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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
2010年 縁編
42/54

20101004 一号会議室の閃光

 二〇一〇年十月四日、月曜日。

 新橋のオフィス街に秋風が吹き抜ける中、Rコンサルタントのオフィスもまた、下期のスタートに合わせた独特の慌ただしさに包まれていた。

 正博も、一ヶ月半のブランクを埋めるべく過去のデータと格闘している。その横顔を、隣席の山岡由梨江が気遣わしげに見守っていた。


 午前中のルーティンが一段落した午前11時前、フロアの中央から、響くような足取りで桔川が歩み寄ってきた。


「小林くん、山岡さん。少し時間をもらえるかな」


 桔川の手には資料を挟んだバインダーがある。

 整えられたスーツに身を包んだその姿は、いかにも「できるビジネスマン」という精悍な雰囲気を醸し出していた。

「今日の午後14時から、1号会議室でミーティングを行う。アジェンダは『全社業績予測モデルの精度向上』について。事前に共有フォルダにある上期の管理会計データを一読しておいてほしい」


「全社業績予測……ですか?」

 正博が驚くと、桔川は短く頷いた。

「ああ。あまり身構える必要はないけど、重要な案件。じゃ、また後で」


 桔川はそれだけ告げると、背筋を伸ばして自席へと戻っていった。残された二人は顔を見合わせ、急いで共有フォルダのデータを開く。


―――――――

 午後14時。1号会議室のドアを開けると、会議メンバーに正博は気圧される。

 ミーティングテーブルの中央には、経営企画部長の前平、その隣には同・経営企画部課長の本山が座っていた。

 さらに財務経理部課長の須田が、分厚い決算資料を前に眼鏡の奥の目を光らせている。


 経営企画部の本山と、営業側のキーマンである桔川。

 この二人は社内でも「次世代の経営幹部候補」と目される双璧のやり手だ。

 普段から本山が全社の数字を冷徹にコントロールするロジカルスターなら、桔川は現場を牽引して戦略を組み立てる参謀。

 同期でもある二人の阿吽の呼吸は社内でも有名だった。


「お、小林。松葉杖での移動、無理はするなよ。そこへ座りな~」

 本山が正博を気遣うように声をかける。

「桔川、さっき営業から上がってきた件。法務のリーガルチェックはどうなった?」

「ああ、スキームBの信託を挟む形のマイルストーン設定に変更しておいたよ。須田課長、税務上の繰延資産の扱い、これで監査法人への説明は立ちますよね?」

「うん、キャッシュフローへのインパクトを見ても、その方が合意を取りやすい」


 二人のやり取りには、長年築き上げたプロ同士のラポールが感じられた。

 全員が揃うと、前平部長が重厚な声で口を開いた。

「よし、『業績予測精度向上プロジェクト』の第1回ミーティングを始めようか。」


―――――――


「現状を経営企画の視点から説明する」

 本山課長がプロジェクターを操作し、グラフを映し出す。

「上期の全社業績は計画通りだ。しかし問題はプロセスにある。営業企画が積み上げた業績予測と実績の乖離が散見された。上振れしたから良かったものの、今後のIPO(新規公開株)を見据えると、この精度の低さは経営企画としては看過できない」


 財務経理の須田が、厳しい表情でそれに補足する。

「全社的な予実管理の精度は、銀行や証券会社からの信用にも直結する。特に上場準備においては、予算管理の適正性は絶対条件だ」


「――ッ」


 その瞬間、正博と由梨江の身体が、同時にびくりと強張った。

 本山と須田が指摘した「営業企画が積み上げた予測のズレ」――それはまさに、正博と由梨江が現場の泥臭いデータを一本ずつ集計し、必死になって叩き出した数字そのものだったからだ。


(自分たちの仕事が、全社レベルで否定された……?)


 胸の奥からカッと熱いものが込み上げる。

 自分達の努力を「精度が低い」「看過できない」と切り捨てられたような気がして、正博の脳裏には強い防衛反応が駆け巡った。


(待ってください、現場の動きは生き物なんです。急な案件失注や、逆に想定外の大口案件だってある。そんなの、最初から完璧に予測できるわけがないじゃないですか……!)

 何とかして自分たちの正当性を主張できないか、言葉を返せないか。正博が必死に反論のロジックを頭の中で思案し、隣の由梨江も悔しそうに小さく唇を噛んだ、その時‥‥。


「その通りですね」

 静かに、しかし澱みのない声で議論に割って入ったのは、桔川だった。


 正博はハッとして桔川を見た。

 自部署の出力データの不備を突かれたのだ。普通なら、部下を庇うため、あるいは部署のメンツを守るために「言い分」を並べて防衛に走ってもおかしくない局面である。

 だが、桔川の精悍な横顔には、感情の揺らぎなど微塵も存在しない。


 桔川の中では、「IPOを目指す」という、絶対的な「コト(目的)」の前提がブレずに揃っていた。

 だからこそ、経営企画と財務からの指摘を「自部署への攻撃」と捉えるような矮小な防衛反応を示さず、組織の課題としてすんなりと受け入れたのだ。


 桔川は本山と須田を見据え、理路整然と言葉を続ける。

「予測精度が低い原因ですが、現状の『パイプラインの進捗ステージ(A〜D)』の入力定義が、各担当者の属人化に陥っていることが根本原因です。

 これを解決するために、成約確度の算出ロジックに、過去3年の実績から弾き出した加重平均をシステム側に組み込む仕様に変更すべきだと考えています。そうすれば、営業個人の主観が排除され、ボラティリティも最小限に抑えられるはずです」


「……なるほど。ステージ定義の標準化と、過去データのシステムロジック化か」

 本山が、感心したように顎を引く。

「確かにそれなら、須田課長の言う監査法人への説明ロジックとしても一貫性が保てますね」


 前平部長や須田財務課長が、桔川の提示した鮮やかな改善案に深く頷き、会議の潮目が「非難」から「具体的な解決への構築」へと一気に加速していく。


 正博は、自分の手の平にじっとりと嫌な汗をかいていることに気づいた。

 誰のメンツでもなく、誰のプライドでもない。ただ「上場を成功させる」というコトに向かって、感情を排してロジカルに最適解を導き出す桔川の姿。

 それこそが、正博がいつも憧れ、目指していたはずの「プロフェッショナル」のスタンスそのものだった。


(……俺は何を熱くなっていたんだ。恥ずかしい……)


 自分たちの仕事を否定されたと勘違いし、感情的に言い返そうとしていた己の未熟さが、無性に恥ずかしかった。

 桔川は、自分や由梨江の努力を否定したのではない。

 ただ、より高い次元へ組織を引き上げるために、事実を事実として見つめていただけなのだ。

 正博は内心で深く猛省しながら、背筋を伸ばし、桔川の背中を通して「コトに向き合う」というビジネスの本当の厳しさと、その先にある面白さを、深く心に刻み込む。


 会議室の空気が前向きに動き出したのも束の間、経営企画部課長の本山が、机の上の資料へ鋭い視線を落としながら、さらに一歩踏み込んだ突っ込みを入れた。


「確かに、過去の実績から弾き出した加重平均をシステムロジックに組み込めば、営業個人の主観によるブレは排除できる。……だが、桔川。もう一つ大きな問題があるぞ」


 本山はペンを執り、ホワイトボードの数値をトントンと叩いた。

「過去のデータをベースにするとなると、一昨年末(2008年)に起きた『リーマン・ショック』の変動がモロにデータへ乗ってくる。あの市場の冷え込みと急激な業績悪化の数値をそのままロジックに組み込むと、今度は下期以降の予測値が実態よりも保守的に振れすぎるリスクがある。この異常値の『補正』はどう考える?」


「補正……?」


 正博と由梨江は、またしても心の中で同時にその言葉を繰り返した。

 一昨年のリーマン・ショックによる経済の大混乱は、まだ社会に生々しい傷跡を残している。企業の倒産や予算凍結が相次いだあの激動の数値を「補正する」と言われても、起きてしまった過去の事実をどういじればいいのか。ましてや、そのデータを使って「まだ見ぬ未来」をどうやって予測するというのか。二人の頭の中には、ただただ巨大な疑問符が浮かぶばかりだった。


 しかし、桔川の思考の解像度は、ここでも平社員のそれとは一線を画していた。彼は表情一つ変えず、淡々と、淀みのないトーンで本山の問いに応じた。


「その点については、二段階のフィルタリングを想定しています。まず、リーマン発生直後からの約半年間といった、明らかに市場がパニックを起こしている期間のデータは『外れ値』としてロジックの分母から完全に除外します」


 桔川は手元のバインダーのページをめくり、一枚のトレンドグラフを指し示し。

「その上で、過去の類似局面――具体的には2000年前後の『ITバブル崩壊』の局面ですね。あの景気後退期から緩やかな回復へ向かった時期の景気動向指数をベンチマークとして参考にし、今回の予測モデルの係数にトレンド補正をかけます。……ただし、一般的な内閣府発表のDIディフュージョン・インデックス値をそのまま使うような、大雑把な補正はしません」


「ほう?」と、本山が興味深そうに片眉を上げた。


「本山も知っての通り、景気の波及度や方向性だけを示すDIだけでは、実際の市場の『変動の大きさやテンポ』、つまり“量感”が掴めません。ですので、もう一つの景気動向指数…CIコンポジット・インデックス値も同時に組み込みます」


 桔川の口から淀みなく繰り出される「DI」と「CI」の精緻な使い分けに、財務経理の須田が眼鏡の奥の目をピクリと光らせる。


「さらに、我が社の業態の特性を鑑みると、経済動向に数ヶ月先行して動く『先行系列』と、現在景気と連動する『一致系列』の動きが最も実態に合致します。したがって、今回は【DIの先行・一致】および【CIの先行・一致】という、これら4つの波形指標を独自に抽出・平均化した『合成指数』を作成し、補正係数として適用するのが最も合理的だと考えています」


 会議室に、しんと静まり返るような沈黙が降りた。

 ただ過去の景気が悪かった時期の数字をなぞるのではない。指標の特性を自社のビジネスモデルに最適化し、DIとCI、さらには先行・一致の4象限をブレンドして「独自の物差し」をその場で組み立ててみせたのだ。


 正博の頭の中は、完全にパンク状態だった。

(DIにCI……先行と一致? 4つの波形を平均化……? 一体この人は、どれだけ先の構造を見据えて数字を扱っているんだ……)

 隣の由梨江も、驚きと圧倒のあまり、開いた口が塞がらないといった様子で桔川の横顔を見つめている。


 本山は腕を組み、桔川の提示した「4指標の平均化によるトレンド補正」という極めて現実的かつ高度なアプローチを、頭の中でシミュレーションするように咀嚼していた。


「……なるほどな」

 本山は小さく息を吐き、ペンをオフィスデスクに置いた。

「ただのDIでの方向性チェックじゃなく、CIでの『量感』を混ぜて、さらにうちの業態に合わせて遅行系列を省いたか。確かにそれなら、リーマンの過度な引っ張られも防げるし、須田課長の言う監査法人への説明論理ロジックとしてもこれ以上ない一貫性が保てるな。前平部長、この方向でトップラインの引き直しを進めても?」


「ああ。主幹事証券会社からも、ガバナンスとこの予実管理体制の構築を急げと言われている。桔川くんのそのロジックなら、突っ込まれても十分に戦える」


 桔川はふっと視線を前平部長と須田課長の方へと向けた。


「ただ、どれほど精緻なロジックを組み、過去のトレンドを掛け合わせたところで、『どこまで行っても不確実性を孕んだ予測値』である事実に変わりはありません。だからこそ、仕組みだけでなく、プロセスの見直しも必要かと。

 これまで経営企画と営業企画の二者間のみで擦り合わせていた月次の業績予測ですが、今後は財務経理部も含めた三者で、『横ぐし』で合意を図る体制構築も併せて提案します」


 桔川の言葉は、単なる数字の計算式の話に留まらず、「組織的なガバナンス」の領域にまで達していた。更に説明を続ける。


「外部シンクタンクの経済予測やリサーチペーパーも、当然、検証材料として使用します。ですが、まずは『足元の実績から語れるロジック』を前提の軸に置く。これが、予実のブレを最小限に抑えるための最善アプローチだと考えます」


 会議室に、しばしの静寂が訪れた。


「外部シンクタンクの為替見通しや景気動向予測は、盲信すると足元をすくわれるが、シナリオプランニングの一定の参考値としてインプットしておく分には悪くない。……まあ、その外部データのウェイトをどれくらいにするかという話は、今ここで論ずるべき論点ではないね。まずは桔川の言う通り、俺たちの実績データを軸にしたロジックのプロトタイプを作ることと、予測合意の体制構築。これがネクストアクションだね。」


 本山がそう締めくくると、上座に座る前平部長が「よし、方向性は見えたな」と深く頷いた。


 リーマン・ショックという歴史的大不況の波すらも、冷静に「外れ値」と「過去の類似波形」に分解し、コトの解決に向けて淡々と必要なピースを埋めていく。そして次に何をすべきかの、解像度高いネクストアクションまでを定めて、合意形成を図る。

 正博と由梨江は、ノートの端に「外れ値除外」「横ぐしの合意」と書き留めながら、ただその圧倒的かつあまりにも生産性高い議論の応酬の余韻に、深く震えるばかりだった。

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