20100817 朱雀の末裔
二〇一〇年、八月のお盆明け。
病室の窓の外には、都会のコンクリートを焼き付ける猛烈な残暑が広がっていた。まとわりつく湿気と、遠くで陽炎のように揺れる東京タワーの先端。しかし、空調の効いた慈恵医科大学病院の一般病棟は、現世の喧騒から切り離されたかのような、静かで張り詰めた気だるさが漂う。
ICUでの数日間を潜り抜け、四人部屋の窓際のベッドへと移された小林正博は、まだ寝返りを打つだけで全身に鈍い痛みが走る状態ではあったが、自力で上体を少しだけ起こし、窓外の景色を眺められるまでに回復していた。命の危機は去ったのだという実感が、日に日に薄皮を剥ぐようにして身体に馴染んでいく。
その平穏を誰よりも喜び、安惑の表情を浮かべていたのは、母の和美だった。
正博のベッドの脇に置かれた丸椅子に腰掛け、息子の顔を慈しむように見つめていた和美は、小さく息を吐き出すと、荷物をまとめた手提げ袋を膝の上に置き直した。
「本当に良かったわ、正博。リハビリはこれからで大変でしょうけれど、先生のお言葉を聞いて、お母さんもようやく枕を高くして眠れそうだわ」
実家にいる時の、あのあまり干渉してこない、どこかのんびりとした母親の調子が完全に戻ってきたようだった。息子がトラックに跳ねられたと聞いた時の、あの世の終わりかのような取り乱し方は嘘のように消え失せ、今では安曇野の穏やかな風をそのまま連れてきたかのような顔をしている。
「お母さんね、お父さんやおばあちゃんのこともあるから、一旦信州に戻るね。でも、心配しないで。また折を見てすぐに来るから」
和美はそう言って、悪戯っぽく目を細めた。
「お姉ちゃんにも正博が一般病棟に移ったって連絡したらね、大喜びしちゃって。『正博の入院を機に、たまには私も東京見物に出かけたいわ。お母さん、次は私も連れてって!』なんて言っていたのよ」
「……お姉ちゃんが?」
正博は、まだ自由に動かない左腕をかばいながら、思わず苦笑いを漏らした。
三つ年上の姉、瑞穂。
彼女の顔が脳裏に浮かぶ。瑞穂はかつて東京の大学に進学し、華やかな都会の学生生活を謳歌した後、あっさりと長野へUターンして地元の企業に就職、そのまま地元の男性と結婚して家庭を築いていた。
しかし、東京での四年間で培った人脈や、都会への未練のようなものは今も健在のようで、地元の生活に退屈すると、折に触れては「友達に会いにいく」という名目で上京を繰り返していたのだ。
普通、実の弟が瀕死の重傷を負って入院したとなれば、お見舞いは厳粛で沈痛なものになるはずだ。それを「東京へ出かける格好のきっかけができた」とばかりに、物見遊山を兼ねてついてこようとするあたり、いかにも合理的というか、調子が良いというか、実にお姉ちゃんらしい。
(でも……まぁ、お姉ちゃんらしいや。それくらい暢気な方が、うちの家族にはちょうどいいのかもな)
正博は、少しだけ気持ちが軽くなるのを覚えた。自分の大怪我という、家族にとっては大災厄であったはずの出来事が、いつの間にか「家族が東京に集まる祭事のきっかけ」のように形を変え、日常ののんびりとしたリズムの中に回収されていく。
まだ身体は思うように動かず、完治までは数ヶ月を要すると言われているが、自分の預かり知らぬところで、確かに温かく平穏な時間が戻ってきたのだという確かな手応えがあった。
「それじゃあ、お母さんは行くね。桔川課長さんや由梨江さんにも、あ、あと馬場澪さんにも、くれぐれもよろしくお伝えしてね。本当に、良い人たちに恵まれて良かったわね」
「う、うん、わかった。気をつけて帰ってね、母さん」
和美は優しく微笑み、正博の頭を軽く撫でると、音を立てないように静かに病室を後にした。パタパタと小気味良い足音が廊下に消えていき、病室には再び、エアコンの微かな送風音と、規則正しい日常の静寂が戻ってきた。
正博が、去っていった母の余韻に浸りながら、ゆっくりとベッドに背中を預けようとした、その時だった。
「――よお、お隣さん。お母さん、帰っちゃった? なんだか仲の良さそうな親子で、羨ましいねぇ」
カーテンの隙間から、屈託のない笑い声を響かせて顔を覗かせたのは、隣のベッドの住人だった。唐突な、しかし少しも嫌味を感じさせない快活な声が、病室の静かな空気を一瞬で塗り替える。
「あ……はい。一安心したみたいで、長野に帰りました」
正博が少し驚きながら答えると、男は「そっかそっか」と嬉しそうに頷き、自分のベッドの背もたれをリモコンでウィーンと立ち上げた。
その男――山崎誠二郎は、正博より三つ年上。
ICUからこの部屋に移ってきた時からの隣人だ。
短髪に、ぎらつく太陽をこれでもかと吸い込んだ真っ黒な日焼け肌。入院着の袖口から覗く前腕は、寝たきり生活を強いられているはずの今もなお、太い血管が浮き出た筋肉質な形を維持している。右足は重々しいギプスでガチガチに固められ、ベッドから斜めに吊り下げられているという痛々しい状態なのだが、男の佇まいには悲壮感など微塵もなかった。
むしろ、衣服の隙間から、どこか遠い大陸の乾いた風と、砂埃の匂いが漂ってくるかのような、圧倒的な生命力に満ち溢れている。
「俺は山崎誠二郎。いやあ、挨拶が遅れちまって悪かったな。あんた、ICUから上がってきたんだろ? 漏れ聞こえる話じゃ、トラックに弾き飛ばされたって言うじゃない。それに比べりゃ、俺の怪我なんて笑い話みたいなもんよ」
誠二郎はベッドの上であぐらをかくようにして(左足だけで器用にバランスを取りながら)、ポリポリと頭を掻いた。その気さくで豪快なアニキ肌のキャラクターに、正博は初対面ながら不思議な親近感を覚える。
「山崎さんは、どうして入院されたんですか?」
「俺? 聞いて驚くなよ。俺はね、東京駅の階段でさ、文字通り『すっころげて』このザマよ。左足の複雑骨折。まったく情けねえべ。」
誠二郎は自嘲気味に笑いながら、東北の温かみのある訛りを隠そうともせず、己の身の上を語り出した。
彼は、いわゆる「就職氷河期世代」の直撃を受けた世代。
大学進学を機に福島から意気揚々と上京したものの、待っていたのは容赦のない就職難。泥水をすするような思いでなんとか潜り込んだ中小企業も、長引く平成不況の煽りをモロに受ける中、リーマンショックが決定打となり、ある日突然、何の前触れもなく倒産してしまったのだという。
「一瞬で路頭に迷ってさ。手元に残ったのは、それまでケチケチと貯めていた、使い道のない貯金だけ。普通ならハローワークに駆け込むんだろうけど、俺はそこで、何かがプチンと切れちゃってさ。『よし、世界の果てを見てこよう』って思っちゃったんだよね」
誠二郎の目が、少年のように輝く。
「バックパック一つを背負ってさ、ユーラシア大陸を横断する旅に出たんだよ。シベリア鉄道に何日も揺られて、窓の外に続く果てしない地平線を眺めてさ。バイカル湖の透明な水に感動したり、アムール川の大濁流を眺めながら野宿したり……。荒野を旅しているうちに、なんだか自分の悩みがちっぽけに思えてきてさ、ようやく腹が決まったわけ」
正博は、誠二郎の壮大な冒険談に、いつの間にか引き込まれていた。
トラックに跳ねられてベッドに縛り付けられている自分と、ユーラシアの大地を泥塗れになって歩き回っていたこの男。そのコントラストがあまりにも鮮やかだったからだ。
「それで、旅を終えて帰国してさ、観念して福島に戻る決心をしたんだ。」
誠二郎は窓の向こう側の遠い夏空を眺めながら。
「実家が会津でさ、何代も細々とやってる酒蔵でね。名水が湧く土地だから、親父が頑固に日本酒を造ってんだけどさ。冬場なんて冷たい水と米にまみれて、それこそ命を削るような仕事よ。若い頃はそれが嫌で東京に逃げたんだけどさ。世界の果てを回ってきたら、不思議と『あの蔵に戻って、親父の跡を継いで美味ぇ酒を造りてぇな』って本気で思えたんだ。さあ、新幹線に乗って会津へ帰るぞって、東京駅の階段を移動していた……まさにその矢先よ。本当に、自分でも何が起きたか分かんねえんだ」
誠二郎は、ガチガチの右足を軽く叩いた。
「階段の踊り場を歩いていたらさ、急に背中をドカンと、ものすごい力で押されたみたいな感覚がして。あ、と思った時には階段の下までノンストップでまっさかさまよ。ボキッと嫌な音がして、そのまま気絶……」
苦笑いしながら鼻をすする誠二郎は話を進める。
「あ、そうそう、その拍子にさ、シベリアの川べりで拾ってお守り代わりに首からぶら下げていた古い金貨がさ、ブチ切れてどこかへ行っちまったんだよね。まぁ、今となっては、あの金貨が俺の命の身代わりになってくれたのかなって、そう思ってんだけどさ」
誠二郎は「ハハハ」と笑い飛ばしたが、正博の胸の奥で、微かな静電気が走るような違和感が弾けた。
――――――
正博と誠二郎がベッド越しにたわいもない世間話に花を咲かせる、その裏側。
生者には決して見えない、肉体という器を離れた魂の交差点で、もう一つの対話が始まっていた。
正博の背後にいる将吉の鋭い眼光は、正博ではなく、隣のベッドに座る誠二郎の「背後」へと向けられていた。
誠二郎の背後から、一人の武士の霊がゆらゆらと立ち上がった。
将吉の全身の肌が緊張感に包まれる。
その男は、将吉がこれまで見てきた、昭和の軍人たちの実直で直線的な佇まいとも、あるいは戦国の世を泥塗れで生き抜いた景隆や次郎座衛門といった古武士たちの、大地に根差したような息遣いとも、全く異なる「覇気」を纏っていた。
若く、研ぎ澄まされた日本刀の切っ先のような、触れれば切れるほどの鋭利な眼光。身に纏うのは、慶応四年の戊辰戦争最終局面である会津戦争において、鶴ヶ城を死守せんと防衛戦を戦い抜いた、朱雀士中四番隊の戦装束。
「……我が名は山崎家先祖、山崎銃郎」
銃郎は、腰に差した大刀の柄に不敵に手をかけたまま、将吉に向かって低く、地を響かせるような声で名乗った。その佇まいは、まさに「義」のために玉砕を厭わなかった会津武士の意地と、誇りそのものの体現。
「そなたの末裔が、我が子孫の隣に座したか。昭和の兵よ。これもまた、因縁が引き寄せた、血の悪戯という奴かもしれんな」
「山崎殿……」
将吉は銃郎に真摯な目を向けた。
「先ほど、あなたのご子孫が語っていた『金貨』の話。あれはただの偶然や、不運などではない。私の勘が、あれはシベリアの地獄の匂いだと告げている…。」
「如何にも。そなたの勘は正しい」
銃郎の若々しい顔に、深い、底なしの影が落ちる。
「誠二郎が、何も知らずにアムール川畔で拾い上げたのは、ただの古銭などではない。あれは、尼港の地で無辜の民を虐殺し、最後は同じ革命の身内に切り捨てられ、処刑された赤軍の首魁たちの呪怨が凝固した『忌まわしき門』だ」
銃郎の語る言葉は、真夏の病室の空気を一瞬で凍りつかせるほどの冷気を孕んでいた。
「誠二郎は、『お守り』と称しこの日本へ、この因縁の地、江戸に鬼どもを呼び寄せてしまった。あの日、誠二郎が故郷会津へ帰ろうと東京駅の階段へ足を踏み入れたその時、駅の構内は、現世の者には見えぬ戦場と化していた」
銃郎の視線が、その光景を捉えるように、鋭く細められる。
「我が山崎一族の先祖会が総力を挙げ、その門から湧き出し続ける赤軍の鬼どもと、血戦を繰り広げた。だが、奴らの怨嗟、理想の末の狂気の呪怨は凄まじく、一匹の鬼が防衛線を突破した。そして、誠二郎の背中を呪詛に塗れた足で蹴り飛ばしたのだ。それが、あやつの言う『急に背中を押されてすっころげた』という転倒の真相よ」
「では、金貨が紛失したのは……」
「私が断ち切ったのだ」
銃郎は傲然と言い放ち、胸を張る。
「あやつが階段を転がり落ち、命を落とすかというその刹那、私は朱雀の太刀を振るい、誠二郎の魂と、あの金貨を結びつけていた『穢れの因果』を強引に叩き切った。紐が切れ、金貨は暗く深い排水溝の奥深くへと落ちて消えた。それにより、鬼どもの『門』は一時的に閉じ奴らは霧散した。誠二郎は、足を折るだけという、最小限の犠牲で命を繋ぎ止めることができたのだ。我ら先祖会の、勝利の代償よ」
「だが、将吉殿。話はそれだけでは終わらぬ」
銃郎の双眸が、怪しく、そして哀しげに燃え上がった。
「私はあの金貨を断ち切る瞬間、そこに宿っていた、あの凄絶な虐殺を引き起こした赤軍将校たちの『最期の思念』を、この太刀の刃で搦め捕った。……見るが良い。これが、かつて地獄を血で染めた、狂人たちの哀れなる末路だ」
次の瞬間、銃郎が放った思念が、将吉の脳裏に直接、濁流のような記憶の断片を投影した。
シベリアの荒野の、生々しい光景…。




