20101004 ググる
経営企画の核として鋭く数字を突く本山と、それに淀みなく応対し、幹部たちと対等に渡り合う桔川。
正博と由梨江は、ただ圧倒されるしかなかった。社内を動かす先輩たちの知的な力強さに、二人は畏敬の念を抱くと同時に、自身の力不足を痛感していた。
ノートを取る手が止まり、戸惑う二人に気づいた桔川は、議論の合間に視線を向けた。その声は、先ほどまでの鋭さとは打って変わって穏やかだった。
「小林くん、山岡さん。専門用語が多くて戸惑うのも無理はない。わからないことは後で僕がいくらでも補足するから、今はノートを取ることより、トップマネジメントの会議がどう流れ、どう意思決定されるか……その『優先順位』を肌で感じることに集中してほしい」
その言葉に、本山も苦笑しながら頷く。
「桔川の言う通りだ。細かいロジックは後でいい。まずこの空気感を掴んでほしい。」
前平部長も須田課長も、二人を温かく見守るような表情で頷いた。
「気にすることはないよ。最初からこのレベルについてこれる社員などいない。君たちがここで立ち尽くすことは、最初から織り込み済みだ」
幹部たちの温かい包容力に救われ、正博は深く息を吐いた。
だが、同時に胸に突き刺さる疑問があった。
(これほど高度な経営会議に、なぜ現場の自分たちが呼ばれたのか……?)
本山や桔川という先輩たちの懐の深さに感服しつつ、二人は自分たちが求められている役割を必死に探り当てようと、会議の行方を見つめ続けていた。
――――――
重苦しい一号会議室のドアが閉まった瞬間、正博と由梨江は同時に深く、長い溜め息を吐き出した。
脳内のシナプスというシナプスをフル回転させ、聞き慣れない専門用語の豪雨を浴び続けた二人の脳は、完全にオーバーヒートを起こしていた。
自席に戻り、放心したようにパソコンの画面を見つめる二人のもとへ、ジャケットのボタンを一つ外した桔川が、軽い足取りで歩み寄ってきた。
「小林くん、山岡さん。お疲れ様。脳みそが沸騰しそうな顔をしているね」
桔川は悪戯っぽく微笑むと、二人の顔を覗き込んだ。
「ちょっと頭を冷やしに行こうか。近くのカフェで、冷たいものでも奢るよ」
手招きする桔川に連れられてオフィスを出る。
向かった先は、新橋の喧騒から少し外れた場所にある静かな喫茶店だった。
正博にとっては、忘れもしない場所。
五月、社内の不正を暴くために奔走していた際、星野希美と一緒に、桔川と初めて本格的な密談を交わした、あのカフェだ。あの時は希美が隣にいたが、今は由梨江が少し緊張した面持ちで正博の隣を歩いている。
運ばれてきたアイスコーヒーを前に、桔川はあの時と全く同じ仕草を見せた。
グラスに浮かぶ氷をカランと鳴らし、ストローで黒い液体を二口ほど、美味しそうに吸い上げる。そして、ふぅと息を吐くと、真剣な、しかし温かみのあるビジネスパーソンの眼差しになって話し始めた。
「さて、二人が『なぜ自分たちが、あの会議に呼ばれたのか』って顔をしていたから、ちゃんと説明しようと思ってね」
桔川はグラスを置き、二人を真っ直ぐに見つめた。
「我が社が本気でIPO(新規公開株)を目指すにあたって、業績予測や予実管理、その説明ロジックの構造を、これまでの『現場の経験と勘』ではなく、誰が見てもロジカルに説明できる体制へ変革する必要がある。それは会議で本山たちが言っていた通りだ」
正博と由梨江は、アイスコーヒーのグラスを握ったまま、桔川の言葉をじっと聞き入る。
「そのためにはね、今はまだ実務の『作業者』である君たち二人にこそ、経営上層部のリアルな意向や危機感が何なのかを、肌で、ダイレクトに感じてもらう必要があったんだよ」
桔川はそこで一拍置き、トーンを少し落として、あえて厳しい現実を言葉にした。
「いいかい。『企画』と名の付く職種というのはね、本来、役職はただのメンバークラスであっても、視座だけは常に経営陣や役職者と同等かそれ以上を求められる仕事なんだ。むしろ、それができていなくて、ただ言われた数字を集計しているだけで『企画』を名乗っているのだとしたら、それは言葉を選ばずに言えば、単なる上司の『パシリ』に過ぎない」
「パシリ……」
由梨江が小さく息を呑む。
「そう。軍隊に例えるなら、君たちは本当の意味での『参謀』でなければならないんだよ」
正博は、桔川の言葉が痛いほど胸に突き刺さるのを感じていた。ゆっくりとグラスを置き、自分の未熟さを告白するように口を開いた。
「正直……今日の会議は、テンポにも内容にも全くついていけませんでした。自分たちの仕事が否定されたと思って感情的になりかけたことも含めて、自分の視座の低さを、ただただ痛感させられました」
由梨江も、小さく頷きながら言葉を重ねる。
「私も、ついていくのが精いっぱいで、学ぶべきことが多すぎると圧倒されていました。でも、桔川さんのお話を聞いて分かりました。ただ言われたデータを処理するだけの作業者で終わるのではなく、会社全体を俯瞰する高い視座を持ったビジネスパーソンにならないと、本質的な意味での『企画』にはなれないんだって……今、強く自覚しました」
二人の真摯な瞳と、まっすぐな言葉を受け止めた桔川は、先ほどまでの厳しいプロの表情をふっと緩め、いつものにこやかな顔に戻った。
「うん、素晴らしい。今日はそれが身に染みて分かれば、出席してもらった意味は100点満点、大成功よーん」
緊迫した空気を一瞬で脱力させるような桔川の独特の軽い口調に、正博と由梨江は思わず肩の力を抜いた。
「んでさ、ちなみに会議に出てきた難しい専門用語なんだけど……うーん、そうだなー。各自、後でググっといてww」
「えっ、ググるんですか!?」と由梨江が目を丸くする。
「そうそう、ググってww。その方が絶対に調べるの早いし、自分で手を動かした方が脳に吸収しやすいからね。よろしく!」
これまでの仕事を通じて、桔川の「任せる部分は徹底的に泥臭く任せる」という絶妙な育成スタンスを察していた正博と由梨江は、顔を見合わせて、「ですよねえ~~!」と、今度は弾けたような笑顔を返した。新橋の午後の光が、カフェの窓から三人の笑い声を優しく包み込んでいく。
その光景を、正博の背後に佇む守護霊・将吉は、腕を組みながら静かに、しかし深い感銘と共に見つめていた。
(参謀、か……。実に見事な例えだ、桔川殿)
将吉の脳裏に、かつての海軍の光景が鮮やかによみがえる。
軍隊における「参謀」と、現代ビジネスにおける「企画」。
形は違えど、その本質にある共通項を、将吉は誰よりも理解していた。
(本当にその通りだ。ただ将軍の顔色を伺い、ご機嫌を取りながら、自分が起案した作戦に承認のサインをもらうことだけを目的として右往左往していた参謀たちが確かにいた。彼らは、階級こそ高くとも、結局は将軍のパシリ、目の前の帳尻を合わせるだけの作業者に過ぎなかったのだ……)
そんなパシリの参謀たちが、大局を見誤り、硬直した組織の論理で現場を振り回した結果、どれほど多くの尊い命が南方の海に散っていったか。
将吉はそれを嫌というほど体感してきた。
本当の参謀とは、大将や司令官と同じ、あるいはそれ以上の高い視座で戦局の全体を見渡し、時には上官の意に反してでも、勝つための、生き残るための冷徹かつ最適な大計を提示できる者を言う。
(正博。お前の目の前にいる上司は、恐ろしいほどの傑物だ。ただ言われた数字を右から左へ流すパシリになるな。この男の背中から貪欲に学び、真の参謀へと這い上がってみせろ)
将吉は、アイスコーヒーを飲み干して「よし、戻ろうか」と立ち上がる正博の逞しくなった背中を見つめながら、その静かなエールを、初秋の風の中にそっと溶け込ませるのだった。




