冥界 教場にて
母との再会による涙がようやく乾いた頃、将吉は校舎の二階にある、陽当たりの良い教室へと導かれた。
そこには、将吉が少年の頃、憧憬の念を抱いていた一人の女性が待っていた。
「将吉くん、立派になったわね。……海軍さんの格好、よく似合っているわ」
鈴を転がすような声に、将吉は息を呑んだ。
小林永子。
本家の従姉妹であり、将吉が幼い頃、庭先で鮮やかな刺繍の手鞠をついて遊んでくれた、年上の優しい女性だ。彼女は二十二歳の若さで肺病(結核)を患い、将吉がまだ少年だった頃に、儚くこの世を去っていた。葬儀の日、白い布に包まれた彼女の冷たい頬を、将吉は今でも鮮明に覚えている。
「永子姉ちゃん……。あんたが、俺の導き役なのか?」
「そうよ。私もね、あなたの『守護霊』だったの。あなたがマリアナで最期を迎えるまで、ずっとそばにいたのよ」
「……そうだったのか」
将吉は、永子の言葉を反芻するように俯いた。
海軍航空隊の誇りを胸に、常に死と隣り合わせで飛んできた。けれど、まさかあの孤独なコクピットの中に、自分を愛してくれた姉のような人がずっと寄り添っていてくれたとは。気づかなかった。いや、気づく余裕さえなかった自分に、言いようのない申し訳なさが込み上げる。
「永子姉ちゃん……。俺、最後がどうなったのか、よく思い出せないんだ。敵艦を見つけて、さあ突っ込むぞって、高度を下げたところまでは覚えているんだが……」
将吉の記憶は、アドレナリンと使命感で真っ白になったあの瞬間の先、深い海の色の底に沈んでいる。永子は少し視線を落とし、言葉を慎重に選んで語り始めた。
「……真っ先にね、あなたは撃たれたの。もちろん、黒田さんも、赤坂さんも」
将吉の肩が、びくりと震えた。
「幸い、機体は火を吹かなかったわ。でも、三人とも、その銃撃が致命傷だった。……将吉くんが気にしていたあの『僚機』、彼は本当に手練れだったのよ。雲の中に身を隠して、あなたたちの行方をずっと追い続けていた。そして、あなたたちが味方の艦を攻撃しようと隙を見せた瞬間、上空から一気に降下して銃撃を加えたの。……完璧な奇襲だった」
将吉は、自分の甘さを呪うように唇を噛んだ。
「守護霊と言ってもね、運命にはどうしようも抗えないの。あなたはあの場で…あの場で戦死する運命だったのかもしれない…」
だが永子の話は、絶望で終わらない。
「でも、あなたの意識が遠のいていく中でね、私はあなたの手に自分の手を重ねたの。せめて海の上へ、静かに降ろしてあげたくて。私の念力を全部込めて、あなたの操縦桿を一緒に握りしめたわ」
火に包まれることなく、天山はマリアナの海面に滑り込むように着水した。しばらく波に揺られていた機体。その静かな、あまりに静かなコクピットの中で、永子は将吉が息を引き取るのをただ一人で見届けた。
「あの場所はね、日本からあまりに遠すぎたの。そのままじゃ、あなたを冥土に連れて行くことができなかった」
守護霊の世界には、残酷な理がある。
たとえ魂が自由であっても、当の人間が遠い異国の地で亡くなった場合、遺骨や縁のある遺物が故郷の土を踏まない限り、本当の意味で「冥土」へは辿り着けない。
兄弟のいなかった永子にとって、幼少期から我が子のように可愛がってきた将吉は、かけがえのない存在だった。あの暗く冷たい深海に一人きりで置いていくことなど、彼女の姉心が許さなかった。
「だからね、あなたが肌身離さず持っていた穂高神社のお守りに、精一杯の念力を込めたの。『必ず、あなたは見つかる。それまで少し心細いかもしれないけれど、あなたを見つける人が必ずやってくるから、辛抱してね』って…
…たぶん黒田さんや赤坂さんを見守っていた人(霊)達も同じことをしてたはず。」
あの日、白鳳丸の網がひしゃげた残骸の中からあのお守りを掬い上げたのは、偶然ではなかった。永子と黒田たちの守護霊が六十余年という永い年月、深い海の底で将吉の魂を抱きしめ、念じ続けてきた執念が手繰り寄せた「ご縁」だったのだ。
将吉の頬を、再び熱いものが伝う。
今こうして安曇野の風に吹かれているのは、自分の手柄でも運でもない。一人の女性の、時を超えた慈愛に守られていたからなのだと、将吉は深く、深く悟った。
「……さて。私の話はこれでおしまい」
永子は、優しく微笑んだ。彼女の隣には、あの次郎左衛門が持っていた「黒い板」が置かれている。永子はそれを手に取り、窓の外を指差した。
「将吉くん、あなたが空で散ったあと、この国がどうなったか……見ておきなさい。それがあなたの『任務』の始まりよ」
教室の黒板が、まるで水面のように揺らぎ、映像を映し出し始めた。
将吉は絶句した。
そこには、自分が命を懸けて守ろうとした日本の、無惨な姿があった。マリアナの敗北後、終わり際を見極められなかった国は、焼き尽くされた。東京、大阪、名古屋。かつての美しい街並みは、B-29による絨毯爆撃で一面の焦土と化し、人々は煤にまみれて逃げ惑っていた。広島と長崎に落ちた、太陽よりも眩い「死の光」。
「……嘘だろ。こんな……こんなことのために、俺たちは……」
将吉は拳を握りしめ、震わせた。戦友たちが、隊長が、あんな思いをして繋ごうとした空の先に、待っていたのは絶望だったのか。
「いいえ、続きを見て」
永子の声に促され、映像はさらに進む。
焼け跡にバラックが立ち並び、人々は飢えに耐えながらも、驚異的な生命力で立ち上がった。闇市、瓦礫の撤去、そして東京オリンピック。新幹線が走り、高層ビルが空を突き刺す。かつて自分が天山で飛び越えた戦場は、いつの間にか、夜も眠らぬ不夜城へと姿を変えていた。
「これが、今の日本。高度経済成長という、世界も驚く奇跡を彼らは成し遂げたの。あなたが守りたかった人たちが、泥を啜りながら作り上げた未来よ」
将吉は、眩しそうに画面を見つめた。
人々が笑顔で街を歩き、飢えに怯えることもなく、贅沢にパンにマヨネーズをかけて食べる時代。
「そうか、日本は繫栄しているんだな・・・」
感動と同時に、この黒い板は何でもできる道具であることが気がかりになる。
「ところで永子姉ちゃん、さっきから持っているこの黒い板……こりゃ何なんだ? まるで漆を塗った鏡のように滑らかだったが…」
将吉の問いに、永子は「それ」を机の上に置き指さした。重厚なステンレスのフレームに囲まれた、手のひらサイズの黒い硝子の塊。洗練された、どこか不気味なほどの美しさを放っている。
「これはね、『iPhone 4』。まだこの世には出回っていない、未来の通信機よ」
「未来の……? ん?どういうことだ?」
「ええ。本来なら、あと二ヶ月は世に出ないはずのもの。でもね、ちょっとした『事件』があって、私たちのところに一足早く届いたの」
永子はいたずらっぽく笑い、画面を指で弾いた。
一瞬で漆黒の闇が消え、そこには網膜を焼くほどに鮮明な光の庭が広がる。将吉がかつて見た、どんな計器盤の灯りよりも鋭く、そして美しい。
「今年の三月二十五日。カリフォルニアにあるバーの椅子に、これをうっかり忘れていった男の人がいたの。それが巡り巡って、分解されて、世界中にその『中身』が晒されてしまった。……あちらの世界で騒ぎになればなるほど、その想念は強くなって、私たちの領域にこうして実体化するのよ」
永子の話は、将吉には半分も理解できなかった。
だが、アップルという会社が心血を注いだ秘密の結晶が、酒場の片隅で失われ、警察まで出動する大騒動(ギズモード事件)になったという事実は、人間の可笑しみと業を感じさせた。
「あっちの連中がこれを返せ、返さないと血眼になっている間に、私たちはこれを使って子孫の動向を『同期』する装置にしたの。ほら、見て」
永子が画面を滑らせると、そこには今まさに、新橋のオフィスでPCの設定に四苦八苦している正博の姿が、神の視点のように映し出された。
「名前は正博。顔はいいけれど、肝心の中身がこの通り。ゴム風船のようにフニャフニャなの。彼が手繰り寄せるべき『縁』は、放っておけば指の間から砂のように零れ落ちてしまう」
「……こいつか。俺が守らなきゃならんのは」
将吉は、画面の中の正博を見つめた。マリアナの海に沈んだ天山の、あの無骨な操縦桿を思い出す。あの日、自分たちは命を燃やして敵機という「点」を追った。だがこれからは、この薄い硝子の板を使い、子孫が歩むべき「線」を守らなければならない。
「次郎左衛門さんが言っていたわね。『冥土も便利になった』って。その通りよ、将吉くん。私たちはこの小さな窓から、彼らの心臓の鼓動まで聞き取ることができる。……あなたがマリアナで見た曳光弾の代わりに、これからはこの画面の光が、あなたの道標になるの」
将吉は、恐る恐るその「iPhone 4」に触れる。
冷たく、硬い。だが、その中には数億人もの人間の欲望と知恵、そして正博という一人の若者の未来が詰まっている。
「……この『あいふぉん』とかいうやつを使いこなせれば、俺も一人前の守護霊になれるのか」
「使いこなすんじゃないの。寄り添うのよ。いい、将吉くん。私たちができるのは、彼らの代わりに人生を歩むことじゃない。彼らが少しだけ勇気を出せるように、少しだけ運が向くように、影から『ご縁』を操作すること」
「……了解した、永子姉ちゃん。いや、小林永子守護霊殿」
将吉は、背筋を伸ばし、深く、静かに敬礼した。
もはや、敵機を落とすための飛行兵ではない。大切な一族の未来を、一歩前へ進めるための「目に見えぬ風」になるのだ。
永子は優しく微笑み、将吉の手に、かつて本家で遊んだ手鞠のような温もりを重ねた。教室の外、安曇野の空には、入道雲の赤ちゃんが白く頭をのぞかせていた。
将吉の「帰還」――そして、新しい任務が今、始まる。




