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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
2010年 討伐編
37/54

20100923 女将 戦場に立つ!

 爆炎と硝煙が渦巻き、鉄と血の匂いが立ち込める有明の最前線。

 四式中戦車の放つ砲撃の光が夜空を間欠的に照らすなか、その「異形」は戦場の中央に君臨していた。


 白皙の肌に狂気の笑みを浮かべたニーナが、十指から黒い怨念の鎖を蛇のように躍らせている。先祖会の歩兵たちが放つ四式自動小銃の連射を鎖の壁でことごとく弾き返し、逆にその鎖に触れた兵たちの霊力を一瞬にして吸い尽くしては、次々と戦闘不能に追い込んでいた。


「ふふ、あははは! 脆い、脆いわねぇ! どんなに立派な鉄の玩具を並べ立てようと、魂を吸い上げてしまえばただの置物よ!」


 勝ち誇るニーナの哄笑が響き渡った、その時だった。


 戦車兵たちが打ち捨てた激しい硝煙の向こうから、一人の女が、驚くほど平然とした足取りで歩いてきた。


 たすきも掛けず、袖もまくらず、泥にまみれたアスファルトの上を、裾を端折ることもなくそのまま引きずらんばかりにして、凛として歩いてくる。

 着ているのは、光を鈍く吸い込む最高級の深川鼠ふかわがづみ縮緬ちりめん。金銀の糸が密に織り込まれた重厚な博多織の袋帯をきりりと粋に結び、胸元には精巧な銀細工が施された羅宇らう煙管が、何気なく差し込まれている。


 それは戦場にいるべき人間ではなかった。

 江戸・日本橋の大店を仕切る、誇り高き「女将」そのものの姿だった。


 ニーナは鎖の動きを止め、不気味な足音を響かせて近づいてくるその女を、侮蔑の混じった目で見据えた。


「……あら? 迷子かしら、それともお大層な先祖会には、もう戦える兵隊が残っていないのかしらねぇ。『おばさん』、ずいぶんと動きづらそうな格好じゃない。そんな御召物を泥まみれにして、一体何をしにきたの?」


 お慶は歩みを止めず、懐からおもむろに煙管を抜き取ると、ふぅ、と紫煙をくゆらすように息を吐いた。その表情には、恐怖も、高ぶりすらもない。

 ただ大店の帳場から、出来の悪い丁稚を眺めるような、底知れない冷ややかな笑みが浮かんでいる。


「動きづらい、かねぇ。……お生憎様、日本橋の女将ってのはね、どんな時でも身なりを崩さないのが、店と暖簾に対する礼儀ってなもんだよ。あんたのような、品のないあばずれに気遣われる筋合いはないのさ」


「――死ねッ!!」


 ニーナの顔から笑みが消え、激昂とともに右腕が振るわれた。

 鋭い風切り音を立て、霊力を吸い尽くす黒い怨念の鎖が、お慶の白い喉元を断ち切らんと猛然と襲いかかる。


 だが、お慶は一歩も退かなかった。身をよじることすらしない。

 ただ、右手に持った銀細工の煙管を、流れるような動作で一閃させた。


キィィィィィン……ッ!!!


 澄んだ金属音が戦場に響き渡る。

 戦車の装甲すら易々と貫くはずのニーナの鎖が、お慶の持つたった一本の煙管の雁首がんくびによって、完璧に軌道を逸らされ、火花を散らしてアスファルトへ叩きつけられた。


「な……ッ!?」

 ニーナが目を見開く。


「おや、ずいぶんと軽い鎖だね。これじゃあ、うちの店の犬の繋ぎ飼いにも使えやしないよ」


 お慶はフッと笑みを浮かべたまま、着物の裾を乱すことなく、すうっ、とニーナとの間合いを詰めていく。


 焦ったニーナは、残る左手の鎖を放った。

 今度は弾く隙を与えぬよう、お慶の右腕の袖の上から、ぐるぐると何重にも巻き付け、その肌に直接怨念を噛み付かせた。


「捕まえた! どんなに小賢しい技を使おうと、私の鎖に触れたが最後、その魂を一滴残らず吸い尽くして………!?」


 ニーナの勝利の確信は、すぐに絶望へと変わった。

 鎖を通じて流れ込んでくるはずの、相手の霊力が、全く伝わってこない。それどころか、お慶の腕に巻かれた黒い鎖は、まるで燃え盛る炉裏に投げ込まれた氷のように、じりじりと音を立てて逆に焼き切られ始めていた。


「……バカな!? なぜ霊力が抜けない……!? 私の呪縛が効かないなんて……!」


「吸い上げる、かねぇ」

 お慶は手首に鎖を巻き付けられたまま、なおも小幅の美しい歩調で、確実にニーナとの距離を縮めていく。その双眸に宿る霊力は、抜かれるどころか、底なしの深淵のように、さらに深く、重く輝きを増していく。


「あんた、勘違いしちゃいけないよ。あたしゃ江戸の町を、幾度の大火と修羅場から守り抜いてきた暖簾を背負ってるんだ。そこいらの若い兵隊せがれたちとは、くぐってきた年季が違うのさ。あんたがこれまで貪ってきた程度の薄汚い怨念じゃあ、あたしの魂の『格』に傷一つ付けられやしないよ」


「ひっ……、お、前は……お前は一体、何者なんだいっ!?」


 ニーナの額から、初めて冷たい汗が伝った。

 恐怖に駆られた彼女は、間合いを離そうと後ろへ飛び退きながら、十指から無数の鎖を、狂ったように何度も、何度も打ち付けた。


ドババババババン!!!


 しかし、お慶はその凄まじい鎖の連撃のなかを、ただ、凛とした立ち姿のまま歩んでいく。

 飛来する鎖は、お慶が身に纏う圧倒的な霊力の障壁に触れた瞬間、パリン、パリンとガラス細工のように砕け散り、彼女の深川鼠の着物に、灰一筋つけることすらできなかった。


「何者、ねぇ。……さっきから言ってるだろう?」


 お慶はついに、ニーナの目の前、目と鼻の先の距離まで間合いを詰めていた。

 煙管の先から、すうっと白い霊霧が立ち上る。その霧の向こうで、江戸の闇を仕切ってきた女の、狂暴なまでの笑みが妖しく光った。


「日本橋の『黒木屋』の女将だよ。――さあ、おいたが過ぎたあばずれ娘。お代をキッチリ、耳を揃えて払ってもらおうかねぇ」


 お慶の言葉がニーナの鼓膜を震わせた、まさにその刹那。

 懐からおもむろに抜き放たれたのは、刀でもなければ、銃でもなかった。

 それは、江戸の大店「黒木屋」の帳場に置かれた火鉢で、彼女が長年愛用してきた重厚な黒鉄の「火鉢の鉄箸(火箸)」であった。


「なっ――」


 ニーナが息を呑む間すらなかった。お慶の手首が、目にも留まらぬ速さで鋭く突き出される。たすきも掛けぬ美しい着物の袖が、一筋の夜風のように綺麗に揺れた。


ドスッ……!!!


 霊力を極限まで凝縮し、白く白熱した鉄箸の切っ先が、ニーナの胸元――その心臓の深奥へと、何の抵抗もなく深く、真っ直ぐに突き刺さった。


「が、はっ……!?」


 ニーナの身体が激しく硬直する。

 十指から伸びていた黒い鎖が、カラカラと音を立てて力なくアスファルトへと崩れ落ちていった。心臓に穿たれた穴から、彼女がこれまで蓄えてきた、どす黒いシベリアの怨念が、白い光の粒子となって激しく吹き出し始める。


 ニーナは胸に突き刺さった鉄箸を掴もうと、震える手を血に染めながら、その目から大粒の涙をボロボロと溢れさせた。


「……私は、間違っていない……! 凍てつく地で捨てられ、忘れ去られた私たちは……何も間違っていないわ……! 間違っているのは……この、光に満ちた世界の方よ……っ!!」


 世界への激しい呪詛と、消えゆく魂の悲痛な叫び。

 しかし、お慶はその涙を前にしても、冷徹な帳簿係のような冷ややかな眼差しを崩さなかった。


「ふん。何でもかんでも、自分の不仕合わせを人のせいにするんじゃないよ、全く。」

 左手でニーナを捉えつつ、取り出した右手にはキセルの煙草が赤く光る。

 お慶はふうっと夜空に紫煙を吐きながら…


「生きてりゃ理不尽なんてのは、そこいらじゅうに転がってるもんだ。それを世界が悪いだの何だのと……甘えるんじゃないよ、このあばずれ娘が。」


 お慶が冷酷に鉄箸を引き抜くと同時に、ニーナの白い身体は限界を迎え、激しい光の渦を巻き起こしながら、夜空へと消え去る霧のように完全に霧散していった。


 静寂が戻る。


 お慶は手元に残った鉄箸に付着した黒い霊気の残滓を、ふっ、と息で吹き飛ばすと、何事もなかったかのようにそれを再び懐へと仕舞い込んだ。

 そして、乱れ一つない小袖の襟を軽く整え、呆然と立ち尽くしていた周囲の戦車兵や歩兵たちを振り返る。


「さあ、邪魔者は片付けたよ。――じゃあ兵隊さん達、あとは任せたよ!」


 お慶はそう短く言い残すと、やはり着物の裾を泥にまみれさせるのも構わないといった様子で、すたすたと、何食わぬ顔で浜離宮の救護所の方角へと歩き去っていった。


「…お…おい、今のは、一体……」

「日本橋の、女将、……?」


 一瞬、最前線の将兵たちは、そのあまりにも規格外で、凛とした「江戸の女」の強さに完全に呆気にとられていた。

 だが、彼らは過酷な戦場を生き抜いてきた歴戦の勇士たちだ。

 すぐにその脳を戦闘モードへと切り替える。

 空ではいまだ天津たちの戦闘機隊が飛行鬼を駆逐し、正面の第二壁からは、なおも鬼の軍勢が湧き出そうとしているのだ。


「全車、我らに続けっ! 敵の将は討ち取られたぞ! 砲撃再開!」

 あっけにとられていた池田大佐も、はっと意識を切り替え、怒号のような無線が、全軍の魂に火をつけた。


「応ッ!!」

「突撃――っ!!」


 先頭の四式中戦車が再び咆哮を上げ、歩兵部隊は四式自動小銃の凄まじい連射を浴びせながら、崩壊した城壁の奥へと、さらに怒涛の勢いで突き進んでいく。


 ニーナを失った鬼の要塞は、先祖会攻撃隊の圧倒的な熱量に、いよいよ内側から侵食され始めていた。

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