20100731 慈恵医科大学病院
正博の意識は、暗い奈落を通り抜け、思いがけない場所へと降り立っていた。
そこは、生まれ故郷・信州安曇野にある中学校の校庭だった。
空は茜色に染まり、遠く北アルプスの稜線が美しいシルエットを描いている。
七月の終わりの、少し湿り気を帯びた夕風が、校庭の砂を小さく巻き上げている。
部活動の喧騒が遠のいた後の、あの切ないほどの静寂。
(……あれ? 僕は、死んだのかな)
正博は、ひどく現実味のある情景の中で、呆然と立ち尽くしていた。痛みがまったくない。身体が羽のように軽い。これがいわゆる「お迎え」というものだろうか。
「いや、まだ早いぞ。正博」
不意に、後ろから野太く、しかし深く響く声がする。
振り返った正博は、驚きのあまり息を呑んだ。
そこに立っていたのは、見たこともない軍服を纏った男だった。
濃緑色の「海軍第三種兵装」――
迷彩服の先駆けのような、陸戦用の制服。腰には拳銃を携え、帽子を深く被っているが、その眼差しは驚くほど優しく、どこか自分と似た面影を感じさせた。
「……あなたは?」
「大丈夫だ。君は生きる。死ぬことはない」
男――将吉は、正博の隣に歩み寄り、その逞しい手で正博の肩を軽く叩いた。
「今は少しだけ、身体を休めておけ。君が守った命も、君を救おうとしている命も、みんな君の帰りを待っている。……だから…戻りなさい‥‥。」
その言葉を聞いた瞬間、安曇野の夕焼けが急激に眩しさを増し、正博は猛烈な眠気に襲われた。男の姿が白い光の中に溶けていき、校庭の景色がゆっくりと暗転していく。
(生きる……僕、生きるんだな……)
――――――――――
耳を刺すような高音の電子音が、静かな病室に鳴り響いていた。
二〇一〇年、七月三十一日、土曜日。
午前七時。窓の外からは、盛夏の蝉時雨が遠く聞こえてくる。
正博は重い瞼をゆっくりと押し上げた。目に飛び込んできたのは、ICU(集中治療室)の白い天井と、複雑に絡み合うモニターの配線だった。
全身を走る鈍い痛み。特に腰と右腕が、熱を持った鉄板のように重い。
「……ぁ……」
かすかな声を漏らすと、ベッドの傍らで丸まっていた人影が、弾かれたように顔を上げた。
それは、一晩中傍らを離れず、椅子に座ったまま眠りに落ちていた由梨江だった。
仕事で見せる隙のないスーツ姿はシワだらけになり、化粧は落ち、髪も乱れている。かつてないほど「無防備」な姿。由梨江は、正博の目が開いているのを認めると、一瞬信じられないといった風に硬直し、次の瞬間には顔を覆って泣き出した。
「よかった……っ、本当に、よかった……! 馬鹿、もう、本当に馬鹿なんだから……!」
それは、洗練された「山岡さん」の姿ではなく、一人の女としての、むき出しの安堵だった。意識を回復した正博に、必要な処置のために動き回り始めた周囲の看護師たちの目もはばからず、声を上げて泣き続ける由梨江。
彼女の姿に、正博は激痛に耐えながら、かすれた声で精一杯の言葉を紡いだ。
「……ごめん、ね……山岡、さん……」
そのひと言が、由梨江の涙をさらに溢れさせる。
由梨江は正博の左手を両手で包み込み、壊れ物を扱うように、祈るように握りしめた。
―――――――――――――
土曜日の昼下がりの新宿駅は、夏休みを謳歌する若者や家族連れで溢れかえり、熱気と騒音が限界まで膨れ上がっていた。
特急『あずさ』のホームに、桔川の姿があった。
普段は冷静沈着、部下からの信頼も厚い「できる上司」である彼は、この日、家族と約束していた週末の予定をすべてキャンセルし、私服にネクタイを締め直したような独特の緊張感を纏って立っていた。
やがて、9番線に特急「あずさ」が滑り込んでくる。
吐き出される乗客の中に、大きな荷物を抱え、今にも人波に呑まれそうな小柄な女性を見つけた。正博の母、和美だ。
「小林正博の母でございます……あの、正博は、正博は大丈夫なんでしょうか!」
桔川の顔を見るなり、和美の声は震えた。
慣れない巨大駅の迷宮、そして「息子が重体」という報せ。彼女の精神は、すでに限界まで磨り減っていた。
「お母様、お疲れ様でした。正博君の上司の桔川です。……まずは、深く息を吐いてください。意識は戻りました。命に別条はありません。私が責任を持って、病院までお連れします」
桔川はそう言うと、和美の重い荷物をさりげなく引き受けた。
「人混みが怖ければ、私の背中だけ見て歩いてください。タクシーを一番近い出口に待たせてありますから」
桔川の淀みのないエスコート。
彼は道中、決して和美を焦らせることなく、かといって不必要な期待も持たせないよう、事実を淡々と、しかし温かみのある言葉で伝え続けた。
ホームの屋根の合間から見える殺風景なビル群を眺めながら、和美は桔川の背中に、息子を預けている職場の「重み」と「慈愛」を感じ、少しずつ呼吸を整えていった。
―――――――――――――――
慈恵医科大学病院。
西日が差し込み始めた応接スペースには、冷房の音さえ重苦しく感じるような、奇妙な沈黙が流れていた。
昨夜から一睡もせずに正博の傍らにいた由梨江と、警察での事情聴取と江藤らへの連絡を終え、泥のように憔悴した姿で駆けつけた澪がいた。
そこへ、桔川に導かれた和美が現れる。
「……母です。正博が、大変なご迷惑を……」
和美が深々と頭を下げると、由梨江と澪は弾かれたように立ち上がった。
「山岡由梨江です。昨夜からご一緒させていただいて……本当に、お辛い時に力になれず、申し訳ありません」
由梨江の声は枯れていた。その赤く腫れた目は、彼女がどれほど正博のために涙を流したかを雄弁に語っている。
「馬場澪と申します。事故の際、正博さんに……私を守っていただいたばかりに……っ」
澪は声を詰まらせた。彼女の服には、まだ昨夜の路上でついたであろう薄い土汚れが残り、その憔悴ぶりは目に見えて痛々しい。
和美(母)、桔川(上司)、由梨江(同僚)、澪(縁あっての知り合い)。
正博がいなければ、一生交わることのなかったであろう四人が、一つの円を描くように椅子に座る。
和美は、息子を巡る二人の若い女性の献身的な姿に戸惑いながらも、母としての直感で、彼女たちが正博にとってどれほど重要な存在であるかを察する。
「……皆様、ありがとうございます。正博は、こんなに素晴らしい方々に囲まれて、東京で頑張っているんですね」
その言葉に、応接室の張り詰めていた空気が、ふっと緩ぐ。
桔川は時計を一瞥し、重厚な声で言った。
「お母様、今夜は病院の近くに宿を確保してあります。正博君のことは、我々が交代で見守ります。……彼は一人ではありません。ですから、お母様もしっかり休んでください」
桔川の言葉は、まるで指揮官が部下を労うような、しかし確かな優しさに満ちていた。
――――――――――――――――――
ICU前の静まり返った応接スペース。
意識を戻した正博の再検査や処置で、面会は遮断されている。
夕刻の西日が、疲れ切った四人の影を長く伸ばし始めていた。
重苦しい沈黙を破ったのは、桔川だった。彼は膝の上に置いていた拳を解き、静かに、しかし有無を言わせぬ響きを持って言葉を紡ぐ。
「山岡さん、そして馬場さん。二人とも、まずは一度帰りなさい」
その言葉に、由梨江と澪が同時に顔を上げた。反論しようとする二人の機先を制するように、桔川は続ける。
「昨夜から一睡もせずにここにいてくれた。その献身には、上司として、そして小林君の友人として心から感謝する。だが、君たちが倒れてしまっては元も子もない。一度家に帰って、温かい風呂に浸かり、泥のように眠るんだ。……これは命令、と言えば角が立つかな。……『お願い』だ」
桔川の柔らかな微笑みが、二人の張り詰めていた心の糸を優しく解く。
「ここからは私が対応する。山川と江藤もこちらに向かわせているし、明日は安江も来られるそうだ。小林君とお母様を支えるための布陣は整えてある。君たちは、明日また『元気な顔』を見せに来てくれればいい。それが、今の彼にとって一番の薬だ」
淀みない采配。
誰をどこに配置し、誰を休ませるべきか。その的確な判断と、関わる者すべてへの深い配慮。それは、組織を束ねる者としての「器」を如実に示していた。
その光景を、次元の狭間から見つめていた将吉は、深く、長く感嘆の息を吐く。
「……見事なものだ」
傍らに立てかけた九九式小銃に手を置きながら、独り言のように呟いた。
「正博は、良い上官に恵まれた。自ら矢面に立ち、部下の疲弊を察し、退路を確保する。あのような指揮官の下であれば、兵たちの士気は挫けぬ。平時の世であっても、人の上に立つ者の本質は変わらぬのだな」
守護霊たちにとって、最も重要な指標は「生」である。
確かに正博は重傷を負い、アスファルトの上で苦しんだ。
だが、将吉や凜、志乃が何よりも重んじているのは、その血脈の灯が消えなかったという一点だ。死んでしまえばすべてが終わるが、生きている限り、再起の道は残されている。
「生きている側の者たちが、これほどまでに連携し、互いを思いやって動いている。……それこそが、何よりの守護となるのだ」
「桔川のような男は、私の見てきた長い年月の中でもなかなかおりませぬ。己の功を誇らず、ただ淡々と、あるべき形に物事を整える。……由梨江も、あのような上司の下で働けて幸せ者よ」
志乃が、将吉の隣で小さく頷いた。
二振りの短刀はすでに鞘に収まっているが、その気配は依然として鋭い。
由梨江が桔川に促され、重い腰を上げて席を立つ。志乃は、まるで実の娘を見守るような眼差しで、その背中を追った。
「さて、私も由梨江に付き添って帰るとします。疲弊した魂は、闇を呼び寄せやすいゆえ」
一方、凜もまた、同じく帰り支度を始めた澪の傍らに歩み寄った。
「澪も、本当によく耐えたわ。……私は彼女と共に。あの優しき魂が、悪しき亡霊の予言に怯えぬように」
凜は志乃と視線を交わし、微笑みを浮かべた。
「志乃さん、引き続き私たちの愛すべき子孫を見守るために、お互い精を出し合いましょう。……敵は、まだ完全に退いたわけではないのですから」
「承知している。……新橋の夜は明けたが、シベリアの風はまだ止んでおりませぬ」
志乃と凜の姿が、それぞれ由梨江と澪の背後に溶けるように消えていく。
病院の廊下を歩く二人の女性は、自分たちの背後に、かつての戦乱を生き抜いた強き女性たちの魂が付き添っていることなど、知る由もない。
ただ、凍えきった心に、不思議と小さな灯火が宿ったような温かさを感じながら、彼女たちは夜の帳へと踏み出していった。




