20101112 ビジネスセミナーと恋情
二〇一〇年十一月十二日、金曜日。
東京の街は、すっかり日が落ちるのが早くなり、夕方17時を回る頃には、冷え込んだ空気の中に街灯やビルの明かりが鮮やかに浮かび上がるようになっていた。
「業績予測精度向上プロジェクト」が本格始動してから約一ヶ月。
正博と由梨江の二人は、文字通り怒涛のような日々を送っていた。
あの1号会議室でのトップマネジメントの洗礼以来、二人の意識はドラスティックに変わりつつあった。
右も左も分からない専門用語の嵐、経営幹部たちが求める高い視座。
何とかしてそのスピード感に食らいつこうと、二人は暇さえあれば神保町の古書店や大規模書店を巡り、財務会計、管理会計、IPO実務に関する専門書を漁り読むようになっていた。
さらに、週末や就業後の時間を活用し、社外の勉強会やビジネスセミナーにも積極的に足を運んでいた。
退院してからもう二ヶ月近くが経つ。
正博の足はすっかり元通りに回復し、あの忌々しかった松葉杖もとうに卒業していた。今では何不自由なく普通通りの生活を送れるようになっており、身体の自由が戻った分、仕事や学びへのフットワークは以前にも増して軽くなっている。
ちょうどこの日の夕方も、正博はあるセミナーへと参加していた。
有楽町にあるイベントホールの重厚なドアの向こうで開催されていたのは、
『IPOを目指す企業の企画スタッフ向け実務セミナー』。
新進気鋭のコンサルティングファームのパートナーや、直近でマザーズへの大型上場を果たしたITベンチャー企業の社長が登壇するという、今の正博にとって喉から手が出るほど欲しい情報が詰まった催しだった。
壇上のプロジェクターが、上場審査における予実管理の厳しさと、その体制構築の泥臭い実例を映し出す。
「――上場審査で問われるのは、結果の数字ではありません。その数字を導き出したロジックの再現性、精度です」
講師の鋭い言葉を、正博は最前列に近い席で、食い入るように見つめながらノートにペンを走らせていた。
かつての、4月頃のどこかヘタレで、与えられた仕事をただこなすだけだった小林正博の姿は、そこにはもうなかった。周囲に座る他社のエリートサラリーマンたちの存在など一切気にせず、ただ貪欲に、一言半句も漏らさぬように知識を吸収しようとするその横顔には、一人のビジネスパーソンとしての確かな覚悟と、精悍な熱が宿りつつあった。
そんな正博の、周囲を寄せ付けないほどの集中ぶりに、同じ会場の後方から静かに視線を送っている女性がいた。
(……あ、小林くん。やっぱり来てる)
星野希美だった。
彼女もまた、Rコンサルタントを卒業し、現在の転職先で経営企画のメンバーとして最前線に立っている身だ。こういった最新の市場動向や他社の実務ナレッジのキャッチアップは、彼女にとっても死活問題だった。
希美は最初、正博に声をかけようと一歩踏み出しかけたが、ノートが破れんばかりの勢いでペンを走らせ、講師の話に完全に没頭している正博の邪魔をしてはいけないと、そっと声をかけるのを控えた。ただ、その真剣な横顔を見つめる希美の瞳には、松葉杖も取れてすっかり逞しくなった彼への、温かい光が灯っていた。
‥‥
「――本日のセミナーは以上となります。お集まりいただき、誠にありがとうございました」
拍手の中、会場の照明が明るくなる。
「ふぅー……」
正博は大きく息を吐き、凝り固まった肩を回しながら、びっしりと文字で埋まったノートを閉じた。頭は心地よい疲労感で満ちていた。荷物をまとめ、多くの参加者と共にホールの出口へと向かい、冷たい夜風が吹き抜けるビルを出ようとした、その時だった。
「小林くん!」
後ろから、鈴の鳴るような、しかし少しはにかんだような懐かしい声が響く。
正博が驚いて振り返ると、そこには、チャコールの気品あるノーカラーコートに身を包んだ希美が、少し息を弾ませて立っていた。
「星野さん!? え、どうしてここに……!」
「ふふ、やっぱり気づいてなかった。私、三列くらい後ろの席にいたんだよ? 小林くん、全然周りが見えなくなるくらい集中してたから」
「あはは、すみません、全然気づきませんでした……。星野さんも、このセミナーに参加されてたんですね」
「うん。今の会社でも、ちょうど上期の予実が締まったところで、下期のフォアキャストの組み直しをしてるの。ベンチャーだから、他社の事例を少しでも取り入れたくて」
そう言って笑う希美の姿に、正博の胸の中にパッと温かい嬉しさが広がる。
退院の日に病院で花束をもらって以来の再会だったが、彼女の持つ独特の凛とした、しかし柔らかい空気感は、正博の心をいつも自然と解きほぐしてくれた。
何より、自分の足でしっかりと立ち、彼女と同じ目線で向き合えていることが、正博にとっては嬉しかった。
しばらくホールのロビーで言葉を交わしていたが、ふと、希美が少し伏し目がちになり、コートのポケットの中で両手を小さく握りしめながら、控えめに正博を見上げ。
「ねえ、小林くん。……この後って、何か予定ある?」
「え? いえ、金曜日ですけど、今日は帰って勉強の復習をしようと思ってたくらいで、特に何もないですが……」
「じゃあ……もしよかったら、一緒にいっぱい、どうかな? 今日のセミナーのお話の意見交換とか、もっとしたいなって思って」
独身男の正博にとって、金曜日の夜、希美のような魅力的な女性からの突然の誘いは、心臓がどきりと跳ね上がるほどの「びっくりドッキリ」な出来事だ。断る理由など何一つない。
「是非是非、行きましょう! 僕も星野さんの今の会社のお話とか、今日の講義をどう実務に落とし込むか、すごく相談したかったんです」
「本当? よかった。じゃあ、いいお店があるから、少し歩こうか」
二人は並んで歩き出し、ネオンがきらめく有楽町の街並みへと溶け込んでいった。松葉杖のない正博の足取りは軽く、二人の歩調は自然と心地よく重なっていた。
希美が案内してくれたのは、有楽町の高架下から少し離れた路地裏にある、大人の隠れ家のような佇まいの居酒屋だった。
重厚な木製の引き戸を開けると、店内は暖色系の柔らかな照明に包まれており、磨き抜かれた一枚板のカウンター席へと通された。
目の前では職人が静かに料理を仕上げており、騒がしいチェーン店とは違う、落ち着いた時間が流れている。
普通通りの生活に戻った正博は、久しぶりに生ビールを注文し、希美のサワーと軽く乾杯を交わした。小鉢を突きながら、二人の会話は自然と仕事の深い話へと移っていった。
「今の会社ね、すごくやりがいはあるんだけど、やっぱり経営企画としての要求水準がすごく高くて。単に数字を綺麗にするだけじゃなくて、組織の意識そのものを変えなきゃいけないんだなって、日々痛感してるの」
希美はグラスを傾けながら、ふぅと小さくため息をついた。その表情には、真剣にキャリアと向き合うプロの厳しさが滲んでいる。
「分かります」と正博は深く頷いた。
「僕も、この一ヶ月、経営企画の本山課長や財務の須田課長たちとのミーティングに引っ張り出されてるんですけど、本当に次元が違いすぎて……。特に、桔川さんの凄さを、改めて思い知らされました」
「あ、桔川さん。プロジェクトの中心にいるんだ?」
「はい。リーマン・ショックのデータ補正の議論の時なんて、内閣府のDI値だけじゃなくてCI値も引っ張り出して、さらにうちの受注特性に合わせて『先行』と『一致』の4つの指標をブレンドした特製指数をその場で組み立ててみせたんです。本山課長たちも一発で黙らせちゃうくらい、ロジックの塊で……」
正博が熱弁を振るうと、希美はどこか懐かしそうな、そして深い尊敬を湛えた笑みを浮かべて頷いた。
「ふふ、やっぱり桔川さんは相変わらずね。私も、Rコンサルタントで桔川さんの部下をやってた時代、その底知れない凄みは毎日のように実感させられていたな」
「やっぱり、当時から凄かったんですね」
「うん。でもね、小林くん。桔川さんの本当の凄さは、そういう数字のロジックだけじゃないんだよ」
希美はグラスを置き、カウンターの向こうを見つめながら、静かに語り始めた。
「実はね……私がRコンサルタントを辞めて、今の会社に転職する時、一番悩んでいた私の背中をポンって押してくれたの、桔川さんだったの」
「えっ、桔川さんがですか? 自部署の優秀なメンバーが抜けちゃうのに?」
「そうなの。私が『今の自分のスキルで、外のベンチャーの上場準備なんて通用するでしょうか』って泣き言を言った時、桔川さんはね、一言も引き留めなかった。それどころか、『星野の今後の長いキャリアのロードマップを考えたら、Rコンサルタントに居続けるよりも、今すぐ外の厳しい環境で泥を啜った方が絶対に大きなビジネスパーソンになれる』って言ってくれたの」
希美の瞳が、感謝の念で潤んでいるように見えた。
「さらにね、今私がいる会社も、実は桔川さんが『ここなら星野の強みが活きるし、経営陣も信頼できるから、受けてみるといい』って教えてくれた候補の一つだったの。単に自分の手駒として部下を囲い込むんじゃなくて、一人の独立したビジネスパーソンとして、私のキャリア形成を心から応援してくれたの。だから、私は今でも桔川さんのことを、上司として、人間として、大いなる尊敬の念を持っているんだ」
正博は、ビールのジョッキを握ったまま、ただ言葉を失っていた。
そんな背景があったとは、これっぽっちも知らなかった。桔川という男は、ただ仕事ができる天才というだけでなく、そこまで部下の人生とキャリアに真摯に向き合う、圧倒的な器の持ち主だったのだ。
「……そうだったんですね。僕は、本当に恵まれた上司の下で働かせてもらっているんだなと、今、改めて実感しました」
「うん。だから、小林くんが今そのプロジェクトで揉まれているのは、絶対にこれからの人生の財産になるよ。頑張って」
「はい、ありがとうございます!」
重いビジネスの話が一頻り落ち着くと、話題は普段のたわいもない私生活の事へと移っていった。
「星野さんって、お休みの日は、裁縫を続けられているんですか?」
「うーん、最近はね、朝少し早起きして、お気に入りの豆をミルで挽いてコーヒーを淹れたり、季節のお野菜を使ってちょっと凝った常備菜を作ったりしてるかな。お部屋に少しだけお花を絶やさないようにしたり……。なんか、仕事がバタバタしてるからこそ、私生活だけは丁寧に、自分の時間を大切に暮らしたいなって思って」
髪を耳にかけながら、少し照れくさそうに笑う希美。
その、仕事での凛とした姿とは対照的な、私生活を丁寧に美しく整えようとする真面目なスタンスに、正博の胸の奥がキュンと甘く切なく震えた。彼女の生き方、その輪郭すべてが、たまらなく魅力的に思えたのだ。
正博は、何の気ない、本当にただ心から出た感嘆のつもりで、ストレートにその言葉を口にした。
「いやあ……星野さん、そういう姿、すごく好きです。仕事も一生懸命で、プライベートの暮らしも真面目に大切に考えていて。本当に素敵だと思います」
「――えッ」
希美の手が、ピタリと止まった。
正博にしてみれば「人として尊敬できる、素晴らしいライフスタイルですね」というニュアンスの、他意のない真っ直ぐな称賛だった。しかし、受け止めた希美にとっては、それはあまりにも不意打ちで、心臓を直接撃ち抜かれるような言葉だった。
「姿、好きです」――そのフレーズが、希美の脳内で何度もリフレインする。
社内の不正調査を通じて正博の泥臭くも誠実な人柄に触れ、さらにあの事故で生死を彷徨う彼を心配し続ける中で、希美の胸の奥には、彼に対する淡い、しかし消えない恋情が静かに灯り続けていたのだ。
松葉杖も取れ、以前より大人びて精悍になった正博からそんな言葉を向けられ、希美の感情は一気にキャパシティを越えた。
希美の頬が、カウンターの照明のせいだけではなく、みるみるうちに綺麗な朱色に染まっていく。
心臓の鼓動が、耳の奥でうるさいほどに鳴り響いていた。
(小林くんは……どういうつもりで、今の言葉を言ったの……?)
彼を見つめると、正博の目はどこまでも濁りがなく、少年のように真っ直ぐだった。その無防備な誠実さに、希美の中で、ずっと抑え込んできた感情の堰が、一気に決壊しそうになっていた。
この温かい夜の空気の中で、この心地よい距離感の中でなら。
今、この胸の奥にある淡い気持ちを、本当の想いを、彼に打ち明けてもいいかもしれない――。
希美は、潤んだ瞳で正博を真っ直ぐに見つめ、小さく深く息を吸い込んだ。
「ねえ、小林くん。私、実はね、あなたのそういう――」
希美の唇が、決定的な言葉を紡ぎ出そうとした、まさにその瞬間だった。
ブーーッ、ブーーッ、ブーーッ……!!!
静かなカウンターの卓上で、正博のスーツのポケットに入っていた携帯電話が、空気を切り裂くような激しいバイブレーションの音を立てて、無慈悲に震え始めた。




