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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
守護霊
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20100401 千鳥町のアパート

 二〇一〇年四月一日、午前六時五十五分。

 東京都大田区、蒲田から五反田へとのんびり走る東急池上線。千鳥町駅のほど近くにある築浅のアパートに、目覚まし時計の電子音が容赦なく鳴り響いた。


「……ん、うぅ……」


 スチールベッドに沈んでいた体が、ゆっくりと、しかしどこか頼りなげに起き上がる。小林正博、二十九歳。一週間前、長野支社から東京本社への転任に伴い、この部屋に越してきたばかりだ。

 正博は大きなあくびをして背伸びをすると、寝癖だらけの頭を掻きながら隣のテーブルに手を伸ばした。散らかった雑誌や脱ぎ捨てた靴下を避け、ようやく掴んだリモコンでテレビをつける。


 画面から朝の喧騒が流れ出すのを背に、彼はキッチンへ向かった。冷蔵庫から取り出した冷たい茶を、喉を鳴らして一気に流し込む。

 部屋の隅には、引っ越し業者のロゴが入った段ボールがいまだにいくつも積み上げられていた。一週間の猶予があったはずだが、必要なものだけを引っ張り出し、あとは「そのうち」と放置してある。整った顔立ちは、黙っていれば「仕事のできる男」に見えるのだが、部屋のあちこちに覗くこのだらしなさが、彼の「ヘタレ」と称される本質を物語っていた。


 正博は窓際に歩み寄り、重たい遮光カーテンを勢いよく開けた。

窓の外には、都会の空が広がっている。信州の山々が見えない朝は、まだどこか落ち着かない。


「……今日から、本社か」


 ぽつりと、自分に言い聞かせるように呟いた。

 今日から始まる新しい生活。長野とは勝手の違う巨大な組織のなかで、一体どんな仕事が待ち受けているのか。不安と、ほんの少しの緊張が入り混じった妙な感覚が胃のあたりにある。


 狭い廊下を兼ねたキッチンに戻り、正博はおもむろに食パンをトースターへ放り込んだ。お湯を沸かし、お椀の中にインスタントの味噌汁の素を絞り出す。パンが焼けるまでの短い時間、その後ろにある洗面台で、彼は冷たい水を使って顔を洗った。

鏡に映る自分の顔をタオルで拭いながら、ふう、と深く息を吐く。


 こんがりと焼けた食パンに、マヨネーズを無造作に、たっぷりとかける。それを皿にも載せず、手に持ったままテーブルへ戻った。

 テレビのニュースでは、スーツをパリッと着こなした同世代のアナウンサーが、活気に満ちた声で原稿を読み上げている。


「――ここで、不思議なニュースが入ってきました」


 マヨネーズの乗ったパンを齧ろうとした正博の動きが止まった。


『海洋調査船「白鳳丸」が、マリアナ沖近海での調査中に、旧日本海軍の航空機を引き揚げました。』


 画面には、クレーンに吊り下げられ、海水を滴らせながら姿を現した鉄の塊が映し出されていた。

 六十数年の歳月を経て、機体は腐食し、海藻が絡みついている。しかし、その翼の形やコックピットの風防は、驚くほど生々しく当時の面影を留めていた。


『海洋生物調査のための地引網に掛かったとのことですが、旧日本海軍の航空機と見られる残骸が、ほぼ形状を保った状態で発見されました。コックピットや主翼の一部も残っており、専門家はマリアナ沖海戦で撃墜された機体ではないかと見ています。なぜこれほど良好な状態で網に掛かったのかは不明ですが、調査船は一旦日本へ持ち帰り、詳しく鑑定を行う予定です。』


「へぇ…………」


 正博は、画面の中の「かつて空を飛んでいたもの」をぼんやりと眺めながら、熱い味噌汁を啜った。

 かつてその機体に乗っていた誰かの人生。そんな遠い過去の出来事よりも、今はこれから向かう本社のオフィスで、自分がどう振る舞うべきか、どんな顔をしてデスクに座ればいいのか。そんな、目の前の新生活の輪郭を掴むことの方が、彼にとってはよほど切実な問題だった。


 食べ終えた食器をシンクへ放り投げると、正博はクローゼットからおろしたてのスーツを取り出した。

 自分の「先祖」である男が、そのニュースの中の機体とともに、すでにこの部屋の空気を震わせていることなど、知る由もなかった。


――――――――――――――――――――――


 テレビのニュース映像の向こう側――北緯十五度、東経百四十五度付近。

 マリアナの海は、正博が啜る味噌汁の湯気とは無縁の、暴力的なまでの白光に包まれていた。


 海洋調査船『白鳳丸』の甲板を、逃げ場のない太陽が焼きつける。

 大型クレーンによって漆黒の深海から引き揚げられた機体は、数十年ぶりに浴びる陽光に戸惑うように、どろりとした海水を滴らせていた。かつて銀翼と謳われたその体躯は、今や海藻と錆、そしてびっしりとこびりついた貝殻に覆われ、まるで深海の怪物の抜け殻のようだ。


「……よし、固定完了。作業始めろ。細かいのは分別だ」


 甲板長の野太い声が、うねる波音を切り裂いた。

 船員たちは、濡れたデッキに足を取られぬよう踏ん張りながら、残骸の周囲に散らばった「堆積物」の選別に取りかかった。網は機体の本体だけでなく、その周辺に脱落していた無数の破片も一緒に掻き揚げていたのだ。


 泥にまみれた配線の屑、ひしゃげた風防の破片、用途のわからぬボルト。

 「ゴミ」として海に帰すべきか、あるいは「遺物」として残すべきか。泥を洗い流すたびに現れる、かつての機能の片鱗に、船員たちの手はしばしば止まる。


「……あ」


 作業に当たっていた若い船員、佐藤が、指先に硬い感触を覚えた。掌よりも小さい、真鍮製の楕円形の破片。

 泥を拭うと、鈍い金色の輝きが顔を出した。そこには、職人の手仕事を感じさせる細かな文字が、鋭く刻まれている。


「甲板長、これ……何かの銘板でしょうか。文字が書いてあります」


「どれ……」

 甲板長が歩み寄り、太い指でそれを摘み上げた。長年の潮風に焼かれた顔を険しくし、目を細める。

「製造番号か……それとも部品の型式か。素人にはわからんが、ただの鉄屑じゃねえな。これは持ち帰りだ。記録に回せ」


 佐藤は頷き、再び膝をついて泥の山を探った。

 直後、彼の指先が、さらに小さな「何か」に触れた。それは四角い、指先ほどの鉄製の小さな板だった。泥を洗い流し、太陽にかざした瞬間、佐藤の背筋に冷たいものが走った。


 そこには、はっきりと、力強い楷書体でこう刻まれていた。


――『穂高神社』


「甲板長! これ……見てください!」

 佐藤の声が上ずった。

「お守り……ですよね。これ、神社のお札です。こっちに『穂高神社』って書いてあります」


 周囲の作業員の手が、一斉に止まった。

 重機とディーゼルエンジンの唸りが、一瞬遠のいたように感じられた。甲板長は、佐藤の手からその小さな板を受け取った。真鍮の銘板よりも軽く、しかし鉛のように重い沈黙がそこにはあった。信州、安曇野にある名社。マリアナの深い海の底に、なぜ信濃の神の名が沈んでいたのか。


「……そうか。穂高さんか」


 甲板長は、遠く水平線の彼方を見つめた。

 照りつける太陽、大きなうねりに合わせてゆったりと傾く船体。その足元に横たわる無残な残骸。


「佐藤。この機体には、三つの座席があるのがわかるか?」

甲板長は、コックピットだった場所を顎でしゃくった。

「あ、ははい・・縦に三つですね」

 腐食し、無惨にひしゃげているが、そこには確かに三人の人間が座るスペースがあった。


「今はただの鉄の塊だがな、ここには俺たちの爺さんと同じ世代の人達が、命を懸けて座っていたんだ。このお札を握りしめて、何を思ってこの空を飛んでいたのか……それはわからん。でもな…いいか、破片一つ、ネジ一本、ゴミとして扱うな。ここにあるのは、全部『彼ら』の一部だ。丁重に扱え」


「はい!わかりました」

 佐藤は、先ほどよりもずっと慎重な手つきで、泥の中から小さなボルトを拾い上げた。


――――――――――――――――――――――


 池上線の三両編成という、どこか長閑な箱に揺られながら、正博は蒲田へと向かっていた。蒲田で京浜東北線の喧騒に飲み込まれ、新橋で吐き出される。駅を出ると、そこにはマリアナの白光とはまた違う、都会特有の、ビル群に反射した鋭い陽光が待ち構えていた。


 アスファルトの上を滑るように歩く人波のなかに混じり、正博は「株式会社Rコンサルタント」が入るオフィスビルを見上げた。人材紹介業界二番手。長野支社でのそこそこの数字が評価され、今日からこの十七階にある東京本社、事業企画部営業企画グループが彼の主戦場となる。


「……ま、長野でやれてたんだし、なんとかなるでしょ」


 入館ゲートをくぐる瞬間、自分に言い聞かせるように呟く。緊張で胃のあたりが少し重いが、持ち前の「なんとかなるさ」という甘い思考がそれをコーティングしていた。だが、十七階に降り立ち、オフィスの自動ドアが開いた瞬間、その楽観は粉々に打ち砕かれた。


「――っ、なんだここ……」


 九時。

 まだ始業時刻前だというのに、広大なフロアはすでに熱を帯びていた。

数百人が整然と、それでいて猛烈な密度で並ぶデスク。あちこちで電話の応対や打ち合わせの凛とした声が飛び交い、キーボードを叩く音はまるで雨音のように降り注いでいる。一人ひとりの歩く速度、受話器を置く所作。のんびりとした長野支社のそれとは、OSそのものが違うようだった。


 ひるむ足を叱咤し、正博は指示されていた「営業企画グループ」の島へと向かった。そこには、一際目立つ男が座っていた。


「おお、やってきたか小林〜! よろしくな〜」


 ひょろりと立ち上がったのは、直属の上司、桔川徹だ。一八一センチの長身。スリムな体躯にネイビーの三ピーススーツが、誂えたように馴染んでいる。


「おはようございます。本日よりお世話になります、小林です」


「うんうん、聞いてるよ。長野からよく来たな。ほら、お前の席そこな。とりあえずPC設定とか諸々やっといて。わかんないことあったら聞いてよ。じゃ、よろしく〜」


 早口で、流れるように理詰めを話しそうな雰囲気はあるが、その語り口は意外にも軽やかだった。桔川はそう言うとすぐに着席し、コーヒーを啜りながら日経新聞に鋭い視線を落とした。その切り替えの速さに、正博は気圧される。


「うぃーっす、おはようございまーす」


 背後から、チャラいという形容詞がぴったりのスーツに身を包んだ男がやってきた。江藤史郎だ。

「ああ、君が小林くん? よろしくね〜」

 軽薄そうな笑みを浮かべたのも束の間、彼はデスクに座った瞬間、表情から温度を消した。先ほどのチャラさはどこへやら、猛烈な勢いでモニターと向き合い、指先を踊らせ始める。社内でも有名な「手が早い」策士の片鱗を、正博は間近で目撃した。


「小林くん、はじめまして。山川です」


 次に声をかけてきたのは、ガッチリとした体格に真面目そうな眼鏡をかけた男、山川翔だった。


「話は伺っていましたよ。本社は初めてだと戸惑うことも多いでしょうが、何なりと聞いてください。フォローしますから」


 その穏やかな物腰に、正博の強張っていた肩が少しだけ解けた。ここには、逃げ場がある。


「……あ、小林くんだね。よろしく」


 不意に横から声をかけられ、正博は肩を跳ねさせた。

 そこに立っていたのは、小柄な女性、星野希美だった。リスを連想させるような可愛らしい顔立ちに、切り揃えられたボープヘア。だが、その瞳に宿る光は驚くほど鋭く、冷徹と言ってもいいほどの知性を湛えている。


「本日より配属になりました、小林です」

「知ってる。共有データはもう見てあるから」


 彼女は正博の一つ上の先輩にあたる。社内のあらゆる数値を司るデータ管理のスペシャリストだ。その所作の一つひとつには一切の無駄がなく、ロジカルであることを隠そうともしない冷淡なオーラを纏っている。


「これ、共有フォルダのパスワードと運用ルール。読んどいて。あ、勝手にフォルダ構成変えないでね。管理が濁るから」


 有無を言わさぬ口調。正博は圧倒され、「は、はい……」と頷くのが精一杯だった。この「ままならない」雰囲気の先輩とどう渡り合っていくか、初日にして早くも大きな課題が突きつけられた気がした。


「ちょっと希美ちゃん、そんなに怖がらせないであげてよ。小林くん、びっくりしてるじゃない」


 救いの手は、背後から伸びてきた。

 ゆったりとした歩調で現れたのは、安江紀子だ。星野のクールさとは対照的に、彼女は春の陽だまりのような温情味あふれる雰囲気を纏っていた。


「小林くん、よろしくね。私は安江。わからないことがあったら、この理屈屋のリスちゃんじゃなくて、私に聞きなさい」


「ちょ、紀子さん、リスって……」


 星野が少しだけ頬を膨らませるが、安江はそれを柳に風と受け流し、正博に柔らかな微笑みを向けた。

 安江は社歴も長く、このフロアの「歩く百科事典」のような存在だ。マネージャーや部長ですら把握しきれていない社内の暗黙のルールや複雑な仕組みに精通しており、現場からの相談事が絶えない。彼女のデスクの周りには、常に誰かが相談に訪れているような、部の精神的支柱ともいえる存在だった。


「山川くんと私がいれば、この殺伐とした本社も少しはマシに見えるでしょ? 大丈夫、ゆっくり慣れていけばいいから」


 安江の姉御肌な言葉に、正博は心底から胸をなでおろした。

 もし、この場にあの超高速回転の江藤や、冷徹な星野しかいなかったら――。想像しただけで、正博は胃に穴が空きそうな窮屈さを感じていただろう。面倒見の良い山川と、包容力のある安江。この二人がいてくれることが、ヘタレな正博にとって唯一の、そして最大の救いだった。


「……ありがとうございます。よろしくお願いします!」


 ようやく少しだけ、声に力が宿る。

 都会のスピードに翻弄されながらも、なんとか自分の居場所の端っこを確保できたような、そんな手応えを感じていた。


「……よし、やるか」


 正博は袖机に、長野から持ってきた使い慣れた文房具を収めていく。

 東京。本社。一流のスピード。

 PCの電源を入れ、設定画面と格闘しながら、正博は自分が今、マリアナの深海から引き揚げられたあの機体と同じように、新しい場所に置かれたのだということを、おぼろげに実感し始めていた。

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