20100828 病室の再会
二〇一〇年、八月二十八日、土曜日。
お盆を過ぎ、八月の終わりになってた東京の街は、じめっとした空気がどこかへ流れ、気温の割には、暑さが和らいできていた。
窓の外、慈恵医科大学病院の敷地を囲む木々からは、行く夏を惜しむような蝉時雨が、狂ったように病室のガラス窓を叩いている。
一般病棟の四人部屋では、リハビリの甲斐あって、ベッドの上に寝返りを打つ程度なら痛みを感じなくなった正博と、相変わらず右足を天井から吊るしたままの山崎誠二郎が、くだらない世間話に声を上げて笑っていた。
「だからよ、うちの蔵の仕込み水ってのは、ただ冷てぇだけじゃねえんだ。一口飲むと、喉の奥がカーッと熱くなるような不思議な力があってさ。……おっと、誰か来たみたいだぜ?」
誠二郎がふと、開け放たれた病室の入り口に視線をやった。
正博も釣られるようにして首を巡らせる。そこには、白いスライドドアの陰から、躊躇いがちに中を覗き込んでいる一人の女性の姿があった。
最初は、今にも泣き出しそうなほど神妙で、硬く強張った面持ちをしていた。だが、ベッドの上で上体を起こし、意外なほど血色の良い顔で笑っている正博の姿が視界に入った瞬間、彼女の肩からすっと力が抜けた。
「……ふう」
安心したような、深い一息が病室の空気に溶ける。ゆっくりと足を踏み入れてきたその女性を見て、正博は思わず目を見張った。
「星野……さん!?」
そこに立っていたのは、星野希美だった。
正博がトラックに跳ねられて大怪我を負ったという報せを聞きつけ、居ても立ってもいられずにお見舞いにやってきたのだ。
だが、正博が知っている彼女の印象とは、どこかが決定的に違っていた。
五月のあの夜、新橋駅の片隅で、会社の不正という巨大な闇に怯えながらも、お互いの恐怖心を埋めるようにして淡いひと時を過ごした時の彼女は、もっと素朴で、どこか守ってあげたくなるような女性だった。
今の希美は、肩まで伸びたセミロングの黒髪が、歩くたびにしなやかに靡いている。薄暗い新橋のオフィスにいた頃の控えめな装いとは打って変わり、纏う衣服も洗練され、施されたメイクには、どこか大人の女性の「妖麗さ」が伴っていた。
環境が変わったのか、あるいは彼女の中で何かが吹っ切れたのか、見違えるほどに艶やかな雰囲気を醸し出している。
「小林くん……本当に、本当に良かった……」
希美はベッドの傍らに歩み寄ると、その大きな瞳にみるみるうちに涙を溜めた。言葉が震えている。彼女の細い指先が、正博の無事を確認するようにベッドの柵をきつく握りしめた。
目の前で涙を流す、見違えるほど綺麗になった元同僚。あのRコンサルタントの闇をともに暴き、泥泥の戦場を生き抜いた「戦友」との再会に、正博の胸は激しく高鳴った。だが、今の彼女の妖艶な美しさと、真っ直ぐな涙を前にして、年頃の青年である正博は、にわかに何と声をかけて良いか分からず、激しく戸惑ってしまう。
「あ……ありがとう、星野さん。わざわざお見舞いに来てくれたんですね。見ての通り、もう一般病棟に移れたし、頭も身体もちゃんと動くようになってきたから、大丈夫」
正博は照れ隠しのように、少しぎこちない笑顔を浮かべて、素直な再会の喜びを伝えた。希美は涙を指先で拭いながら、ふっと小さく、悪戯っぽく微笑んだ。その一瞬の表情に、かつて新橋の夜に見た、あの懐かしい星野希美の面影が重なった。
――――――
生者たちが現世の再会に心を揺らすその裏側、病室の天井近くの張り詰めた霊気の狭間で、一つの影がゆらりと揺れる。
「――よお、久しぶりだねぇ、兵隊さん。相変わらずお堅い顔して、突っ立ってるじゃないか」
鈴を転がすような、しかしどこかべらんめえ調の、小気味良い粋な声。
正博の背後に直立不動で控えていた将吉がハッとして振り返ると、そこには江戸の女将風情を漂わせた懐かしい佇まいの霊――希美の守護霊であるお慶が、キセルを片手に、薄紅色の着物の裾を揺らしながら立っていた。
「お慶殿……」
将吉の硬質な顔が、わずかに和らぐ。マリアナの空で散った若き搭乗員にとって、江戸の大店で多くの人間を率いたというお慶の姐御肌な気風は、不思議と信頼に足るものだった。
「希美の様子がずいぶん変わりましたね、、、」
「ふん、あたしの可愛い末裔だからね。ちょっとばかり世間の荒波って奴を教えて、女を磨かせてやったのさ。それより、兵隊さん……」
お慶はキセルを仕舞うと、その切れ上がった目を急に鋭く細めた。
その顔には、いつもの冗談めかした雰囲気は一切ない。先祖会を束ねる長としての、冷徹なまでの霊力が満ちていた。
「気づいているんだろ? この大江戸の底に、とんでもない『穢れ』が流れ込んできていることにさ」
「はい、いかにも……」
将吉は九九式短小銃を握り直し、隣のベッドの銃郎から共有されたばかりの、あの凄絶な記憶をお慶へと向けた。
大正九年、シベリアのアムール川畔、尼港。将吉の実父・善吉の命を奪った赤軍パルチザンたちの狂気、そして裏切られて銃殺された首魁ヤーコフたちの、九十年分の絶望と怨嗟。それが金貨という器の中で黒く濁った鬼と化し、新橋の地下で山崎一族の先祖会と血戦を繰り広げたという、おぞましい「思念」が、将吉の脳裏からお慶へと直接伝達される。
思念を受け取ったお慶は、ふっと美しく、しかし冷ややかに唇を噛んだ。
「……やっぱりね。シベリアで死に損なった野良犬どもの残り火かい。どおりで、新橋の霊道が油臭い煤煙で汚れてるわけだ」
「お慶殿の先祖会でも、何か掴んでいるのか」
将吉の問いに、お慶は静かに頷き、東京湾のある方向へと視線を走らせた。
「ああ、連携しておいてやるよ。最近さ、東京湾の有明……あの、埋め立て地の再開発が途中でピタッと止まっちまってる区画があるだろ? あそこの地下の泥底から、なんとも言えない不気味な、どす黒い思念がジワジワと湧き出してきているんだ」
「有明の、再開発区画……」
「そうさ。新橋の排水溝に落ちたあの金貨の呪いが、地下の泥水を伝って、あの目の荒い埋め立て地に集まり始めてる。間違いないよ、あの泥の下で、鬼どもが現世に大穴を開けようと、何か良からぬ企みを始めようとしてやがる。……あたしたちの先祖会も動いちゃいるが、ありゃあ一筋縄じゃいかない代物さ。そっちの会津の若大将(銃郎)にも、よく伝えておきな」
お慶の言葉は重かった。
新橋での戦いは単なる局地戦ではなく、「大禍」のほんの序章に過ぎなかったのだ。将吉は有明の方向を睨みつけ、胸の奥で静かに闘志の炎を燃え立たせた。
そんな霊的世界の、息が詰まるようなシリアスな軍議の真っ最中――。
現世の病室では、全く異なる、なんとも調子の良い人間の声が響き渡った。
「――おーい、お隣さんよぉ! なんだいなんだい、そんなべっぴんさんを隠し持ってたなら、最初にそう言ってくれよ!」
ガハハと笑いながら、ベッドの上で器用に身を乗り出してきたのは、誠二郎だった。彼は希美が部屋に入ってきた瞬間から、その妖艶な美しさに圧倒され、日焼けした顔の頬をこれでもかと赤らめていた。だが、アニキ肌の照れ隠しからか、すぐにニヤニヤとした笑みを浮かべ、正博を羨むようにして、容赦ない「茶々」を入れ始める。
「山崎さん、ちょっと、静かにしてくださいよ!」
正博が顔を真っ赤にして制止するが、誠二郎は止まらない。
「静かにできるかってんだ! こちとらむさ苦しい野郎二人で、冬の酒蔵の苦労話をしてたってのによ。急にこんな綺麗なハスの花みたいな女性が、涙目で小林くんの心配をしに来るんだぜ? 骨折した左足より、俺の独り身の胸のほうがよっぽどズキズキ痛むわ!」
「もう、何言ってるんですか!」
慌てふためく正博の姿を見て、希美は驚いたように目を丸くしていたが、やがて、その大人のメイクの奥から、クスッと堪えきれないような、鈴の鳴るような笑い声を漏らした。
「ふふっ……楽しいお友達ですね、小林くん」
「あ、いや、この人は隣のベッドの山崎さん。東京駅の階段ですっころんで入院してきた、ちょっと騒がしい人で……」
「おいおい、すっころんだとは余計だろ! 大陸帰りの男の不運と言ってくれよ、お姉さん!」
誠二郎の呑気なツッコミに、病室には一気に明るい笑い声が広がっていく。
その光景を、天井の狭間から見つめていたお慶は、キセルを指先で弄びながら、将吉にウィンクをしてみせた。
「ま、現世の若者たちがこれだけ元気なら、あたしたちも守り甲斐があるってもんさ。…だからさ…兵隊さん。油断するんじゃないよ」
「……了解した」
二人の守護霊は、楽しげに笑い合う正博と希美、そして誠二郎の姿を、その力強い霊気で包み込むようにしながら、静かに次の戦いへと備えるのだった。




