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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
守護霊
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冥界 安曇野の河原にて

 耳を潰さんばかりだったエンジンの咆哮も、鼻腔を灼いたガソリンと硝煙の臭いも、すべては遠い夢の彼方へと霧散していた。


 次に将吉が揺り起こされたのは、水のせせらぎと、喉を震わせる鳥たちのさえずりだった。


 まぶたを開けると、そこには眩いばかりの信州の春があった。

 五月、安曇野。

 北アルプスの山々にはまだ白い残雪が神々しく輝き、その麓には水をたたえたばかりの田んぼが、巨大な鏡となって紺碧の空を映し出している。代掻しろかきを終えた泥の匂いと、芽吹いたばかりの若草の香りが、湿り気を帯びた風に乗って鼻をくすぐった。


「……ああ、生きてるみたいだ」


 将吉は土手の草むらに寝そべったまま、ぼんやりと呟いた。

背中に触れる地面は、日だまりを吸い込んでじんわりと温かい。けれど、マリアナのあの刺すような熱気とは違う。どこまでも優しく、微睡まどろみを誘う心地よさだった。

 小さな頃、遊び疲れて大の字になった故郷の景色。そのままであった。


 まだ夢の続きにいたい。そう願って再び目を閉じようとした時、頭上から声が降ってきた。


「おおい、小林。うちら、そろそろ行くわ」


 驚いて上体を起こすと、すぐ隣に黒田飛曹長と通信員の赤坂が寝そべっていた。二人とも、さっきまで死闘を繰り広げていたとは思えないほど、穏やかな顔をしていた。


「おまえんトコ、ほんま ええトコやな。空気もうまいわ」

黒田が立ち上がり、軍帽を指先で弾いて笑った。


「こんどは近江にも来い。琵琶湖かて、安曇野に負けんくらい ええトコやぞ」


「黒田さん……。赤坂も、もう行くのか」


 将吉がそう尋ねると、二人は短く頷いた。その姿が、陽炎かげろうに溶けるようにふっと淡くなっていく。将吉は不思議と動揺しなかった。ここはそういう場所なのだと、魂が理解していた。


「黒田さん、赤坂。……じゃあ、またな」


 寝そべったまま、去りゆく戦友たちに手を振る。二人の姿が見えなくなっても、せせらぎの音は変わらず優しく響いていた。


(そうか。俺は、死んだんだな)


 あらためて自分の置かれた状況に思いを巡らせる。

 飛行服を着ずに、第二種軍装を着ている時点でそうなんだろう。

 あの時、グラマンの両機が見えなかった。

 きっとそいつにやられたのだろうと。

 ただ、南海の底に沈んだはずの自分が、なぜ今、五月の安曇野にいるのか。理屈はわからなかったが、このあまりの心地よさに、もうどうでもよくなっていた。このまま、この草の匂いに包まれて永遠に眠っていられたら、どんなに幸せだろうか。


 そう考えていた矢先、不意に、場違いなほど鋭い声が響いた。


「ああいた。あんたか。今回の新入りは」

「――っ!」


 弾かれたように起き上がると、そこには一人の老人が立っていた。

 年の頃は六十を越えているだろうか。しかし、その背筋は竹のように伸び、纏っているのは軍服でも現代の服でもない、古風な武士の着物だった。長く伸びた白い髭の間から覗く眼光は、名刀のように鋭い。


「……どなたですか?」


 将吉が呆気に取られて尋ねると、老人は

「ああ、大丈夫大丈夫。これからわかるから」

 と、取りつく島もない。


 老人は懐から、黒い蒲鉾かまぼこ板のような、不思議な板切れを取り出した。それを耳に当て、何やら独り言を始める。


「あー、いましたいました。はいはい……。ええ、今から連れていきますわい」

老人は薄ら笑いを浮かべ、その黒い板を再び懐にしまった。


「いやはや、冥土も随分と便利になったもんよのう」


 将吉は何が起きているのかさっぱりわからなかった。蒲鉾板に向かって喋る武士。そんな光景は、戦地でのどの悪夢よりも奇妙だった。


「さあ、そう呆けておらんで。そのうちわかるから、とにかくこっちへ来なさい」


 手招きをされ、将吉は吸い寄せられるように立ち上がった。

 老人は慣れた足取りで、五月の風が吹き抜ける河原の土手を歩き出す。

 将吉は、自分の死を告げる静かな水の音を背に聞きながら、その奇妙な案内人の後ろをついていくことにした。


 老人に導かれ、安曇野の春光の中を歩いていくと、木立の向こうに古びた木造校舎が見える。

 かつての分校だろうか。長い年月を経て銀色に晒された板壁、手入れの行き届いた板張りの廊下。校舎全体に、墨汁と石鹸、そして日向の匂いが染み付いている。将吉の軍靴の音が、懐かしい響きを立てて廊下に吸い込まれていった。


 老人が「ここじゃよ」と、重厚な引き戸を開けた。

 そこは、かつての職員会議室だった。中に入った瞬間、将吉は足を止め、思わず居住まいを正した。


「……っ」


 そこにいたのは、時代も身分もバラバラな、しかし不思議と似通った面影を持つ人たちだった。

 入り口で案内した老人と同じく、威厳を纏った武士。隣には、詰襟に金ボタンが光る明治期の軍服姿の男。さらには、仕立ての良い背広を着こなした昭和の御仁。そして部屋の最奥、上座に座る人物は、神話から抜け出してきたような、天武天皇を彷彿とさせる装束を纏い、静かに目を閉じていた。


「えー、お集まりの皆様。この度の新入り、小林将吉にございます。皆様、お見知りおきを」


 案内役の老人が、どこか町内会の会合でも進めるような軽やかさで取り仕切る。

 一同の視線が、一斉に将吉に注がれた。それは軍隊の査閲のような鋭いものではなかった。慈しみと、深い誇りと、長い年月を経て再会した孫を愛でるような、春の陽だまりに似た眼差しだった。


「……将吉殿。拙者は小林次郎左衛門と申す。ここに集まりしは、小林の血を繋いできた者たち――『先祖会』と呼んで差し支えなかろう。本日はな、貴殿が今後守護すべき子孫を決めるために集まっていただいた」


 あっけにとられる将吉をよそに、会議は淡々と進んでいく。次郎左衛門は、先ほどの「黒い板」を再び取り出し、指先を滑らせた。


「さて、子孫の一人、小林正博。この者にはまだ守護霊がついておらん。現在二十九歳、将吉殿と年齢も近い。どうかな皆様、この者の守護を将吉殿に任せるということで。異論はござらんか?」


「異論なし」「適任であろう」「よろしゅう。頼みますぞ」


 言葉が重なり、部屋の空気が優しく揺れた。

「では、決議。将吉殿、貴殿にはこれより、子孫・正博がまっとうな道を歩み、しかるべき伴侶を得て、小林の血を次代へ繋ぐための『助力』を務めてもらう」


 会議が終わると、次郎左衛門はどこか晴れやかな顔で、再び黒い板を耳に当てた。


「ああ、やえちゃん。うん、帰ってきたよ。会議も終わったから、こっち来ておくれ。……ああ、善吉っつあんも一緒にね」


 その二つの名が耳に届いた瞬間、将吉の思考は真っ白になった。

 「やえ」……それは、海軍軍人の夫をシベリアで失い、女手一つで自分と妹の花子を育て上げてくれた母の名だ。マリアナへの出撃前、休暇で帰郷し、松本駅のホームで、見えなくなるまでずうっと手を振る姿が最後の記憶だった。

 そして「善吉」。写真の中でしか知らない、自分が幼い頃に戦死した父。


 廊下を駆けてくる、急ぎ足の足音が聞こえる。

 将吉は震える足で、入り口を凝視した。


 扉が開く。

 そこには、自分を送り出した時よりも少しだけ若返ったような、しかし紛れもない母・やえと、その隣に、自分と同じ海軍の軍服を毅然と着こなした父・善吉が立っていた。


「……母ちゃん……?」


 絞り出すような声が出た瞬間、将吉の視界は涙で歪んだ。

 規律も、階級も、軍人としての矜持も、すべてが崩れ落ちた。将吉は子供のように、母の懐へと飛び込んでいた。


「母ちゃん! 母ちゃん! 会いたかった……会いたかったよぉ!」


「将吉、よく頑張ったね。……本当に、よく帰ってきたね」


 やえの、働き者の少し硬い、けれど世界で一番温かい手のひらが、将吉の頭を優しく撫でる。


 戦後の混乱を、女二人で生き延びてくれた母。

 父のいない家を守り、自分を戦地へ送り出した時の母の涙。

将吉は母の着物の匂いを嗅ぎながら、ようやく、自分が帰るべき場所へ辿り着いたのだと、魂の底から慟哭どうこくした。


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