20100927 アルクマの再始動
二〇一〇年九月二十四日、金曜日。
前日の祝日「秋分の日」と、翌日の土曜日に挟まれたこの日は、世間的にはいわゆる「大型連休の谷間」。
午前11時を回る少し前、新橋にある「Rコンサルタント」のオフィスは、有給休暇を使って連休を繋げた社員も多いのか、いつもと違ってどこか人の気配がまばらで、静かな空気の漂うフロアとなっていた。
そんなフロアの入口に、松葉杖を突きながら少し緊張した面持ちの小林正博と、その傍らに付き添う母親の和美の姿があった。
「もういい歳をした息子のことなんだから、本来なら一人で来させるべきなんだけど……」
と道中こぼしていた和美だったが、これまで息子が大変な大事故に遭い、生死の境を彷徨う中、親身になって支え続けてくれた会社の人々に対して、どうしても一言直接お礼が言いたかったのだ。手には、信州の銘菓が詰まった小ぶりだが上質な菓子折りが携えられていた。
「あら、小林くん! それにお母様ですか?」
フロアに入ってすぐ、受付付近にいた安江が、二人の姿に気づいてすぐに駆け寄ってきた。
「来週の月曜日から、ようやく職場に復帰できることになりました。入院中は多大なご心配とご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
正博が松葉杖を支えにしながら深く頭を下げると、和美もそれに合わせて一歩前に出た。
「母親の和美でございます。正博の入院中は、皆様に本当に温かいお言葉をいただき、どんなに励まされたか分かりません。これはほんの気持ちですが、皆さんで召し上がってください」
「まあ、そんなに気を遣っていただかなくても……! でも、本当によかったです。一時はどうなることかと全員で生きた心地がしませんでしたから」
安江が和美を温かく迎え入れ、応接スペースへと案内する。
「母ちゃん、じゃあ俺、ちょっとみんなに顔を出してくるから、ここで少し待っていて」
「ええ、分かったわ。皆さんにしっかりご挨拶してくるのよ」
和美を託し、正博は松葉杖を床に響かせながら、仕切りの向こうにあるオフィスの中央へと進んでいった。
「お、小林! 退院おめでとう!」
「よかったな、小林! 本当に心配したんだぞ!」
正博の姿を認め、デスクから顔を上げたのは江藤と山川だった。二人は正博を囲むと、その肩を叩いて我がことのように破顔した。
特に江藤と山川にしてみれば、あの運命の夜、正博を合コンに連れ出し、結果としてあの未曾有の事故へと巻き込むきっかけを作ってしまったという、言葉にできない強い責任感と罪悪感をずっと胸の奥に抱き続けていたのだ。
正博の健康そうな笑顔を前にして、二人の胸からは、一ヶ月以上も開えていた重い塊が、ようやくすうっと消えていくようだった。
「江藤さん、山川さん、本当にありがとうございました。おかげさまで、なんとか戻ってこられました」
「バカ言え、俺たちのほうこそ……いや、本当に良かった。まだ松葉杖だけど、顔色はめちゃくちゃ良いじゃないか」
同僚たちからの温かい祝福の言葉を受けながら、正博は一ヶ月以上も不在にしていた自分のデスクへと足を向けた。
長期間空席だったにもかかわらず、そのデスクは埃一つなく、書類や文房具が驚くほど綺麗に整えられていた。誰かが日常的に手入れをしてくれていたのは一目瞭然だった。
そして何より、正博の目を惹きつけたのは、デスクの真ん中にちょこんと鎮座していた、緑色の小さな「主」だった。
「……あれ?」
それは、正博の故郷・信州の広報マスコットキャラクターである「アルクマ」の、手のひらサイズのかわいらしいぬいぐるみだった。赤くりんごの被り物をしたその人形が、まるで「おかえり」とでも言うように、正博の席を見つめていた。
「誰が置いたんだろう、これ……」
不思議に思いながら、ふと、その隣のデスクに目をやる。そこは、そういえば山岡由梨江の席だった。しかし、今日の彼女のデスクは静まり返っており、主の姿はなかった。
「江藤さん、山岡さんは今日は……? 有給ですか?」
正博が尋ねると、江藤は少し顔を曇らせて、声を落として言った。
「ああ、山岡さんね。ここ数日、どうも体調を崩しちゃったみたいでさ。今日もお休みなんだよ」
「体調を……ですか?」
「うん。まあ、あの事故以来さ、本人は傍から見ても、ものすごく気が張っているように見えたんだよね。自分たちもなるべくサポートはしたつもりなんだけど、小林が退院するって聞いて、ホッとして疲れが一気に出ちゃったのかもしれないな。個別に退院の報告のメッセージでも、入れておいてあげるといいよ」
「……そうですか」
正博は、ぽつんと置かれたアルクマの人形を見つめた。
由梨江がどんな思いでこのデスクを綺麗に保ち、自分の故郷のキャラクターをここに置いておいてくれたのか。その健気な心遣いが胸にじんわりと染み渡る。
正博は懐から携帯電話を取り出すと、デスクの上のアルクマ君を、角度を変えながら写メで何枚か静かに撮影した。
――――――――――
オフィスへの挨拶を終え、帰りの道中は、正博にとって、来週からの現実を思い知らされる過酷なリハビリそのものだった。
新橋から京浜東北線の電車に揺られ、蒲田駅で下車。そこから東急池上線へと乗り換える。松葉杖の身にとって、駅の階段や乗り換えの激しい人の波は、想像以上の障害物だ。和美が正博の身体を庇うようにして寄り添ってくれたが、来週の月曜日からは、この過酷な通勤路を、自分一人だけの足で通わなければならない。
息をきらせながら、ようやく千鳥町にある正博のアパートへとたどり着いた。
玄関の鍵を開け、室内に荷物を下ろす。台所の冷蔵庫を開けると、昨日から和美が正博のために作り置きをしておいてくれた、懐かしい匂いのするカレーがウェックの容器にぎっしりと詰まっていた。
「ふう……」
ソファに腰を下ろそうとした正博に、和美は荷物をまとめて声をかけた。
「じゃあ、正博。私はこれで信州に戻るね」
「えっ? 母ちゃん、もう帰るのか? 大丈夫かよ、新宿のバスターミナルまで送っていかなくて」
驚いて立ち上がろうとする正博に、和美はにこにこと笑いながら手を振った。
「何言ってるのよ。ここから五反田まで出て、そこから山手線に乗れば新宿なんてすぐでしょ。あんたが入院している間、私も何度も東京に来るようになって、すっかり道順くらい覚えちゃったわよ。だから大丈夫」
そう言って胸を張る和美の表情には、どこか頼もしさがあった。
「それにね、田舎でおばあちゃんのこともあるから。あんまり長く留守にするわけにもいかないのよ。早く帰っておいてあげたいの」
「そうか……。じゃあ、本当に気をつけてな。いろいろ、ありがとう」
「あんたこそ、来週から無理しちゃダメよ。それから……」
和美は玄関のドアに手をかけ、最後に正博を振り返ると、その目を細めて悪戯っぽく微笑んだ。
「由梨江さんに、澪さんに、それから昨日病院へ来てくださった希美さん。皆さんにはよおおーーく、よろしくお伝えくださいね。ふふ、男の人にこんなにモテる時期なんて、人生のなかでそうそう無いんだから。大事にするのよ」
「ちょっと、母ちゃん! 何言って――」
正博が顔を真っ赤にして言い返す前に、「じゃあね」と和美は軽やかにドアを閉め、出かけて行ってしまった。
……
母が去り、再び静まり返ったアパートの一室。
これまでの、二十四時間誰かしらの気配があった騒がしい病室や、さっきまでの新橋の喧騒とは打って変わり、部屋には完全な静寂が満ちていた。遠くから、ゴトゴトと東急池上線の電車が走る微かな音が、初秋の空気を通じて鼓膜に優しく届いてくる。
「ふぅ……」
正博は、こんどこそ深くソファに腰を下ろした。どっと出た疲れの中で、ふとジャケットのポケットから携帯電話を取り出す。
頭に浮かんだのは、今日オフィスにいなかった由梨江の顔だった。江藤の言葉通り、彼女に退院の報告をせねばならない。
正博は、先ほどオフィスで撮影した、自分のデスクの上の「アルクマ」の写メを添付し、彼女へのメッセージを打ち込み始めた。
『山岡さん、小林です。昨日無事に退院しました! 本当に、入院中はありがとうございました! ……んで、僕のデスクの「アルクマ」、めちゃくちゃ可愛いですね(笑)。見た瞬間本当にほっこりして、思わず写メ撮っちゃいました。来週からまた、よろしくお願いします』
由梨江への感謝の念を込めつつ、長すぎず端的に。誠実な感謝を伝えるメッセージを、正博は送信ボタンを押して電波へと飛ばした。
―――――
大岡山と都立大学の間にある、静かな住宅街の一角。
薄緑色のレースカーテンが引かれたアパートの部屋で、山岡由梨江はベッドに横たわっていた。
彼女がここ数日体調を崩していたのは、単なる過労だけではなかった。
守護霊である志乃が、有明の要塞でニーナとラプタに捕らえられ、霊力を極限まで吸い尽くされてしまったその霊的な影響が、由梨江の肉体にも「原因不明の激しい倦怠感と微熱」としてダイレクトに現れていたのだ。
志乃が沙沙貴神社へと移送され、呪縛が解けたことで熱は下がったものの、まだ身体は重く、彼女は布団の中で丸くなっていた。
ピロリン、ピロリン♪
静かな枕元で、ガラケーの電子的な着信音が鳴り響いた。
由梨江は重い瞼を開け、枕元に手を伸ばして液晶画面を開く。送信主の欄に表示された名前を見た瞬間、彼女の心臓がどきりと大きく跳ね上がった。
『小林正博』
「……小林くん……っ!」
それまでの気怠さなど嘘のように、由梨江は布団を撥ね退けてぱっとベッドの上に起き上がった。
はやる心を抑えきれない手つきでメッセージを開く。そこには、綺麗に片付けられた彼のデスクと、その中央でちょこんと座る、あの緑色のアルクマの人形の写真が添付されていた。
正博からの、誠実で、どこか照れくさそうな感謝の言葉が綴られた画面を見つめているうちに、由梨江の胸の奥から、言葉にならない愛おしさが爆発するように湧き上がってきた。
「ふふ……ふふふっ……」
由梨江はベッドの上で小さく膝を抱え込むと、嬉しさを噛み締めるようにして、身体を小さく左右に揺らした。
あの事故の夜からずっと、彼を失ってしまうかもしれないという恐怖と戦い、ただ彼の無事だけを祈り続けてきた。彼の優しいメッセージによって、今、彼女のなかで何かが決定的な形となって、その魂を揺らしていたのだ
由梨江は弾むような足取りでベッドから下りると、窓辺へと歩み寄る。
遮光カーテンとレースのカーテンを勢いよく両手で広げ、窓を大きく開け放つ。
「すぅ……っ」
流れ込んできた、どこか切なくも瑞々しい初秋の涼しい空気を、由梨江は胸いっぱいに深く吸い込んだ。窓の外に広がる青空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。もう、大丈夫。彼も、自分も、ここからまた始められるのだ。
―――――
二〇一〇年九月二七日、月曜日。
いつもより一時間以上早く千鳥町のアパートを出た正博だったが、現実は甘くなかった。
松葉杖を突きながらの移動は、通常の何倍もの体力を消耗する。
月曜の朝の京浜東北線は文字通りの地獄だった。
一応、周囲の心あるサラリーマンたちは松葉杖に気づいてスペースを空けてくれたり、身体を庇ってくれたりしたが、中には携帯画面に夢中で、正博の足元に容赦なくぶつかってくる冷淡な人間も少なくなかった。
激しい人の波に揉まれ、新橋駅からオフィスビルまで歩くだけで、正博の額からは嫌な汗が流れ落ちていた。 Rコンサルタントのフロアに入り、自分のデスクにたどり着いた時には、まだ仕事を開始してもいないというのに、一日の体力をすでに使い果たしてしまったかのような疲労感に襲われていた。
「はぁ……。出勤だけで、これじゃ先が思いやられるな……」
正博が松葉杖をデスクの脇に立てかけ、小さくため息をつきながら椅子に腰を下ろそうとした、その時だった。
「先輩!」
後ろから、耳に心地よい、しかし凛としたはきはきとした声が響いた。
正博が驚いて振り返ると、そこには、すっかり体調の戻った、そしていつにも増して元気で晴れやかな笑顔を浮かべた山岡由梨江が立っていた。彼女の瞳は、朝のオフィスの光を受けてきらきらと輝いている。
「退院、そして出社、本当におめでとうございます! また今日から、色々とよろしくお願いいたします!」
背筋をピンと伸ばし、元気いっぱいに挨拶をしてくれる由梨江の姿に、正博の胸の疲れは一瞬で消し飛んでしまった。
「あ……うん! 山岡さん、ありがとう。アルクマも本当に嬉しかった。……しばらくはこんな松葉杖姿で迷惑かけちゃうかもしれないけど、こちらこそよろしくね」
正博が少し照れくさそうに、しかし心からの笑顔を返すと、由梨江は「はいっ!」と嬉しそうに頷き、自分の席へと着いた。
窓の外からは、東京の街を優しく照らす初秋のまばゆい朝光が差し込んでいる。
過去の戦い、先祖たちの守護、縁ある者たちの想いを背負いながら、小林正博の新しい日常の歯車が、今、再び力強く回り始めた。




