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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
2010年 討伐編
33/54

20100920 有明の要塞

 大型クレーンの横転事故により、有明の開発現場は一時的に封鎖され、その動きを止めていた。

 昼夜を問わず、生きた人間の気配が途絶えた広大な埋立地。ぎらぎらした九月の太陽が、無機質なコンクリートの塊と、ひび割れたアスファルトを白く焼き焦がしている。人が立ち入らなくなったその空白の境界は、現世の守護霊たちの目を欺き、その足が遠のく完璧な「死角」と化していた。


 静寂の底、錆びた鉄骨が幾重にも折り重なる工事現場に、奴らはいた。

 歪んだ空間の裂け目から漂う、アムール川の冷たい泥の臭い。その暗がりに佇むのは、ヤーコフ、ニーナ、そしてラプタをはじめとする赤軍幹部たちの面々であった。

 彼らは大正九年、尼港の底に沈んだ「アムール川の金貨」を霊的な媒介として現代の東京へ潜入し、この人気のない場を、東京を侵略するための「鬼の要塞」へと造り替えようとしていた。


「――一歩も退くな。銃剣を水平に保て。突撃の合図を待て」


 暗闇の奥から、冷徹な号令が響く。

 かつて一九二〇年のシベリアにおいて、ヤーコフの狂信的なカリスマだけで辛うじて繋ぎ止められていた四千人の赤軍部隊は、略奪と暴走を繰り返す、統率の取れぬ烏合の衆に過ぎなかった。しかし、アムールの泥の下で百年の怨念を吸い、真の「鬼」と化した今の軍勢は、決定的に異なっていた。


 鬼たちには自我がない。ただ幹部たちの命令を絶対のドグマとして受け入れる、完璧に調教された戦術兵器。暗闇の中で、数百、数千の鬼どもが一糸乱れぬ動きで銃剣術の訓練を繰り返す様は、着実に、そして確実に「先祖会」を全滅させ得る恐るべき軍隊の構築を示していた。


――カシャ、カシャ。


 鉄骨の影、わずかな霊気の歪みに身を隠しながら、その光景を冷徹に見つめる瞳があった。山岡家の密偵・志乃である。

 志乃は次郎座衛門から授かった「iPhone 4」を構え、気配を完全に遮断したまま、訓練される鬼の配置、要塞の構造、そして幹部たちの顔触れをつぶさに写真と動画に収めていた。液晶画面を指で叩き、慈恵医科大学病院の将吉たちへ向けて、その決定的な情景を順次、念波とともに送信していく。


(……これほどの規模の軍勢が、有明の地で育まれていたとは。一刻も早く、将吉殿たちに伝えねば――)


「――あら。良いものが撮れたかしら、女ネズミさん?」


 背後から、鼓膜にへばりつくような、粘り気のある女の声が…。


 志乃の身体が、恐怖で凍りつく。

 完璧に気配を消していたはずだった。生前の隠密の技に加え、霊的な遮断も施していた。だが、振り返った志乃の視線の先にいたニーナの狂気に満ちた瞳は、確実に志乃の存在を捉えていた。


 一九二〇年の泥臭い赤軍部隊にも、そして目の前で訓練されている異形の鬼の軍団にも、決して存在しないもの――それは「女の匂い」だった。

 凄絶な虐殺の歴史を生き、男たちの血と硝煙の中で狂い狂ったニーナにとって、どれほど気配を消そうとも、同じ「女」が放つ固有の霊気の残り香を嗅ぎ分けるなど、造作もないことだったのだ。ニーナはすぐに殺さず、志乃がどこまで情報を集め、誰に連絡を取るのかを、愉悦の中でしばらく泳がせていたに過ぎなかった。


「しま――」


 志乃がその場から跳躍し、陽炎となって脱出しようとした瞬間、ニーナの黒く染まった指先から、赤黒い怨念の鉄鎖が蛇のように解き放たれた。


ガチィィィン!!


「あ、ああっ……!」

 鋭い衝撃とともに、志乃の細い足首に重い鎖が巻き付く。ニーナがふん、と鼻で笑って力任せに腕を振るうと、鎖に引かれた志乃の華奢な身体は宙へ跳ね上げられ、剥き出しのコンクリートの床へと容赦なく叩きつけられた。


――ドガァァンッ!


「かはっ……、……ッ!」

 背中を強打した志乃は、衝撃で肺の空気をすべて搾り取られ、声にならない悲鳴を上げて絶句した。一度で確実に自力を削ぎ、反撃の芽を摘むための冷酷な一撃。身動きの取れなくなった志乃は、そのまま床を激しく引きずられ、ニーナの足元へと手繰り寄せられた。


 見上げるニーナの形相は、もはや人間のそれではない。皮膚は土気色に裂け、額からは歪んだ角が突き出ている。集団浅慮の権化として、狂った正義の果てに鬼と化したその貌は、邪悪そのものだった。


「ケラケラケラ……! かわいいヤポンスキ―の女。こんなおもちゃを持って、一体誰に告げ口をしていたのかしら?」

 ニーナは屈み込むと、人間のそれとは思えないほど不自然に長い、赤黒い舌を伸ばし、志乃の白い頬をレロリ、と濡れた音を立てて這わせた。

「んん……いい匂い。ねえ、あなたのその綺麗な魂、どんな味がするのかしらねぇ?」


「くっ……離し、なさい……!」

 志乃は必死に身をよじり、懐の小太刀を抜こうともがく。しかし、身体に巻き付いたニーナの鉄鎖からは、ジジジ……と不気味な紫色の霊煙が立ち上っていた。その鎖は、触れた霊魂の根源的なエネルギーを容赦なく吸い取る呪物だったのだ。叩きつけられた衝撃と呪縛の相乗効果により、志乃の指先からみるみる力が抜け、視界が急速に狭まっていく。抵抗する意志そのものが、底なしの沼に溶かされていくような恐怖が志乃を襲った。


「おいおい、ニーナ。そいつが噂のネズミかい」


 暗がりの奥から、軍服をだらしなく着崩した男――ラプタが、せせら笑いながら歩み寄ってきた。かつて尼港で残虐の限りを尽くした彼もまた、現代の東京の闇を吸って、より悪色に染まった鬼と化していた。その濁った目には、下俗な欲望と残忍さが邪悪に混ざり合っている。


「その女、どうするつもりだ? ヤーコフの頭に持っていって、首でも撥ねるかい?」


「まさか。そんな勿体ないことしないわよ。」

 ニーナは志乃の髪を乱暴に掴み上げて顔を歪ませた。

「この女の霊格は高い。山岡の血を開く守護霊の依り代……これをつつくだけつつき倒して、完全に自我を壊して『鬼の門』の柱にするのよ。そうすれば、門は今の倍以上に広がるわ。あのお堅い先祖どもを圧し潰すだけの軍勢が、一気にこちらの世界へなだれ込めるようになる」


「へえ、そりゃあ面白ぇな。さすがニーナ、相変わらず頭が良いことで」

 ラプタは志乃のぐったりとした顔を覗き込み、下品な舌なめずりをした。

「だけどさ……ただ壊しちまうにゃ、この女、ずいぶんと別嬪じゃねえか。泥まみれのシベリアにゃ、こんな上等なタマはいなかった。……どうだ? 門の材料にする前に、少しばかり俺に遊ばせてくれよ。なぁに、鳴き声を上げさせりゃあ、自我を砕くのなんて一瞬だぜ?」


 ラプタから放たれる、鬼としての悍ましい性欲とサディズム。

 ニーナにとって、男のそんな下俗な衝動など何の興味もなかったが、依り代として完璧に機能させるためには、志乃の「絶対に屈しない」という頑なな誇りと意志を、文字通り根底から叩き折る必要がある。それは組織の目的を果たすための、極めて合理的で冷酷な判断だった。


「いいわよ」

 ニーナは冷たく笑い、鎖の呪縛を少しだけ緩め、志乃の身体をラプタの足元へと蹴り転がした。

「好きなように使いなさい。ただし、魂の芯だけは残しておいてね。使い物にならなくなったら、あんたを門の材料にするから」


「カカッ、分かってるって。おい、ヤポンスキ―の女。じっくり楽しもうぜ……!」


 ラプタの太い、爪の伸びた手が、志乃の衣服へと伸びる。

「いや……放して……将吉、殿……!」

 意識が薄れゆく中、志乃は悲痛な拒減の声を上げながら、壊されゆく誇りを解き放たれた霊力の奥底で、必死に繋ぎ止めようとしていた。


――――――――


 同じ頃、港区の慈恵医科大学病院の一室では、現世の人間たちの眠る夜の静寂の裏側で、先祖会の緊急軍議が開かれていた。


「これまでの防衛戦で、病院という限定的な場所では、一般の生者に与える霊障が大きすぎる」

 将吉が地図を広げ、真剣な面持ちで口を開いた。

「より強力な地脈の霊力が集い、我ら守護霊側がその真価を発揮できる場所へ、防衛の拠点を移すべきだ」


「なれば、芝の増上寺が最適。徳川将軍家の菩提寺であり、江戸の裏鬼門を守る大結界の要所。あそこであれば、我らの霊力は倍加し、鬼どもの穢れを強力に退けることができましょう」

 次郎座衛門が十文字槍を傍らに置き、深く頷いた。


 志乃のiPhoneから断続的に送られてくる、有明の「鬼の要塞」の映像を見ながら、将吉たちの間には緊迫した空気が流れていた。敵の要塞が完全に完成し、統率された軍勢が十全に機能し始める前に、こちらから打撃を加えねばならない――。具体的な作戦の構築が、家系の垣根を越えて進められていた。


その時…


「――っ!?」


 軍議の席の最前列にいた山岡景隆が、突如として胸を押さえ、その巨体を大きく震わせた。その顔が、今までに見たこともないほど、土気色に暗く沈んでいく。


「景隆殿!? 如何なされた!」

 次郎座衛門が思わず叫ぶ。景隆はギリ、と奥歯を噛み締め、血を吐き出すような声で呟いた。


「……志乃が、捕まった」


「なっ……!?」


「私の魂の端が、千切られるような感覚があった。山岡の血脈の隠密たるあの者が……敵の術中に落ち、その誇りを、今まさに砕かれんとしている……!」


 その言葉を聞いた瞬間、将吉の脳裏に、怒りと無力感が、一気にとてつもない劫火となってめぐる。

「有明の……あのクソ野郎どもが……!」


「落ち着け、将吉!」

 次郎座衛門がその肩を強く掴んだ。

「個人の怒りで動けば、敵の思うツボ。今こそ、我らは一つにならねばならん!」

 次郎座衛門はゆっくりと立ち上がり、景隆の前に歩み出る。

「景隆殿。此度の戦、敵は一糸乱れぬ軍隊。ならば、我ら東京の守護霊も、一人の総大将の下で動かねば、確実に各個撃破されましょう」


 次郎座衛門は、その十文字槍を景隆に向けて静かに傾けた。それは、臣従と信頼の礼だった。

「山岡景隆殿。小林家先祖会、これよりあなた様を『総大将』とお認め奉る。どうか、我らに命を―――――」


「――ちょっと待ちな!身内だけで格好つけちゃあ困るよ」

 重々しい軍議の空気を切り裂くように、小気味よい、しかし凛とした女の声が響いた。

 現れたのは、星野希美の守護霊――お慶。キセルを指に挟み、江戸の粋な女将の風情を纏った彼女の後ろには、夜闇を塗りつぶす圧倒的な数の霊気がうねりを上げていた。


「江戸を守るために、信濃や近江のお侍さん達が必死に頑張ってくれるのも有難い話だけどさ。もうちょっと、お江戸の先祖会も頼ってくれないかい?」


 お慶がニヤリと笑ってキセルで背後を指し示すと、そこには江戸の町を見守り続けてきた名だたる先祖会、火消しの頭や八百八町の守護霊たちが、凄まじい熱気とともに集結していた。

 だが、それだけではなかった。

 お慶が連れてきたその巨大な霊気の渦の真ん中から、先ほど病院の廊下で鬼どもを圧倒した、高木海軍軍医少将が厳然たる足取りで歩み出てきたのだ。

 高木少将の背後には、海軍の白や紺の軍衣が並び、さらにはその怒りの電波に呼応し、東京中に眠っていた旧陸軍の英霊たちまでもが、陸海軍の禍根を越えて固い隊列を組んでいた。


「山岡殿。自分たちが創設したあの神聖な病院を穢された怒りは、我ら海軍、そして東京の旧軍関係者の魂にも深く伝播した。……それに、小林将吉殿も、我が海軍が誇る『天山』の優秀な乗り手。縁ある者達が危険な目に遭わされて、黙っていられるほど我らは冷血ではない」


 高木少将は景隆の前に立つと、軍帽の庇に手を当て、見事な敬礼を送った。


「お慶殿の呼びかけに応じ、東京中の旧軍の英霊たちを引き連れて参った。これより我ら軍医団、および陸海軍の英霊一同、貴殿の指揮下に入る。どうか、あの不埒な鬼どもを根絶やしにするための戦列に、我らもお加えいただきたい」


「……お慶殿、高木少将殿、痛み入る」

 景隆は深く頷き、集まった大軍勢を見渡した。山岡家、小林家、大江戸の町衆、そして高木少将率いる陸海軍の英霊たち。志乃を奪還し、有明の要塞を灰燼に帰すための布陣が、ここに完成したのだった。


―――――――――


 病院から移動した守護霊たちの軍勢は、芝の増上寺へと集結した。

 将軍家の菩提寺であり、江戸の裏鬼門を護る巨大な霊的要塞。本堂の屋根瓦の上、そして境内の木々の梢に至るまで、数千の守護霊たちが放つ清廉な霊気が、満月のように夜空を白く照らし出している。地脈から湧き上がる莫大なエネルギーを得て、将吉たちの戦意は最高潮に達していた。


 本堂の前に立ち、全軍を見下ろす山岡景隆が、一歩前に出た。

 背負った大刀を引き抜き、石床へと突き立てる。その巨体から放たれる総大将としての凄絶な覇気が、増上寺の夜空を震わせた。全軍の視線が、一斉に景隆へと突き刺さる。


「皆の者、大義である!」


 景隆の地鳴りのような声が、境内の隅々にまで響き渡った。


「作戦の主幹は二つ! 有明の鬼の要塞の完全壊滅! そして――我が山岡一族が誇る至高の隠密、志乃の奪還である! 奴らに、日の本の武士もののふの恐ろしさを骨の髄まで叩き込んでやるぞ。……出陣の準備をせよ!」


「「「おおおぉぉぉッ!!!」」」


 地響きのような鬨の声が、増上寺の大地から東京湾へと向けて轟き渡った。

 将吉は九九式短小銃の銃剣の刃をきつく睨みつけ、志乃を地獄の底から引きずり戻すため、その魂の全エネルギーをかつてないほど激しく燃え上がらせていた。

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