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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
2010年 会敵編
26/54

20100802 東急池上線

 診察室の壁に掲げられたシャウカステン(読影装置)に、レントゲン写真が白く浮かび上がる。

 数分前まで、手術着姿で慌ただしく行き来していた整形外科のベテラン医師、内川は、眼鏡を指で押し上げながら、信じられないものを見るような面持ちで溜息をつく。


「……小林さん…冗談ではないです…これは、奇跡としか言いようがありません」


 パイプ椅子に浅く腰掛けていた母・和美の肩がびくりと跳ねた。隣で見守る桔川も眉間を引き上げ静かに医師の言葉を待つ。


「一トントラックにまともに弾き飛ばされたんですよ。本来なら、内臓破裂か、路面への頭部殴打で即死、あるいは重い後遺症が残るのが通例です。しかし……」

 内川はモニターを指し示し。

「彼は、衝突の瞬間にわずかに身を捻っている。投げ出された際、まるで熟練の柔道家のように見事な『受け身』を取っているんです。左腕と腰に衝撃を逃がし、一番大切な頭部と胸部への直撃を、コンマ数秒の判断で回避している。おかげで骨折はしていますが、複雑骨折にも至っていない。内臓も、出血すらほとんど見られません」


「……それじゃあ、正博は……」

 和美の声が震える。内川は穏やかに頷いた。


「ええ。全治数ヶ月の入院とリハビリは必要ですが、骨さえくっつけば、元通りの生活に戻れます。正直に言いましょう。私のような古参から見ても、説明のつかない『幸運』に守られていたとしか思えません。お母様、安心してください。息子さんは大丈夫です。」


 和美は、膝の上で組んだ両手をさらに強く握りしめ、溢れ出る涙を堪えるように、何度も何度も小さく頷いた。


―――――――

 消毒液の匂いが鼻を突くICUの一角。心電図の規則的なビープ音だけが響く静寂の中に、正博はいた。

 麻酔の霧が晴れ、重い瞼をゆっくりと持ち上げると、視界の端に真っ白な天井と、そして、泣き腫らした母の顔が映った。


「…か…母、さん……」

 渇いた喉から、掠れた声が漏れる。


「正博! 正博……よかった、本当によかった……」

 和美は、正博の右手を両手で包み込むように握りしめた。

 実家では、掃除や部屋の片づけ以外の場面では、一歩引いたところで家族を支える、控えめで干渉してこない母。その母が、今は人目も憚らず、嗚咽を漏らしながらえんえんと泣き崩れている。


 正博の右手に、熱い涙が滴り落ちた。

 (ああ、母さんに、こんなに心配をかけてしまったんだ……)


 全身を走る鈍痛よりも、母の嗚咽が胸に刺さる。動かない体、点滴に繋がれた自分。もどかしさに正博が顔を歪めた時、背後から温かな声がかけられた。

「小林君。無理に動こうとしなくていい。お母さんは今、君が生きていてくれること、それだけで救われているんだ。君はただ、その手をしっかり握り返してあげればいい」


 そこには、昨夜から一睡もしていないはずの桔川が、穏やかな表情で立っていた。

 「大丈夫ですよ。小林君はちゃんとお母さんの気持ちを受け止めていますから」

 桔川は和美の肩にそっと手を置き、正博には目で「休め」と合図を送る。


 正博は、その采配に救われるような思いだった。母の深い愛を真正面から受け止める勇気と、それを支えてくれる上司の度量。重苦しい空気の中に、確かな絆の光が差し込んでいた。


――――――――


 二〇一〇年、八月二日。月曜日。

 事故から二日が経過し、世界は何事もなかったかのように動き始めていた。


 由梨江は、桔川から許可された遅い出勤時間に合わせて、重い足取りで赤坂のオフィスにやってきた。土日の疲れと心労で、その顔色は依然として優れない。

 エントランスを通り、受付脇の応接間をふと見ると、そこには意外な顔合わせがあった。


「……あ、おはようございます。桔川課長、それに……」

「山岡さん、おはよう。ちょうどよかった」


 桔川の隣には、正博の母・和美が所在なさげに座っていた。桔川が由梨江のもとへ歩み寄り、声を潜めて切り出す。


「実は、小林君のお母様が、彼の着替えや私物を整理して病院へ運びたいとおっしゃっていてね。千鳥町にある彼のアパートに行かなければならないんだが……」


 桔川は少し困ったように眉を下げた。

「お母様は東京の電車移動には不慣れだ。タクシーで行くのも考えたが、これから長引く滞在費を考えると、お母様も『無駄なお金は使いたくない』と固辞されていてね。さすがに私のポケットマネーで全てを賄うというのも、逆にお母様に余計な気を遣わせてしまう」


 由梨江は、和美の不安そうな横顔を見つめた。


「山岡さん。君は確か、大岡山と都立大学の間くらいに住んでいたね? 千鳥町なら同じ東急沿線で、君の土地勘もあるはずだ。……私はこれから、取締役会に出席しなければならない。どうしても外せない会議なんだ。江藤や山川、安江には、今日の君の業務をカバーするように指示してある」


 桔川は由梨江の目をまっすぐに見つめ、優しく微笑んだ。

「今日一日、君に『特別任務』をお願いしたい。お母様をエスコートして、小林君の家まで連れて行ってあげてくれないか。……彼を一番よく知る君にしか、頼めないことなんだ」


「…は…はい!。喜んで、お引き受けします」


 由梨江の答えに、迷いはなかった。

 正博のために、今自分にできること。それは、彼の最愛の母を支えることだ。


 かくして、由梨江と和美。

 世代も住む場所も異なる二人の女性の、千鳥町を目指す静かな道中が始まった。


―――――――――

 梅雨明け直後の暴力的なまでの太陽が、新橋のオフィス街を容赦なく照らしつける。

「お母様、こちらです。足元、気をつけてくださいね」


 オフィスを後にした由梨江は、慣れない東京の喧騒に身を縮める和美を、優しく庇うようにして歩いた。

 昼時を過ぎてもなお、新橋駅はごった返していた。自動改札を抜けて京浜東北線のホームへ降りると、冷房の効きを追い出すような熱気とともに、独特の「におい」が鼻を突いた。古い車両の金属が擦れる音、そしてどこか油臭い、都会の機械が吐き出す特有の芳香。


「……すごい人ですねえ。皆さん、こんなに暑いのに背広を着て」

 和美が圧倒されたように呟く。周りには、横浜方面への午後の営業に向かうのであろう、ぎらついた視線のサラリーマンたちが群れをなしていた。その中を縫うようにして、由梨江は和美をエスコートし、滑り込んできた青いラインの電車に乗り込んだ。

――――

 蒲田駅で京浜東北線を降り、連絡通路を抜けて東急線の改札をくぐった瞬間、空気の色が変わる。

 視界に飛び込んできたのは、三両編成の小ぶりな車両が並ぶ池上線。


「あら……由梨江さん、これ、山手線なんかと同じ電車なんですか?」


 和美が目を丸くして問いかける。東京の電車といえば、長い車列が地鳴りを立てて走るものだと思い込んでいた彼女にとって、その箱庭のような光景は意外だった。


「はい、お母様。池上線と、ここから出る多摩川線は、三両編成なんです。なんだか、ホッとしますよね」


 由梨江の言葉に、和美の緊張が少しだけ解けたようだった。


「池上線は、五反田や自由が丘方面とも繋がっていますが、都内でも有数の落ち着いた路線なんです。治安も良くて、こののんびりした雰囲気が気に入って、ここを選んで住む方も多いんですよ」


「由梨江さんは、お詳しいのですねえ」


「ええ。私もアパートを探すとき、あちこち歩いてみたんです。女性の一人暮らしですから、治安や交通の便はしっかり調べたくて。池上線沿いも、いくつか内覧したんですよ」


その言葉を聞いて、和美は感心し、そして少しだけ苦笑いを浮かべて言った。


「ちゃんとご自分で調べて、生活の場を選んでいらっしゃる。しっかりしていらっしゃるんですねえ。……正博なんて、東京転勤が決まったとき、『母ちゃん、一件だけ内覧して、もうここでいいやって決めてきた』なんて言って。本当にヘタレというか、大雑把というか……由梨江さんの爪の垢を煎じて飲ませたいくらいです」


「いえ、そんな……ありがとうございます」


 思いがけない比較に、由梨江は耳たぶを赤くして俯いた。正博の「ヘタレ」な一面。それを語る和美の声には、呆れながらも深い慈しみが滲んでいた。


 ガタゴトと揺られること数分、電車は千鳥町駅に滑り込んだ。

 ホームに降り立ち、改札を出た和美は、再び「ほう」と感嘆の息を吐く。


「まあ、可愛らしい。木造りの白い駅舎……。東京に、こんな場所があるなんて」


 環八通りの騒音こそ遠くに聞こえるが、駅周辺には住宅街の静謐さが漂っていた。少し歩けば久が原や御嶽山、雪谷といった、古き良き山の手の風情が残る街並みが続く。


「正博がどんなところに住んでいるのか、心配でなりませんでしたけれど……ここなら安心!。静かで、優しい街ですね」


 和美のその言葉に、由梨江も小さく頷く。彼女もまた、この街の持つ穏やかな空気感に、正博の内面と重なるものを感じていた。


―――

 駅から数分、正博の住むアパートに二人はたどり着く。

 和美が鍵を開けようとする間、由梨江は一歩引いたところで立ち止まった。

 独身男性の、それもお付き合いなどしていない職場の同僚の私室。彼のプライバシーを垣間見ることに、拭い難い躊躇いがあった。


「さあ、由梨江さんも入って。一人じゃどこに何があるか分からなくて」


 そんな由梨江の戸惑いなどお構いなしの和美に促され、由梨江は意を決して足を踏み入れた。

 締め切った部屋には、夏の熱気とともに、わずかに男の独り暮らし特有の匂いが漂う。しかし、二人が目にしたのは、予想を裏切る光景。


「……あら」

「綺麗ですね……」


 二人の声が重なる。

 散らかり放題だった実家の面影は、そこにはなかった。机の上は整頓され、書棚の資料は背表紙が揃えられている。キッチンも磨かれ、洗濯物も溜まっていない。


「あの子……家では『片付けなさい!』って私が毎日怒鳴っていたのに。いつの間に、こんなにキチンとするようになったのかしら」


 和美の目は、驚きとともに、息子が一人前の大人として東京で戦っていた証拠を見つけた喜びで潤んでいた。

 由梨江もまた、少し頼りなくて、仕事でもまだ粗削りな部分が目立つ正博が、自分自身の生活をここまで律していたことに、胸が熱くなるのを覚えた。その整然としたたたずまいは、彼の誠実さそのもののようだった。


 おかげで、入院に必要な着替えや日用品はすぐに見つかった。


―――――


 病院へ戻る道中、和美の話は止まらなかった。それは、正博という人間を形成した豊かな時間の断片…。

「正博の上には三つ上の姉がいましてね。地元で結婚して、もうお嫁に行っているんです。……主方のおばあちゃんが存命なんですけれど、最近あまり具合が良くなくて。それで主人が長野に残って、私が来ることになったんです…」


 和美は窓の外を流れる東京の景色を見つめながら、穏やかに続ける。

「小林の親戚の中でも、正博は本当におじさん、おばさんたちに可愛がられて育ちましてね。みんなで入れ替わり立ち替わり世話を焼いて……。だからかしら、あんなヘタレに育っちゃったのは。でもね、今回の一件で、桔川課長さんはじめ、皆さんの本当に真っ直ぐな気持ちを聴くことができて……。正博も、ちゃんと東京で皆さんに受け入れていただいているんだと、やっと安心できました」


 由梨江は、その話を吸い込むように聞いていた。

 和美の言葉から浮かび上がる、信州の大家族の情景。それは、由梨江自身の記憶とも鮮やかに重なる。

「……お母様、実は私の実家も秋田の、親戚がとても多い地域なんです。盆暮れ正月には、誰が誰だか分からないくらい人が集まって……。私も、たくさんの人たちの手の中で育ててもらいました」


「まあ、そうなの。……じゃあ、由梨江さんも、正博と同じね」

 和美が顔を綻ばせる。

 

 秋田と信州。

 場所は違えど、同じ「情」の濃い土地で、多くの人々の愛を受けて育った。

 由梨江は、隣に座る和美の横顔に、そして病室で眠る正博に、今まで感じたことのないほど強い親近感を抱いていた。


 都会の騒音の中、電車の振動に身を任せながら、二人の女性の心は、確かに一つの結び目を作ろうとしていた。それは、正博という青年が繋いだ、温かな「縁」の始まりだった。

近年の東京の夏は40度近い気温となり、まさに殺人的と言える酷暑が続いています。これが温暖化の影響なのかどうか、ここで専門的な議論をするつもりはありません。

ただ一つ言えるのは、『EnIshi~縁~』の作中である2010年の東京は、まだ「まし」だったということです。

当時は真夏に背広姿で外を歩くことができましたし、夜には一定の「涼」がどこかに残っていました。昼間のランニングも、暑熱順応できている人間なら十分に耐えられる環境だったのです。

2010年4月、転勤で東京にやってきた私自身のリアルな体験として、あの頃の空気感は強く印象に残っています。

あれから16年が経ちました。時代の移り変わりと共に、私たちの取り巻く気候もまた、確実に向きを変えているのだと実感するばかりです。

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