へと解けていく。
「そうか……とうとう、こっちに来たんだね、花子。本当に、ずいぶん長い間、寂しい思いをさせた。よく頑張ったな」
二人の兄妹の、時空を超えた魂の抱擁と深い絆を、お慶は目頭を熱くしながら、ただただ愛おしそうに目を細めて見守るのだった。
‥‥
現世の光景へと視線が戻る。
正博は「すみません」と希美に短く断りを入れ、画面に表示された「母(和美)」の文字を見て、嫌な予感を覚えながら店外の静かな路地へと出た。冷え込み始めた秋夜の空気に、自分の白い息が混じる。
「もしもし、母さん? どうしたの、こんな時間に」
『――正博? 今ね、お母さん、松本の病院にいるの』
受話器の向こうから聞こえる和美の声は、ひどく静かで、どこか震えていた。
『あのね、落ち着いて聞いてね。……おばあちゃんがね、今しがた、お空に行きました』
「……え?」
正博の思考が、一瞬で真っ白に止まった。
『ここ最近はね、すごく体調も回復して、状態の良い日が続いていたのよ。看護師さんたちとも笑顔で話していたくらいでね。でも、やっぱり季節の変わり目だからかしら……晩秋は移り変わりが早いから。本当に、眠るように、いよいよ天寿を全うするときが来たの。苦しまずに、大往生だったわ』
正博の頭の中に、信州の、あの実家の裏に広がる、黄金色から茶色へと移り変わる山々の情景が浮かんだ。冷たく澄んだ秋風が、祖母の命をそっと連れ去ってしまったかのような感覚だった。
『まずは一報までね。これからお父さんと色々と葬儀の対応があるから、お通夜やお葬式の日取りがはっきり分かったらまた連絡する。そしたらあんた、仕事の都合をつけて、すぐに信州に帰ってらっしゃい! いいわね?』
「……うん。分かった。ありがと、母さん」
通話を終え、携帯電話を握りしめたまま、正博はしばらく路地裏のコンクリートを見つめて立ち尽くした。
ゆっくりと店のカウンター席に戻ってきた正博の姿を見て、希美は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
先ほどまで一人のビジネスパーソンとして精悍に輝いていた彼の瞳から、完全に光が消え失せていたからだ。ただ事ではない。希美は、自分のグラスを置き、恐る恐る、しかし優しく声をかけた。
「小林くん……? どうしたの、何かあった……?」
「……星野さん」
正博は、乾いた声で、自分でもどこか他人事のように呆然とした表情のまま。
「おばあちゃんが……亡くなりました。今、母から連絡があって」
「はっ……」
正博にとって、祖母・花子は特別な存在だった。
親戚中から可愛がられる中で育った正博だったが、特に花子には、物心がつく前から毎日のように面倒を見てもらい、注がれる限りの優しい愛で、文字通り「育くまれて」大きくなった。
大人になり、東京に出てからは、仕事の忙しさにかまけて中々会いに行く機会を作れずにいたが、正博にとって精神的な支え、心の奥底にある帰るべき指標は、いつでもあの信州の優しい祖母だったのだ。
動揺が、全身から隠しきれずに溢れ出ている。
「あ、す、すみません! せっかくの楽しい席なのに、こんな話……。大丈夫です、僕、全然平気ですから! さ、飲みましょう」
正博は必死に平然を装おうとして、無理に笑顔を作ってグラスを持とうとした。
しかし、その指先は小さく震えており、なぜか彼の目から、言葉とは裏腹に、一筋の涙が静かに、頬を伝ってポロポロと流れ落ちる。
本人は、自分が泣いていることにすら気づいていない様子だった。
その痛々しいほどの姿を見た希美の胸に、かつてないほどの激しい感情が突き上げた。いてもたってもいられなかった。
「小林くん、行こう」
希美は素早く自分の荷物をまとめると、正博の腕を優しく取り、店員にお会計を済ませて、彼を促すようにして夜の街へと連れ出した。
―――――
十一月の東京の夜は、日中の暖かさが嘘のように冷え込みが厳しくなっていた。
ビル風が容赦なく二人の体温を奪おうとするが、街の灯りには、まだどことなく、人間の営みが残した温かい空気が漂っている。
二人は、色づいた木々が夜の闇に浮かぶ日比谷公園に向けて、静かに歩みを進めていた。
正博はただ、自分の足元を見つめながら呆然と歩いている。
この一ヶ月で身につけてきたはずの、あの「コトに向き合う参謀」としての精悍さは微塵もなかった。むしろ、春先のあの自信なげで、傷つくのを恐れていた「ヘタレな男」にすっかり戻ってしまったかのようだった。
肩を落とし、今にも夜の寒さに押しつぶされそうな正博の横顔を見ていた希美は、喉の奥がキュッと熱くなるのを感じた。
(私が、この人を支えたい。……今だけでいいから)
希美は深く息を吸い込むと、弾む心臓を抑え、思い切って、正博の右手を自分の両手でギュッと握りしめる。
「――っ!?」
正博の身体が、一瞬びくっと強張った。驚いて隣を見ると、希美は真っ直ぐ前を見つめたまま、しかしその小さな手には驚くほどの強い力が込められていた。
「星野さん……?」
「手を繋いで歩こう。……ね? 小林くんの気持ちが、ちゃんと落ち着くまで」
希美の声は、震えていたけれど、どこまでも優しかった。
拒む理由など、正博にはなかった。
由美の柔らかい、そして驚くほどに温かい手のぬくもりが、かじかんでいた正博の手掌から、じわじわと腕を伝って胸の奥へと染み渡っていく。その絶対的な温もりに触れた瞬間、張り詰めていた正博の何かが、音を立てて崩れ始めた。
安心したせいだろうか。余計に、胸の奥からせり上がるような、言葉にならない圧倒的な悲しさが込み上げてくる。
二人は、公園の隅にある、大きな銀杏の木の下のベンチへと辿り着き、寄り添うようにして座った。
ベンチに腰を下ろした瞬間、正博はもう、己を律することができなくなっていた。
羞恥心も、男としてのプライドを見せようと我慢することも、すべてがどうでもよくなった。
「う、あ……おばあちゃん……っ、ごめん、なさい……っ」
正博は子供のようにボロボロと大粒の涙をこぼし、肩を激しく震わせて嗚咽する。東京に出てきてから、一度も顔を見せに帰らなかった後悔、もうあの優しい声で自分の名前を呼んでもらえない絶望。それが一気に押し寄せ、彼はただ、夜の公園で声を上げて泣き続けた。
希美は、何も言わなかった。
「泣かないで」とも、「大丈夫」とも言わなかった。
ただ、静かに、優しく、正博の震える右手をしっかりと握ったまま、もう片方の手で、彼の大きな背中を、円を描くように優しく、何度も何度もさすり続けた。
激しく泣きじゃくる正博の背中をさすりながら、希美の脳裏には、彼には決して言葉にすることのない、自分自身の「過去の情景」が鮮やかによみがえる。
希美もまた、同じ痛みを、知っていたのだ。
幼い頃に母親を病気で亡くし、不器用な父親との父子家庭で育った希美にとって、本当の母親代わりであり、絶対的な心の拠り所だったのは、祖母だった。
祖母は、昭和の激動、戦前・戦中・戦後の焼け野原を生き抜き、地元の古びた金物屋を、女手一つで何十年も切り盛りしてきた人だった。
金物屋の店主に想像されるような泥臭さは微塵もなく、いつだって、仕立ての良い凛とした着物を崩さずに身にまとい、背筋をピンと伸ばして店に立つ、まるで古い映画の女優のような美しい佇まいの人だった。
近所の人々からも一目置かれるその凛とした祖母は、母親がいなくて寂しい思いをしていた希美を、大きな愛で、包み込むように育ててくれた。
『希美、女の子はね、どんなに苦しい時でも、背筋だけは伸ばしておくものよ。お天道様は、いつでもあなたの味方なんだから』
厳しくも優しいその言葉と、祖母の着物から香る、微かな白檀の香りが、希美の精神的なすべての支えだった。
そんな最愛の祖母が、天に召されたのは、希美が大学一年生の秋…。
秋風が吹き荒れる地方の総合病院のベッドの上。
様々な管に繋がれ、小さくなってしまった祖母の手を、希美はいつまでも、いつまでも握りしめていた。
命の灯火が消え、徐々に、しかし確実に、だんだんと冷たくなっていく祖母の手。
その、かつて自分を何度も抱きしめてくれた手のひらが、この世の何よりも冷たい物質へと変わっていく恐怖と悲しみを、希美は一人、狂いそうなほどの孤独の中で味わったのだ。あの時、世界中で自分一人だけが取り残されたような絶望の中にいた。
(……あの時の私と、今の小林くんは、おんなじだ)
希美は、涙で曇る視線の中で、正博の震える背中を見つめ続けた。
もちろん、この場で「私も同じ経験をしたから分かるよ」なんて、安っぽい同情の言葉をかけるつもりは毛頭なかった。
そんな言葉は、今、生々しい刃で心を抉られたばかりの正博には、何の救いにもならないと分かっていたからだ。
でも、その壮絶な痛みを経験した希美だからこそ、今、正博の胸の中で吹き荒れている悲しみの嵐の大きさが、痛いほどによく分かった。
だからこそ、希美はただ黙って、静かに彼を支えようと決めていた。
冷え込む有楽町の夜気の中。
自分の体温をすべて分け与えるかのように、正博の手を固く握りしめる。
そして、彼の嗚咽が、夜の静寂へと少しずつ溶けていくまで、ずっと、ずっと、優しいリズムでその背中をさすり続けるのだった。
公園の銀杏の葉が、ハラハラと二人の足元に舞い落ちる。
現世の二人の、痛みを共有し、魂の距離が爆発的に近づいていくその光景を、背後の将吉、花子、そしてお慶は、静かな、しかしこれ以上ないほどに温かい眼差しで、いつまでも包み込むように見守っていた。




