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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
2010年 会敵編
30/54

20100828 三華鼎立

 病室の、どこか浮き足立った笑い声を裂くようにして、再びスライドドアが静かに開いた。


「小林先輩! お見舞いに――あ」

「小林さん、失礼します。……あ、先客の方が……」


 入ってきたのは、山岡由梨江と馬場澪だ。

 二人は手にした見舞いの品を抱えたまま、病室の光景を見て一瞬、その場に凍りついた。正博のベッドの脇には、洗練され、どこか妖艶な雰囲気を纏った見知らぬ美女――星野希美が、親しげに佇んでいたからだ。


 希美もまた、不意に現れた二人の若い女性に視線を向け、その切れ上がった瞳をわずかに細める。

 病室の空気が、一瞬にしてガラスを一枚挟んだかのように、ひんやりと、そしてドライに乾いていく。


「あ、山岡さんに……馬場さん」

 正博は急な女性たちの鉢合わせに、背中に冷や汗が流れるのを覚えながら、ベッドの上で上体を起こした。


「小林先輩、そちらの方は……?」

 由梨江が、いつも会社で見せる優秀な「後輩」としての顔を崩さないように努めながらも、探るような視線を希美に送る。あの事故の夜、残業帰りに先輩である正博が、見知らぬ美女(澪)と二人で歩いているところに出くわした時の衝撃――そして、直後に自分たちを庇って正博が血を流したあの夜の記憶が蘇り、由梨江の胸はちくりと痛んだ。


「あ、紹介するよ。僕が今の会社で、一緒に……その、色々と大きな戦いを潜り抜けた先輩の、星野希美さん。星野さん、こちらは同じ会社の後輩の山岡由梨江さん。で、こっちは……その、合コンで知り合った、商社に勤めてる馬場澪さん」


「星野……希美さん?」

 その名を聞いた瞬間、由梨江の目がわずかに動いた。社内不正を暴き、今のRコンサルタントの歪みを正すきっかけを作った伝説的な前任者。由梨江は一歩前に出ると、尊敬の念を込めつつも、現在進行形で正博の「一番近くの相棒」であるというプライドを込めて頭を下げた。


「お名前はかねがね、先輩から伺っておりました。山岡です。星野さんが残された業務の仕組みやデータベースの構造、拝見しましたわ。非常に論理的で、本当に感銘を受けました。……今の私と先輩のチームが動けているのは、星野さんが作ってくださった基盤があるからです。お会いできて光栄です」


 丁寧な賛辞。

 しかしそれは同時に「今の彼の隣で、その意志を継いで一緒に走っているのは私です」という、静かな牽制でもあった。

 希美は、由梨江の放つ後輩としての瑞々しい気配を敏感に察知しながらも、ふっと余裕のある笑みを返した。


「そんな風に言っていただけて嬉しいです。山岡さん。あの仕組みはね、小林くんと二人で夜遅くまで残って、頭を突き合わせて必死に作ったものなの。……今の彼の活躍を、後輩のあなたが支えてくれているなら、苦労した甲斐があったわ」


 「二人で、夜遅くまで」というフレーズが、病室の乾いた空気に小さく弾けた。

 お互いに、正博に「器の狭い女」だと思われないよう、言葉遣いは極めて丁寧だが、その端々には正博との「固有の絆」を編み込もうとする執念が透けて見える。


 そのやり取りを、少し後ろで聞いていた商社ウーマンの澪は、小さく唇を噛んだ。

 澪が一歩前に出て、希美に真っ直ぐな視線を向ける。


「はじめまして、馬場です。……星野さん、正博さんは、私と山岡さんにとって命の恩人なんです。あの夜、私たちがトラックに巻き込まれそうになったのを、正博さんが身を挺して突き飛ばして助けてくれて…今こんな身体になっているのは、私を庇ったせいで……」


「え……?」

 希美は初めて聞く事故の真相に、息を呑んだ。

 あの日、新橋の泥沼の中を共にした真っ直ぐな青年は、会社を離れた夜の街でも、二人の女性を救うために命を懸けたのだ。希美は、目の前の澪の、まだ少し震えている華奢な肩を見つめ、そして正博を見た。

(本当に……あなたという人は、どこまでも小林くんね……)


 しかし、感動と同時に、三人の女性たちの間には、言葉にできない「戸惑い」と「火花」が静かに散っていた。

 まだ誰も、正博に対して明確な恋情を抱いているわけではない。だが、お互いに、正博という男に対して抱いている「特別な気配」を、本能的に察知してしまったのだ。


 由梨江は、毎日会社で同じプロジェクトを動かし、苦楽を共にしているアドバンテージがある。

 希美は、過去の修羅場をともに潜り抜け、彼の本質を誰よりも先に見抜いたという歴史がある。

 そして澪は、二人に比べれば会社での関係性はなく、この場においては「劣勢」を強いられている感を否めなかった。だが、澪の胸の奥には、確かな意地があった。

(でも……あの事故が起きる前、合コンの後に二人で歩いた時、気取らずに会話ができたあの抜群のフィーリングだけは、他の二人には絶対に負けてない)


 三人の女性たちの視線が交錯し、火花が散る。そのドライで張り詰めた「女たちの戦場」を前に、隣のベッドの誠二郎は、驚きを隠せず目を丸くしていた。


(おいおいおい、お隣さんよぉ……トラックに跳ねられたと思ったら、今度は美女三人の三つ巴の戦場に放り込まれるか普通!? どんな業を背負って生きてんだよ!)


 正博もまた、彼女たちの笑顔の裏にある、ひんやりとした空気の圧力をまともに食らい、ただただ戸惑い、冷や汗を流して固まるしかなかった。


(あ…! と、とにかく、この空気をどうにかして和ませないと……!)


 胃の辺りが痛くなるような沈黙を破るため、正博は必死になって話題を探し、隣のベッドの誠二郎へと視線を振った。


「あ、あのさ! 山岡さんに、馬場さん、星野さん。僕の隣に入院している山崎さん、本当に凄い人なんだよ。バックパッカーで、貯金を全部叩いてユーラシア大陸を横断してきたっていう、面白い経験の持ち主でさ。これから故郷の会津に帰って、歴史のある酒蔵を継ぐ予定なんだ」


「えっ……? ユーラシア大陸横断?」

 それまでツンとすましていた澪が、その単語にピクリと反応し、大きな目を輝かせた。

「バックパックでユーラシアを? ……もしかして、シベリア鉄道にも乗られたんですか?」


 誠二郎は、美女からの突然の食いつきに一瞬ドギマギしながらも、すぐにいつもの快活なアニキ肌を取り戻して胸を張った。

「おうよ! モスクワまで飛んでそこからウラジオストクに向けてさ。一週間近くあの鉄の箱に揺られて。窓の外に続く地平線と白樺の森を眺めながらの、泥臭い旅よ」


「すごいです!」

 澪は一歩、誠二郎のベッドに近づいた。

「実は私、イギリスに留学していたことがあって。長期休暇の時に、どうしてもシベリア鉄道に乗ってみたくて、友達とモスクワまで行ったことがあるんです! あの果てしない雪と大地の景色、今でも忘れられなくて……」


「へぇーっ! お嬢さん、留学帰りでシベリア鉄道乗ったことあるの!」

 誠二郎の目が、驚きと、どこか深い親近感で大きく見開かれた。

「あそこは凄ぇよな。冬なんてそれこそ呼吸するだけで肺が凍りつくような冷気でさ。だけど、あの厳しさの中に、なんとも言えねぇ人間の温かみがあるっていうか……。俺はあの旅でアムール川の大濁流を眺めて、ようやく腹が決まったんだ。故郷の、冷てぇ名水で美味ぇ酒を造ろうってさ」


「わかります……! 厳しいけれど、どこか神聖で、魂が洗われるような場所ですよね」

 澪の顔から、先ほどまでのドライな緊張感が完全に消え失せ、少女のように純粋な笑みが溢れ出していた。


 誠二郎と澪の、思いがけない「シベリアの風」を媒介にした魂の共鳴。

 二人のたわいもない、しかし深く響き合うような会話の調子を聞きながら、由梨江も希美も、自分が少し感情的になって牽制し合っていたことに気づき、ハッとして我に返った。二人はお互いに視線を合わせ、少し決まずそうに、しかし大人の苦笑いを浮かべた。


 そして同時に、誠二郎と澪の間に、現世の誰にも気づかれない、かすかな、しかし確かな運命の糸が結ばれ始めていた。


――――


 正博のベッドの周囲には、三人がそれぞれ持ち寄ったお見舞いの品々――とりわけ、色鮮やかで瑞々しい季節の果物たちが、これでもかと大量に並べられた。


「ふふ、これだけの果物、小林先輩一人じゃ傷ませてしまいますね」

 由梨江が、持ち前のテキパキとした「しっかり者の後輩」の調子を取り戻し、バッグから小さな折りたたみ式の果物ナイフを取り出した。

「私が剥きます。山崎さんも、馬場さんも、星野さんも……みんなでいただきましょう?」


「あ、山岡さん、私がお皿やフォークを洗ってきます!」

「じゃあ、あたしも手伝うわ。ほら、小林くんは大人しく寝てなさい」


 由梨江が鮮やかな手つきで真っ赤なリンゴの皮を剥き始めると、澪と希美も自然と役割を見つけ、病室の空気は、ようやく入院お見舞いらしい、和やかで温かいものへと変わっていった。サクサクと小気味良い音とともに、甘酸っぱいリンゴの香りが、残暑の病室を満たしていく。


 その光景を、次元の狭間、生者には見えぬ光の輪の中から、数多の守護霊たちが穏やかに見つめていた。


「おいおい……兵隊さん、あんたの末裔、なかなかの果報者じゃないかい」

 お慶がキセルを燻らせながら、呆れたように、しかし嬉しそうに目を細めた。


 将吉の傍らには、いつの間にか、由梨江の守護霊である志乃、そして澪の守護霊である凜も姿を現し。

「本当に……正博さんは、良いお嬢さんたちに囲まれて。あの子は、誰を選ぶんでしょうねぇ」

 凜は優しく微笑みながら、我が末裔である澪を見つめた。

 その凜の背後には、大正九年の尼港事件の冷たい記憶が流れている。だからこそ、澪が誠二郎と「シベリア」の話で心を通わせている姿に、一際深い、宿命の巡り合わせを感じていた。


「ふふ、凜さん。誰を選んでも、あの実直な正博さんのことです、きっと大切にしますよ」

 由梨江を慈しむように見つめる志乃が、凜の言葉に優しく応じる。


 その少し後ろでは、会津武士の山崎銃郎が、腕を組んで誠二郎の様子を眺めていた。

「我が誠二郎め、美女を前にして鼻の下を伸ばしおって……。だが、あの馬場という娘。因縁たるシベリアの大地を、現世の旅の思い出として語り、誠二郎と心を重ねるとは。……これもまた、何かが手繰り寄せた『善きえにし』かもしれんな」

 銃郎の若々しい顔に、戦の煙ではない、穏やかな笑みが浮かぶ。

 

 大正の尼港事件で散った善吉の記憶、昭和のマリアナ海戦を征った将吉、会津戦争を戦い抜いた銃郎、そして江戸のお慶と志乃、凜――。かつて現世でそれぞれの「義」と「愛」のために命を燃やした先祖たちが今、平成の病院の一室で、リンゴを分け合って笑う若者たちを、優しく、そして力強く見守っていた。

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