20100829 セーちゃんとみほっち
二〇一〇年、八月二十九日、日曜日。
前日の、三人の女性たちが火花を散らした「三華鼎立」の余韻が、まだどこか空気の隅にこびりついているような病室。蝉時雨が容赦なく窓を叩く午前十時過ぎ、スライドドアがすたすたと軽やかな音を立てて開いた。
「よお、正博。生きてる?」
入ってきたのは、背が高く、ほっそりとした涼しげな体躯の女性――正博の姉、小林瑞穂だった。
母和美が予言していた通り、瑞穂は弟の入院をこれ幸いと「あてつけ」の理由にし、地方からちゃっかり東京見物へと繰り出してきたのだった。その手には、およそお見舞い用とは思えない、都内の有名デパートの紙袋がいくつも下げられている。
「姉貴……。本当に来るとは思わなかったよ」
「何よ、せっかく心配して東京まで来てあげたのに。まあ、顔色がいいのは何よりだけどさ」
瑞穂は荷物をパイプ椅子に置くと、すぐに部屋の「ある異変」に目を留めた。
ベッドの脇のサイドテーブル、そして手狭なテレビ台の上までもが、男の入院生活にはあまりにも不釣り合いな、華やかで瑞々しい色彩に埋め尽くされていたのだ。
昔から、瑞穂は恐ろしいほどに勘の鋭い姉だった。
まず目を引いたのは、千疋屋のロゴが入ったクラシカルな桐箱。
その上には、いかにも洗練された大人の女性が選びそうな、深みのあるボルドー色のサテンリボンが、無駄のない美しい蝶結びで掛けられている。
その脇には、都内の有名オーガニックショップの焼き菓子詰め合わせが並び、そこには手書きの小さなメッセージカードまで添えられていた。文字のフォントやカードの質感からして、男性の趣味ではないことは一目瞭然。
さらに、山のように積まれた果物のチョイスが決定定的だった。
男友達が見舞いに買ってきそうな「とりあえずのバナナやみかんの袋詰め」など一つもない。皮ごと食べられるシャインマスカットの美しいプラスチックケースや、ピンク色のみずみずしい大玉の桃、そして由梨江が器用に剥いて残していった、変色を防ぐために完璧な塩水処理が施された林檎のウサギたちが、タッパーの中で綺麗に並んでいる。そのナイフの入れ方の繊細さ、丁寧さは、明らかに「誰か」が弟のためにその場で腕を振るった証拠だった。
お見舞い品の包装紙に施された、パステルピンクやミントグリーンの淡く可憐なリボン。女性が「お見舞いとして貰ったら一番嬉しい、センスの良い品」の完璧な見本市。
そして何より、白く乾いた病室の空気の底に、わずかに、しかし確実に残る――甘く妖艶な香り、清廉な石鹸の香り、そして瑞々しいシトラスの香りの、毛色の違う三つの洗練された残り香。
それだけで、瑞穂は昨日この部屋で、弟を巡ってどんなに贅沢な「事件」が起きたかを瞬時に察知した。
「ふーん……。正博、あんた、ずいぶんと賑やかなお見舞いがあったみたいじゃない?」
「えっ、あ、いや……それは会社の関係の人たちが、たまたまね……」
分かりやすく狼狽える弟を見て、瑞穂はふっと悪戯っぽく唇を吊り上げた。いつもは冴えない、へたれな弟だ。そんな年頃の弟の周りに、これほど毛色の違う女性たちの気配があることに、姉としてはからかい半分、しかし心の底では「この子もちゃんと、東京で自分の居場所と人脈を作っているんだな」と、深い安心感を覚えていた。
その時、廊下から車椅子の車輪が軋む音と、看護師の明るい声が近づいてきた。
「はーい、山崎さん、リハビリの検査お疲れ様でした。足の経過も順調ですからね」
「おう、看護師さん、ありがとよ! いやぁ、やっぱり動かすと腹が減るな!」
元気よく病室へ戻ってきた誠二郎は、正博のベッドの前に立つ、見慣れない背の高い女性の背中を見て、ふと車椅子を止めた。同時に、瑞穂もまた、聞き覚えのある破天荒な大声に弾かれたように振り返る。
二人の目が、真っ向から合わさった。
一秒、二秒――。病室の時が完全に止まったかのような沈黙のあと、二人は同時に、ひっくり返ったような声を上げた。
「――えっ!? セーちゃん!?」
「――うわぁっ!? みほっち!!? なんで、なんでここにいるんだよ!!」
指を差し合って驚愕する二人の姿に、今度は正博がベッドの上で完全に置いてけぼりになり、目を白黒させた。
「な、何? 二人とも、知り合いなの……?」
「知り合いも何も、あんた! 大学のゼミの同級生よ!」
瑞穂が声を尖らせると、誠二郎も車椅子の上でのけぞりながら叫んだ。
「小林くん、みほっちの弟だったのかよ! なんて世間は狭いんだ……。いつも言ってた『口うるさいけど頼りになる姉貴』って、瑞穂のことだったのか!」
そういえば、と正博は改めて頭の中で年齢を計算する。
誠二郎は正博の三つ上。そして瑞穂もまた、正博の三つ上の同い年だ。大学時代、二人が同じ学び舎で机を並べていたとしても、何ら不思議はない。
「ちょっとセーちゃん、あんた、足吊るして一体何やってんのよ。相変わらず破天荒なんだから」
瑞穂はいつの間にやら学生時代に戻ったような、気の置けない口調で誠二郎のベッドに歩み寄った。
「正博、この人、大学の頃からやたらと声がデカくて、すぐ他人の面倒を見たがる、お節介の塊みたいな奴だったんだから」
「おいおい、みほっち、人聞きの悪いこと言うなよ! 俺はこれでも、お前の可愛い弟の退屈な入院生活を、兄貴風吹かせて楽しく盛り上げてやってたんだぜ?」
「あんた、またそうやって兄貴風吹かせてる。昔からちょっと調子いいんだから」
クスクスと笑いながら、瑞穂はどこか懐かしそうに同級生との再会を喜んでいた。実直で、飾らなくて、少し無鉄砲。そんな誠二郎の気根が、正博の暗くなりがちだった入院生活をどれほど救ってくれたか、正博の「おかげで本当に助かっているよ」という言葉を聞くまでもなく、瑞穂にはよく分かっていた。
「それにしてもさ……」
瑞穂はふと、パイプ椅子に腰掛け、誠二郎の日に焼けた顔を見つめた。
「あんたが、貯金全部叩いてユーラシア大陸を横断したって聞いた時は、本当に驚いたわよ。……でも、納得しちゃった。私たち、あのゼミで『地政学』を学んでたじゃん?」
「地政学……?」
正博が思わずその単語を復唱する。地理的な環境が、国家の政治や歴史、民族の運命にどのような影響を与えるかを研究する学問だ。
「そうさ」
誠二郎は少しだけ真面目な顔になり、窓の外の青空を仰いだ。
「地図の上だけで、ここが要衝だの、国境線の歪みだのって議論してても、何も肌で分からねぇだろ? 俺は、自分の目で確かめたかったんだ。なぜ人間があの大地で争い、なぜあの大地で祈るのか。……だから俺は、シベリア鉄道に飛び乗って、果てしない白樺の森と、大アムール川の濁流をこの目で観に行ったんだよ。大地の広さと、そこにある『空気の重さ』を感じ取るためにな」
「さすがセーちゃんね。やっぱり、ただの目立ちたがり屋のバックパッカーじゃなかったわけだ」
瑞穂は感心したように深く頷いた。
正博は、初めて知る誠二郎の「旅の背景」に、深い感銘を受けていた。
これまで誠二郎のことを、ただただ豪快で面白い、旅好きな福島のアンちゃんと思っていただが、彼が地の果てを観に行こうとしたその裏側には、大学時代の確かな「学びの背景」と、世界の本質を掴もうとする実直な渇望があったのだ。
(山崎さん……だからあんなに、言葉の一つ一つに太い芯があるんだな)
――――
入れ替わり立ち替わり、大切な人々が訪れては笑い声を残していく病室。
外の残暑は相変わらず厳しかったが、この部屋の中だけは、まるで時間の流れが穏やかに淀む陽だまりのようだった。大学時代の思い出話、新橋の美味しい居酒屋の話、そしてこれからの会津の酒造りの夢――。若者たちの無邪気で平和な会話は、どこまでもどこまでも、心地よく続いていく。
その賑やかな現世の光景を、天井近くの霊気の狭間で、先祖たちが見つめていた。
「地政学、か……」
会津武士・山崎銃郎が、腕を組んだまま、静かにその言葉を噛み締めていた。
「土地の因縁が、人の運命を縛る。我が誠二郎め、無意識のうちに、己が血脈が引き寄せられるシベリアの地、アムールの河口へと足を運んでいたわけだな。あの大地が孕む呪いに、引き寄せられるようにして……」
「――まあまあ、銃郎殿。そう四角四面に考えなさるな」
低く、しかしどこか包容力のある声とともに、将吉たちの背後から、小林家の霊――次郎座衛門がふっと姿を現した。
次郎座衛門は、病室で瑞穂と誠二郎が無邪気に笑い合う姿を、穏やかな眼差しで見つめ。
「今はただ、この平和な光景を、黙って眺めていようではありませぬか。大戦の前の静けさ……とでも言うのかのお。まこと穏やかな時間だ。若者たちがこうして、何の憂いもなく笑い合える安らかな日々。それこそを後ろから支え、守り抜くために、我ら先祖がここにいるのですからな」
「……次郎座衛門殿」
将吉がその言葉に小さく頷き、九九式短小銃の銃身を静かに撫で、愛おしそうに正博と、姉・瑞穂の姿を見つめた。
マリアナの業火をくぐり抜けた将吉にとって、この病室の何気ない笑い声の響きは、かつて自分が命を懸けて守りたかった「祖国の未来」そのものの体現であった。
現世の病室には、瑞穂の「ちょっとセーちゃん、私の林檎まで食べないでよ!」という呆れた声と、誠二郎の「堅いこと言うなよみほっち、病人は腹が減るんだ!」という豪快な笑い声が響き渡る…。




