20100916 威力偵察の狼煙
二〇一〇年、九月十六日。
猛暑もようやく出口が見え始め、未だ三十度を超えるものの、窓から吹き込む風にはどこかさわやかな秋の気配が混じるようになっていた。
慈恵医科大学病院の一室では、私服に着替え、身支度を整えた山崎誠二郎がベッドの脇に立っていた。病後の経過は極めて良好、今朝の最終検査の結果も文句なしということで、まだ松葉杖こそ手放せないものの、晴れて今日、退院の運びとなったのだ。
「――じゃあな、小林くん。色んな意味で、本当にありがとうよ」
誠二郎は荷物を片手に、悪戯っぽく白い歯を見せて笑った。
その「色んな意味」の裏にある意図を、正博はよく分かっていた。
あの「三華鼎立」の翌日以降、実は馬場澪が何度かお見舞いに訪れていた。「正博と誠二郎、二人へのお見舞い」という絶妙な名目を携えて。驚くほどに気が合い、シベリア鉄道という共通の記憶を持つ二人は、正博の目の前であれよあれよという間に意気投合し、すでに連絡先を交換し合う仲にまでなっていた。
(二人とも、本心はどう思ってるか分からないけれど……。何かしら良い縁が繋がったなら良かったのかな)
正博が心の中でそんな風につぶやいていると、窓の外の異様な喧騒が耳に届いた。
昼前から、途切れることなく救急車のサイレンが、新橋のビル街に木霊している。廊下を走る医師や看護師たちの足音も、心なしかいつもより慌ただしく、ただ事ではない空気が病院全体を包み込んでいた。
「なんか、外がえらい騒がしいな。大事故でもあったんですかねえ」
「さあ……。でも、小林くんは身体が万全じゃないんだから、部屋でおとなしくしてろよ?」
誠二郎は腕時計に目をやると、松葉杖をがっしりと脇に挟んだ。
「時間だ、俺はもう行くわ。また絶対に会おうぜ!今度、俺が真心を込めて創った最高の会津の酒、真っ先に送ってやるからさ」
「はい! 楽しみに待ってます。山崎さん、お元気で!」
「おう、あばよ!」
豪快に手を振り、病棟を後にする誠二郎。その広い背中を見送りながら、正博は「退院したら、会津へ誠二郎さんに会いに行こう」と強く心に誓うのだった。
―――――――
病院が救急搬送の対応で激しく揺れていた理由は、東京湾の臨海部にあった。
有明の再開発現場。
お慶が「不気味な思念が湧き出している」と警告していたまさにその区画で、悲劇は起きた。
大型クレーンが巨大な鉄骨の資材を運搬中、その強固なはずの土台が、まるで底なしの泥に引きずり込まれるかのように突如崩壊。
クレーン車そのものが激しく横転したのだ。現場にいた作業員たち十数人が一瞬にして下敷きとなり、血に染まる大惨事――。それゆえに、救急車がこの病院へと次々に吸い込まれていたのである。
だが、この事件の真の不気味さを、現世の人間は誰も知らない。
病院の屋上に集結した先祖会の面々は、有明の方角から立ち上る、どす黒い煤煙のような霊気をただ事ではない面持ちで見つめていた。
「やはり、新橋の泥底から繋がっていたか……。有明の泥の下、奴らは確実に根を張っている」
山岡一族の重鎮・山岡景隆が、厳かな声で背後に控える霊へと振り返った。
「志乃よ。此度の事故、ただの過失とは到底思えぬ。あの有明に潜り込み、敵の正体と規模を突き止めてまいれ。……お主の隠密の技、今こそ頼りにしているぞ」
「御意にございます、景隆様」
シベリアの酷寒の地から東京に至るまで、執拗に怨念の影を追い、密偵を続けてきた志乃にとって、それは至極当然の流れであった。
だが、その華奢な肩を見つめる将吉の胸には、隠しきれない懸念が走る。将吉は一歩前に出て、志乃の目を真っ直ぐに見据えて念を推した。
「志乃さん……無理だけはしないでくれ。少しでも危険だと思ったら、すぐに引くんだ。いいな」
将吉の真摯な眼差しに、志乃は一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに柔らかな、しかし強い意志を秘めた笑みを浮かべ。
「お気遣い、痛み入ります、将吉殿。この身に代えても、必ずや――」
「まあ待ちなされ、志乃さんや。これを持っていきなされ」
重厚な声と共に割って入ったのは、小林家を束ねる次郎座衛門。彼が太い手で差し出したのは、なんとiPhone 4であった。
「な、次郎座衛門殿、それは……?」
戸惑う志乃に、次郎座衛門は悪戯っぽく髭を揺らし。
「いくつか融通してもらったのじゃ。ガラケーとやらは言葉を交わす程度じゃったが、これは色々と便利じゃからの。隠密の用には、きっと役立つはずじゃ」
「……かたじけなく存じます」
次郎座衛門の粋な計らいに、志乃はその鉄の板を懐へと大切にしまい込んだ。そして、将吉にもう一度深く頷いてみせると、陽炎のようにかき消え、有明の暗雲へと向かって音もなく飛び去っていった。
―――――――
志乃が密偵へと旅立った直後、病院の空気が、一瞬にして凍りつく。
キィィィン、と耳を劈くような高周波の霊的怪音が響き渡り、救急外来のロータリーへと滑り込んできた救急車の背後に、現世の人間には見えない「影」がへばりついているのを、将吉たちは目撃した。
救急車のドアが開くと同時に、搬送される負傷者の肉体から溢れ出る生霊のエネルギーを貪るようにして、どす黒い煤煙を纏った鬼たちが、次々と病院内へと侵入してきたのだ。
「――敵襲ッ! 鬼どもが病院へ入り込むぞ!」
将吉の鋭い叫び声とともに、先祖会の防衛戦が幕を開ける。
将吉は低く身を構え、九九式短小銃を肩にしっかりと付け、照星の先に敵を捉える。廊下の天井を、百足のように這い回りながら迫る異形の鬼。その脳門に狙いを定め、引き金を絞った。
――パアーンッ!!
鼓膜を揺らす激しい響き、銃口から放たれた弾丸が鬼の頭部を正確に粉砕する。
標的が黒い霧となって霧散するのとほぼ同時に、将吉の右手はすでに動いていた。流れるような動作でボルトハンドルを上に跳ね上げ、力強く後ろへ引く。
キン、と虚空に弾け飛ぶ目に見えぬ薬莢。
すぐさまボルトを前に押し込み、次弾を薬室へ装填する。間髪入れずに放たれた二発目が、通気口から這い出そうとした別の影を撃ち抜いた。
しかし、窓の隙間や壁の歪みから溢れ出る黒い影は、一発一殺の射撃だけでは、瞬く間に距離を詰められてしまう。
敵の群れが廊下を埋め尽くし、乱戦の距離へと突入したその瞬間、将吉は迷わず銃口の先へと手を伸ばした。三十年式銃剣を着剣装置へと滑り込ませる。
――カチリ、と硬質な金属音。
「槍」と化した九九式短小銃を斜めに構え、将吉は一歩前に踏み込んだ。
魂の銃剣術。
鋭い突きが空気を裂き、肉薄してきた鬼の胸元を深く貫く。そのまま銃身を捻って引き抜き、返す刀で別の鬼の顎を突き上げるようにしてねじ伏せた。
「不届き千万! 神聖なる病舎を汚すなど、許さぬ!」
将吉の斜め後ろから、大地を震わせるような怒号が響いた。山岡景隆である。
彼の手には、戦国武将の本領たる一丈二尺の大身槍が握られていた。その剛腕で槍を風車のごとく旋回させると、凄まじい踏み込みとともに、迫り来る三体の鬼の胴体を一突きで串刺しにした。そのまま豪快に払うと、鬼どもは肉の壁となって壁面に叩きつけられ、消滅していく。
「ここから先は一歩も通さぬ!」
呼応するように、次郎座衛門もまた、愛用の十文字槍を厳かに構えた。
普段の好々爺とした雰囲気は完全に消え失せ、戦国を生き抜いた猛将の眼光が光る。次郎座衛門は十文字槍の左右の枝刃を巧みに使い、迫り来る鬼の爪を絡め取るようにして叩き落とすと、電光石火の速さでその心臓部を突き穿った。
そして――――
「――おのれ、不逞の輩ども! 我らが築きし聖域を汚すこと、断じて許さんッ!」
廊下の奥から、威厳に満ちた怒号が響き渡った。
現れたのは、白い夏用軍衣に身を包み、金色の階級章を輝かせた高潔な将星――この慈恵医科大学病院の前身たる成医会講習所を創設した、高木兼寛海軍軍医総監(海軍軍医少将)の英霊であった。
高木少将の背後には、彼を支え、日本の医学の礎を築いた海軍軍医団、および海軍関係者の守護霊たちがズラリと居並んでいた。彼らは現世のメスや薬品ではなく、霊格化された海軍の軍刀や短剣を一斉に引き抜き、廊下へなだれ込んできた鬼どもへ果敢に突撃していった。
「これ以上、我が病院で好き勝手はさせん! 総員、迎撃せよ!」
同じ海軍の、それも大先輩にあたる将星たちの見事な参戦に、将吉の胸に熱いものが込み上げる。
「海軍軍医団の皆様……! よし、負けていられるかッ!」
将吉はさらに鋭さを増した銃剣術で、海軍の先達たちと呼吸を合わせ、鬼の戦列を容赦なく切り裂く。
守護霊側は圧倒的であり、個々の鬼の戦闘力そのものは、以前新橋で戦った鬼たちに比べれば、恐れるに足りないものだった。
だが――将吉たちの胸に、戦えば戦うほど、冷たい戦慄が走り始める。
「……何かが違う。こいつら、今までの鬼とは決定的に違う!」
以前の鬼たちは、ただ本能と怨嗟のままに暴れ回る、統率のない野獣の群れだった。しかし、この病院に乱入してきた鬼たちは違った。
一体が囮となって山岡景隆の太刀を引きつければ、左右の二体が即座に連携して、防衛結界の「薄い部分」を突こうと動く。互いに声を掛け合い、守護霊たちの配置、数、そして誰がどれほどの霊力を持っているかを、冷徹に観察しているのだ。
「――そこだ! 左翼の結界が薄い! 突撃!」
鬼たちの群れの中心から、悪寒を放つ声が響く。
煤けた軍服を纏い、片目に黒い怨念の炎を宿した赤軍将校の霊。彼がサーベルを振るって的確な指示を出すたび、鬼たちは一糸乱れぬ兵隊の動きで、守護霊たちの隙を突いてくる。
「奴ら、本気でこの病院を落とす気がない……! 言動の端々から分かる、これは――『威力偵察』だ!」
将吉の言葉に、守護霊たちは表情を険しくした。
敵は、勝つために来たのではない。自分たちの守護霊一派が、どれほどの戦力を持ち、どのような連携を取るのかを「値踏み」しに来たのだ。
「フン、小癪な真似を! 数で圧し潰してくれるわ!」
景隆の号令とともに、病院側の守護霊たちが圧倒的な数で包囲網を縮めると、赤軍将校の鬼は、冷酷な嘲笑を浮かべてサーベルを収めた。
「目的は達した。引き上げるぞ!」
鬼たちは未練がましく暴れることもなく、将校の号令一言で、見事な統率力をもって、一斉に窓の外の影へと退散していった。その引き際の鮮やかさは、鍛え上げられた「軍隊」そのものであった。
静寂を取り戻した病院の廊下。
しかし、先祖たちの顔に勝利の安堵は微塵もない。
「……統率された軍隊か。ただの怨念の塊ではなく、明确な戦術を持った兵団が、有明の泥の下で組織されつつあるということだな」
景隆が槍を収めながら、忌々しそうに吐き捨てる。
「これまでの連携では、いずれ奴らの組織的な各個撃破に遭うかもしれん。我ら側も、家系の垣根を越えて、より密に、連携を構築せねばならんの」
次郎座衛門が、いつになく真剣な面持ちで周囲の守護霊たちを見渡した。
だが、将吉の視線は、鬼たちが去っていった窓の外、遠く離れた有明の重い空へと釘付けになっていた。
「……志乃さん」
将吉の胸を、激しい不安が締め付ける。
冷徹に統率され、一糸乱れぬ動きを見せるあの鬼たちの巣窟。その真っ芯へと、志乃は今、たった一人で潜り込もうとしているのだ。
(果たして、あのような軍営の中で、志乃さんは無事でいられるだろうか……)
iPhone 4を携え、闇の中へと消えた戦友の身を案じながら、将吉は来たるべき大戦の足音を、その霊体の芯で確かに聞き取っていた。




