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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
2011年 結び編
54/54

20141122 結び 八芳園にて

 二〇一四年十一月二十二日。

 晩秋の東京は、雲一つない見事なまでの快晴に恵まれていた。

 白金台に佇む名門・八芳園の広大な日本庭園は、燃えるような紅葉と黄金色に輝く銀杏に彩られ、柔らかな陽光が木々の隙間から祝福の光のように降り注いでいる。


 格式高い式場の一角には、今日の佳き日を祝うにふさわしい、堂々たる四斗樽が据えられていた。

 樽を包むこもには、力強い筆文字でその銘柄が染め抜かれている。

 会津の地で、幾多の苦難を乗り越えて醸された、誠二郎の酒蔵の瑞々しい「新酒」であった。

 澄んだ空気の中に、ほんのりと甘く芳醇な香りがあたり一面に漂い、華やかな祝祭のムードをいっそう引き立てている。


 挙式会場の手前に設けられたゲスト控室では、色とりどりのドレスや厳かな礼服に身を包んだ招待客たちが、穏やかな笑顔で談笑していた。

 その輪の中心にいたのは、誠二郎と、その隣で睦まじく寄り添う澪の姿だった。


 二人は前年、二〇一三年に晴れて籍を入れ、夫婦となっていたのだ。


 東日本大震災の後、いわれのない風評被害によって、誠二郎の蔵を含む東北の日本酒は一時、深刻な苦境に立たされていた。

 そんな中、澪が勤務する大手総合商社で「東北復興支援プロジェクト」が立ち上がり、食品部門の担当として澪が抜擢されたのが、すべての始まりだった。


 有楽町で開催された復興物産展。

 熱気あふれる会場で、蔵元として真摯に酒を振る舞う誠二郎と、支援の情熱を胸に会場を飛び回る澪は、運命的な再会を果たした。

 あの震災直後の大混乱の夜、誠二郎の家に温かく迎え入れてもらったあのご縁――あの時、暗闇の中で確かに通い合った心の灯火が決定打となり、二人は困難を乗り越え、生涯の伴侶となる道を歩み始めたのだった。


 もちろん、今日の主役である正博は、二人の恋路を誰よりも応援し、式にも招待していた大切な恩人であり友人であった。


「……いやあ、なんだか自分の時以上に緊張してきたな」

 誠二郎が、仕立ての良いスーツの襟元に手をやりながら、おどけたように首をすくめる。

 すると、隣の澪がクスッと悪戯っぽく笑いながら、小突くように言った。

「またまた、冗談ばっかり。自分の結婚式の時は、緊張のあまり誓いの言葉を噛みちぎってたくせに」

「おいおい、それを言うなよ。今日の主役に伝染したらどうするんだ」

 そんな二人の微笑ましい、すっかり息の合った夫婦の会話が、控室に心地よい笑いを生んでいく。


 少し離れた場所では、現在は昇格した桔川部長が、額に薄っすらと汗を浮かべながら手元のメモを何度も小声で読み直していた。

 ロジカルで冷静沈着な彼らしく、スピーチの構成や時間配分を完璧に頭叩き込もうとしているのだろう。

 そこへ、華やかなドレス姿の安江が、歩調を緩めながら近づいてきた。

「課長、あ……ごめんなさい、今は桔川部長、ですね。……部長でも、そんなに緊張することあるんですね」


 桔川はハッとしてメモを隠すように折りたたむと、決まり悪そうに、しかし優しくはにかんだ。

「いやあ、取締役会とか、億単位案件のプレゼンとか、全く緊張しないんだけどさ。やっぱり、一生に一度の、大切な部下の宴席でスピーチをするってのは……どうには勝手が違うよ。ロジックだけじゃ片付かない、重みがあるからね」

 そう言って、遠くの新郎控室の方向を、まるで我が子の成長を頼もしく思う父親のような、温かい眼差しで見つめるのだった。


―――――


 華やかな喧騒が響く表舞台の裏側。


 式場のスタッフたちがインカムを手に指示を飛ばし、厳かな足取りで準備に動き回る通路の奥。


 ひっそりと佇む重厚な木目の扉――新郎控室。


 室内では、正博が鏡の前に立ち、緊張の面持ちで何度もネクタイの結び目を整えていた。

 窓から差し込む秋の光が、彼の引き締まった横顔を照らしている。

 社会人として、一人の男として、数々の試練を乗り越えてきた彼も、今日という日ばかりは、胸の鼓動が収まらないようだった。


 そこへ、パタパタと小気味よい足音とともに、格式高い黒留袖を凛と着こなした母・和美が入ってきた。


「さあ、正博。準備はできた?」

 和美は息子の前に歩み寄ると、少し曲がっていた胸元のチーフを優しく直しながら、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

「花嫁さんのほうも、もう準備ができているわよ。さっき私も一足先に控え室を覗かせてもらったけれど……うん、本当に、きれい……」


 和美はそこで一度言葉を区切り、感慨深そうに息子のタキシード姿を上から下まで見つめた。その目は、どこか遠い日を懐かしむように潤んでいる。


「トラックに跳ねられたり、大震災があったり、もう何年も経ったのねえ。

 誠二郎くんと澪ちゃんが結ばれたのもそうだし、あなたがこうして今日という日を迎えたことも……ご縁って、本当に不思議ねえ。どこでどう繋がっているか分からないけれど、みんな引き寄せられるように結ばれていくねえ。」


 和美は正博の肩にそっと手を置き、優しくトントンと叩き。


「おばあちゃんと、あの写真の大叔父さんの将吉さんも、きっとどこかであなたを見守っているわよ。ふたりで並んで、『正博、よくやった、おめでとう』って、一番喜んで応援してくれているはずだから」


 母のその言葉は、正博の胸の奥深く、これまで目に見えない大きな力に守られてきたという確信に、温かく灯をともした。

 鏡の向こうの和美を見つめ、正博は深く深く頷いた。


「……うん。ありがとう、母ちゃん。行ってくる」

 正博は深く息を吐き出し、鏡の中の自分に最後にもう一度頷くと、確かな足取りで控室を後にした。


 静まり返った廊下。

 ふかふかの、鮮やかな赤い絨毯の上が、正博の一歩一歩を受け止めていく。


 正博の歩みに合わせるようにして、現世の人間には決して見えない、しかし眩いばかりの光を放つ二つの霊体が、寄り添うように並走していた。


 第一種軍装を寸分の乱れもなく着用し、凛々しく正装した大叔父・将吉。

 開け放たれた窓から差し込む陽光を受け、その金ボタンが誇らしげにきらめいている。

 そしてその隣には、今や優しく清らかな霊体となった正博の祖母・花子が寄り添っていた。


 花子は、比翼仕立ての格式高い黒留袖を美しくまとっていた。

 漆黒の地を飾るのは、秋を彩る金銀の刺繍があしらわれた、気品ある古典柄の裾模様。帯周りには白の帯揚げと、金糸が織り込まれた格調高い帯締めが凛と収まり、その姿はどこまでも優美で、深い気品に満ちていた。若々しく、すっきりと背筋を伸ばした彼女の表情には、和美の言葉通り、孫の晴れ舞台を見届けられる極上の幸せが溢れている。


 孫の精悍な後ろ姿をじっと見つめていた花子が、目元を少し潤ませながら、優しく愛おしい声で呟いた。

「お兄ちゃん、いよいよ今日が来ましたね……。あの子が、これほど立派に、自分の足で人生の伴侶を迎えに行くなんて」


 将吉は、窓の縁に手をおもむろに置き、幾多の苦難を共に潜り抜けてきた愛おしい子孫を見つめ、深く、大きく頷いた。

「ああ、色々あったが、本当に良かった、花子。だが、これが彼らの本当の『門出』だ。現世を生きるということは、これからも予期せぬ嵐や、険しい坂道が待っているだろう」


「ええ、分かっていますとも」

 花子は上品な黒留袖の袖口をそっと合わせ、正博の背中に向かって、まるですべてを包み込むような温かい眼差しを向けた。

「でも、あの子ならもう大丈夫。私たちはこれからも、二人の歩む道を、ずっと空から見守っていきましょうね」


「ああ、もちろんだ。これからも、ずっとな」


 現世と彼岸、すべての愛と祝福をその背中に受けながら、正博はついに、花嫁が待つファーストミートの部屋の、重厚な扉の前に立った。


 一瞬、手のひらにかいた汗をスラックスで拭い、意を決し真鍮のドアノブを回す。


 カチャリ、と静かな音が響き、ゆっくりと扉が開いた。


 窓からの柔らかな逆光を受け、部屋の中央にぽつんと佇んでいたのは、純白のウェディングドレスを身にまとった、見違えるように美しいひとりの花嫁。


 レースの裾が、陽光に透けてきらきらと輝いている。


 ドアの開く音に気づき、花嫁が、ゆっくりとこちらを振り返る。

 その瞬間、正博の瞳に、彼女のすべてが映し出された。

 花嫁のその姿は、逆光の中に溶け込むようで、しかし溢れんばかりの幸福とはにかみを湛えた最高の笑顔だけが、眩しく正博の視界を満たしていく。


 振り返った花嫁が、嬉しそうに、唇をそっと動かす。



En-Ishi~縁~  完

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