19200709 アムール川の金貨
一九二〇年、六月二十五日。
アムール川の下流へと向かうぬかるんだ泥道の中で、赤軍司令官ヤーコフ・トリピャーツィンは、泥を跳ね上げる馬の背に揺られながら、果てしないシベリアの森を睨みつけていた。
かつて四千人を数えた軍勢は、今や見る影もなく打ちのめされ、ごくわずかな数にまで激減していた。二月からの尼港を巡る戦闘で、ある者は日本の守備隊の銃弾に倒れ、またある者は運良く生き残ったものの、満足な医療も物資もない凍てつく戦場で、次々と命を落としていった。
凍傷で黒く腐り落ちた手足を悲鳴とともに切り落とした者。ただの裂傷から破傷風を発症して、喉をかきむしり、顎をガチガチと震わせながら絶命していった二人の兵士――地獄のような光景が、今もヤーコフの脳裏に生々しく焼き付いている。
そして今、彼らの背後には、日本の正規師団二万人が、復讐心に燃え怒涛の勢いで各所の包囲網を狭めつつあった。
(ふん……白軍どもとは、訳が違うということか)
ヤーコフは冷ややかに鼻で笑った。
彼にとって、ロシア内戦における反革命白軍など、かつて彼が東部戦線で肌で体感したドイツ帝国軍の圧倒的な鉄火に比べれば、赤子の腕をひねるほどに退屈な相手だった。
しかし、三月の尼港事件の際、わずか十分の一の戦力でありながら、統率の取れた夜襲を仕掛け、自分たち赤軍幹部の寝込みを容赦なく襲ってきた日本軍の凄絶な戦闘能力――あの執念深く、一糸乱れぬ鉄の集団が二万人の規模で押し寄せてきているのだ。常識的に考えて、勝ち目はない。
だが、ヤーコフの胸を満たしていたのは、敗北への恐怖ではなかった。
純粋な、激しい苛立ちである。
彼はそもそも、共産主義の理想や革命の成就など、どうでもよかった。
常在戦場、硝煙の匂いと血肉が踊る戦場という空間そのものだけが、二十三歳の彼の生きる証だった。
彼の天才的な戦術と暴力的なまでのカリスマに惹かれて集まった部下たちも、今や理想などどこへやら、迫り来る死神(日本軍)の影に怯え、己の保身のために右往左往するただの烏合の衆に成り下がっていた。
とりわけ、最初から革命の理念など理解していなかった中国の馬賊や朝鮮人のパルチザンたちは、日本軍による「血の復讐」の凄まじさを誰よりも本能的に察知していた。彼らはヤーコフへの忠誠など一瞬で投げ捨て、我先にと隊列を離れ、森の奥へと逃げ出していく。
(何が『偉大なる革命軍』だ。どいつもこいつも、ただの泥棒猫め……)
腹の底で激しい舌打ちを打つが、総司令官という立場上、それを口にすることは許されない。そんな彼のすぐ隣で、痩せこけた白馬に跨る参謀長、ニーナ・レペデワが、狂気と熱情に浮かされた目で虚空を見つめながら、壊れた蓄音機のように喚き散らしてくる。
「これは撤退ではありません、ヤーコフ! 革命を完全なものにするための『転進』なのです! 私たちが尼港で sweeping(一掃)したことは、プロレタリアートの正当な権利であり、歴史がそれを証明します! そうでしょう、ヤーコフ!?」
落ち窪んだ目、引き攣った笑み。もはや完全に正気を失っているニーナに対し、ヤーコフは内心、へどが出るほどのうんざり感を覚えていた。しかし、彼女を邪見に扱えば、残った狂信的な兵士たちの統制すら失われかねない。
ヤーコフはただ黙って手綱を強く引き絞り、泥濘の先にあるパルチザンの本拠地、ケルビ村へと馬を進めるしかなかった。とにかくそこへ逃げ込み、ソビエト中央の軍と合流して体制を立て直す。それだけが、彼の残された唯一の道だった。
そのヤーコフのすぐ後ろを追うように馬を走らせる副官のラプタは、前を行く若き総司令官の、泥に汚れた背中をじっと見つめていた。
ラプタの胸中は、激しい猜疑心と打算で引き裂かれそうになっていた。
(このまま、あの狂った小僧と女と心中する気か? 冗談じゃない……)
日本軍の追撃はすぐそこまで迫っている。このままヤーコフについていけば、捕らえられて惨殺されるか、あるいは極寒の山野で野垂れ死ぬのが関の山だ。いっそのこと、この混乱に乗じて軍を離脱し、どこかへ逃げ延びるべきか。あるいは、向かう先にあるケルビ村のパルチザン本部やソビエトの赤軍代表団に、ヤーコフとニーナの「尼港における独断専行の暴走」をすべて密告し、その首と引き換えに自分一人だけでも助命を乞うべきか――。
しかし、ヤーコフにはこれまでに幾度も戦場で命を救われ、引き立ててもらった大きな恩義があった。裏切りへの罪悪感と、生への強烈な執着が、ラプタの脳内で激しく火花を散らす。
「……クソが」
思考が行き詰まった時、ラプタはふと、自身の軍服の胸ポケットに重みを感じた。
手を差し入れると、指先に触れたのは、あの三月の尼港事件の際、裕福な大商人の家から力ずくで奪い取った、ずっしりと重い一枚の金貨だった。泥と血に塗れた世界にあって、その金貨だけは、冷徹なまでの黄金の輝きを放っている。
ラプタは周囲に気づかれないよう、馬上でその金貨をそっと取り出す。
「天に誓う。……裏が出たら、奴を裏切ってパルチザン本部に売る。表が出たら、地獄の果てまでこのままついていってやる」
親指の爪で金貨を弾く。チィン、と微かな金属音がシベリアの湿った空気に響き、金貨は曇天の空へ向かって高く舞い上がった。ぐるぐると回転する黄金の円盤が、ラプタの瞳に映る。
落ちてきた金貨を、右手の甲でパシッと受け止め、もう片方の手で覆った。
息を詰めて、ゆっくりと隙間から覗き込む。
――そこに刻まれていたのは、冷厳な、美しい「表」の紋章だった。
「……チッ。運の悪いことだ」
ラプタは自嘲気味に呟き、金貨を再び胸ポケットの奥深くへとねじ込んだ。仕方がない。神か悪魔が、まだあの若い司令官について行けと言っているのだ。ラプタは覚悟を決め、これからの趨勢を慎重に見守りながら、ヤーコフの影に従う道を選んだ。
――――――――――――
逃亡の道中、ヤーコフの一行は、必死になってソビエト赤軍代表団やパルチザン本部へと電信を送り続けた。
『我々の行動はすべて革命のための正当防衛である』『日本軍の不当な襲撃に対抗したまでだ』『我々の忠誠を疑うな』――。己の潔白と正当性を訴える言葉は、電波を伝って虚しく響き渡る。
しかし、電信を受け取るソビエト側の対応は、氷のように冷ややかだった。
なぜなら、すでにソビエト中央には、尼港で虐殺された大量の「ロシア人(非戦闘員や身内の人間)」の凄惨な情報が、生き残った者たちの生々しい証言とともに届いていたからだ。どれほど言い訳を重ねようとも、民間人を、そして英国領事館までを巻き込んだ大虐殺をすべて「日本軍のせい」にすることなど、到底不可能なのは明白だった。
さらに、ヤーコフの過激で傲慢な独裁ぶりに反感を抱く、赤軍幹部たちからの冷酷な内通や密告も、すでに本部に届いていた。
何よりも、誕生したばかりで基盤の脆弱なソビエト政権にとって、今この瞬間、極東において日本軍との全面戦争に突入することだけは、絶対に避けなければならない最悪のシナリオだったのだ。そのためには、国際社会と日本への「釈明の生贄」が必要だった。
彼らにとって、トリピャーツィンという制御不能な狂犬の一行は、もはや庇う価値のない、ただの「厄介者」に過ぎなかった。
七月三日、ようやくの思いでケルビ村にたどり着いたヤーコフたちを待っていたのは、温かい出迎えではなく、厳重に武装したソビエト正規パルチザンたちの冷たい銃口だった。
「総司令官、貴殿の武装を解除する」
その言葉とともに、ヤーコフ、ニーナ、そしてラプタをはじめとする幹部一同は、一瞬にして捕らえられ、暗い監獄へとぶち込まれた。
―――――――――
七月九日。
急造された人民裁判の場において、彼らに対する判決は、事実上の結論ありきで速やかに言い渡された。
罪状は、ソビエト権力に対する反逆、および軍規違反。判決は――即刻、銃殺刑。
――シベリアの容赦ない夏の日差しの中。
極東共和国軍の銃殺隊の前に引き出された、ヤーコフ・トリピャーツィン。
わずか二十三歳。かつて尼港で数千の命を塵のように扱った男の顔は、死の恐怖に青白く引き攣り、部下たちに見透かされることを怯える、哀れな若造のそれであった。
「ヤーコフ、私たちは正しい。世界が間違っているのよ!」
その耳元で、なおも狂信的な理想の「戯言」を囁き続ける参謀長、ニーナ・レペデワ。彼女の目は、集団浅慮の権化として完全に理性を失い、己の犯した罪から目を背けるように、引き裂かれた正義の美名に縋り付いていた。
――パァン! パァン!
無慈悲な銃声が響き、彼らの身体がシベリアの泥土へと崩れ落ちる。
彼らは国のために戦った英雄ではなく、身内の革命軍によって、全ての虐殺の責任を押し付けられ、切り捨てられた「生贄」に過ぎなかった。
その銃殺の列の中には、あの金貨で運命を占った副官、ラプタの姿もあった。
銃弾が彼の胸を貫いた瞬間、激しい衝撃によって軍服の胸ポケットが引き裂かれ、あの黄金の金貨が、彼の身体から解き放たれるようにして宙へ飛び散った。
処刑された彼らの死体は、埋葬されることすら許されなかった。無念の形相のまま放置された骸は、夏の強い日差しに晒され、カラスに啄まれるまま、荒野の泥土へと同化していった。
行き場を失ったヤーコフたちの凄まじい絶望、ニーナの狂気、そしてラプタの裏切りの怨念。それらの生々しい呪怨は、処刑の瞬間にラプタの懐からこぼれ落ち、アムール川の泥濘へと転がり落ちた、まさにあの金貨へと吸い寄せられていく。
清らかな水を汚すように、黄金の器の中で、奴らの怨嗟は九十年の時をかけて醸成され、膨れ上がり、いつしか禍々しい鬼の「門」へと変貌を遂げた。
それこそが、何も知らない山崎誠二郎がシベリアの川べりで拾い上げ、日本へと持ち帰ってしまった、あの忌まわしき金貨の正体だったのだ。
――――――――
「……革命にすべてを捧げ、手を汚しながら、最後は信じた未来そのものに否定され、裏切られた絶望。それが、あの金貨の中で九十年、怨嗟の鬼として育ち続けた…。」
銃郎の声が、将吉の脳裏の映像とともに消えていく。
将吉は、深く、重い息を吐き出した。
シベリア、そして尼港――将吉にとって、あまりにも血腥い宿命の土地。
赤軍が残虐の限りを尽くしたあの尼港で、日本領事館を、同胞を最後の瞬間まで守り抜こうと銃を執り、凄絶な戦死を遂げたのが、将吉の父善吉。
父の命を奪い、領事館を焼き払い、無辜の民を虐殺した狂人たちの成れの果て。
その首魁どもの怨嗟が、九十年の時を経て黄金の器の中で醸成され、東京と流れ込んできた。
父を殺した仇敵の呪怨が、巡り巡って今、己が守護する末裔・正博のすぐ隣にいる若者に牙を剥いたのだという戦慄すべき事実に、将吉の魂は烈火の如く震えた。将吉の九九式短小銃を握る手に凄まじい力がこもる。
目の前で暢気に笑っている山崎誠二郎という男もまた、父の仇たちの怨念の残り火に焼き殺されかけた、現世の犠牲者の一人だったのだ。
「山崎殿……子孫を守り抜いたこと本当に見事です。……そして、感謝します。我が父の命を、日本の誇りを無慈悲に奪った尼港の悪霊どもを、よくぞその太刀で叩き切ってくれた…」
将吉が張り詰めた声で、深く敬意を込めて一礼すると、銃郎はフッと不敵な笑みを漏らし、刀の柄からゆっくりと手を離した。
「会津の武士は、いかなる地獄にあっても退かぬ。不義理な鬼どもを調伏するのは我が本懐よ。……だが‥‥」
銃郎の眉間に少しだけしわが寄る。
「奴らが遺した『気配』はまだ完全に消え去ってはいない。此度は退けたが、怨念の残り火がいつまた牙を剥くか分からぬ。小林正博、および我が誠二郎……この隣り合う二人の若者の行く末、我らの手で断固として守り抜かねばならぬな、昭和の兵よ」
「……はい、油断はなりませんね。共に見守り、断ち切りましょう。」
二人の守護霊は、それぞれの誇りと、愛すべき「生者」を見守る眼差しを重ね合わせるように、静かに視線を交わした。
病室には、そんな凄絶な血戦など何も知らない誠二郎の、「いやあ、早く会津に帰って、美味ぇ酒造りてえなぁ!」と呑気な声だけが、どこまでも明るく響いていた。




