表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
2010年 会敵編
24/54

20100730 事件現場

 衝撃は、音よりも先に「無重力」として正博を襲った。

 数トンの鉄塊に弾かれた身体は、夜の闇を裂いて一瞬だけ宙を舞う。

 アスファルトが、街の灯りが、スローモーションのように回転しながら遠ざかっていく。


(ああ、ここまでか……)


 諦念が脳裏をよぎったその瞬間、正博の身体を「目に見えない熱い奔流」が包み込んだ。将吉が、自らの霊的エネルギーのすべてを注ぎ込み、正博の着地を柔らげるべく念を送ったのだ。将吉の咆哮が、霊界の深淵で響き渡る。


「死なせはせん! 小林の血を、絶やさせてたまるかッ!」


 将吉の祈りにも似た干渉により、正博は致命的な頭部への直撃を免れた。だが、物理的な質量までは完全に相殺できない。正博の腰が、逃げ場のない硬度を持ったアスファルトに激しく叩きつけられた。


「ぐ、はっつ…!」


 鈍い衝撃音と共に、正博の視界が火花を散らす。

 肺から空気が絞り出され、背骨を突き抜けるような激痛が走った。


「先輩……! 正博さん!、嘘でしょ!?」


 耳元で、絶叫が聞こえる。由梨江だ。

 彼女はなりふり構わず駆け寄り、正博の肩を震える手でさすった。

 涙でぐちゃぐちゃになった彼女の顔と、ほのかに漂う石鹸のような香水の香りが、正博の薄れゆく意識を辛うじて繋ぎ止める。


 その背後で、澪は震える指先を必死に抑え込み、携帯電話を握りしめていた。

 由梨江がなりふり構わず正博に駆け寄り、その名を呼びながら泣きじゃくる中、澪の瞳にも絶望の涙が溢れていた。

 だが、彼女は奥歯を噛み締め、逃げ出したくなるような恐怖を「今すべきこと」へと無理やり転換させる。


「……119番。」


「あ、はい事故です…新橋駅前、銀座口の交差点です。トラックとの衝突事故……負傷者は、男性一名……!」


 状況を、場所を、震える声を絞り出して的確に伝える。

 だが、路面に横たわり動かない正博の姿を視界に捉えるたび、その冷静な言葉はだんだんと湿り気を帯び、最後には制御の利かない嗚咽へと変わっていった。


「お願いします……早く、一刻も早く、助けに来てください!」


 最後は叫ぶように受話器に縋り、澪はその場に膝をついた。

 由梨江の泣き叫ぶ声と、澪の必死な通報の叫び。二人の女の、形は違えど等しく深い「生」への祈り。


 その声を遠い残響のように聞きながら、将吉たちは「戦場」へと意識を引き戻す。

 将吉は、正博が致命傷を免れたことを魂の繋がりで直感したのだ。

 その安堵が、即座に氷のように冷徹な「殺意」へと転じる。


 自らの依代であった男をトラックの前に突き飛ばし、最後の一線を超えた赤軍将校は、もはや理性を失った獣と化していた。


「ヤポンスキー……貴様らだけは、地獄へ連れて行く!」


 将校が、怨嗟の塊となって将吉に突進してくる。

 将吉は慌てることなく、一歩引いて半身に構えた。手元にあるのは、魂の重みを湛えた九九式短小銃。

 ふっと短く息を吐き、昂ぶる感情を銃口の先へと収束させる。意識の深淵で、正博の「守りたい」という意志と、将吉の「断ち切る」という使命が、完璧に同期した。


カチリ、と霊的な撃鉄が落ちる。


――ターン!


 夜の静寂を切り裂く、一筋の清冽な火花。

 放たれた弾丸は、突進してくる赤軍将校の眉間を違わず射抜いた。


 将校の動きが止まる。

 眉間に刻まれた「光の孔」から、彼を構成していたドス黒い瘴気が漏れ出し、夜風にさらわれていく。


「ぐ……は……。だが、喜ぶのは今だけだ……」


 将校は、霧散する間際、氷のような薄笑いを浮かべた。その吊り上がった目は、将吉を越えて、さらに遠い「北の地平」を見据えているようだった。


「俺だけではないぞ。……あの方たちが、いずれやってくる。楽しみにしておくがいい、ヤポンスキーの霊どもよ。貴様らの血脈が、いつまでこの『平和』を享受できるかな……」


 意味深な言葉を呪詛のように残し、赤軍の亡霊は塵となって消えた。

 後に残されたのは、夏の夜の生ぬるい風と、トラックのアイドリング音、そして野次馬たちの断片的な叫び声だけだった。


――――――――――


 戦いは終わった。

 だが、将吉の胸には、将校が最期に遺した言葉が、抜き去ることのできないとげのように突き刺さっていた。


「……あの方たちだと?」

 

 志乃と凜が、将吉の傍らに駆け寄る。二人の表情もまた、勝利の喜びよりも先に、言葉にできない不安に翳っていた。

 アムールの凍土から始まった宿命は、まだ終わってはいない。むしろ、さらに巨大な悪意の「胎動」が、現代の日本の足元で始まろうとしているのではないか。


 将吉は、アスファルトの上で意識を失っている正博の姿を見下ろした。

 血を流し、痛みに耐えながらも、二人の女性を守り抜いた男。


「しっかりしろ、正博。……本当の戦いは、これからかもしれないぞ」


 遠くから、救急車のサイレンが近づいてくる。


――――――――――

 

 新橋の喧騒を切り裂くサイレンの音が近づく中、由梨江と澪は、足がすくむような恐怖を必死に抑え込み、それぞれの「役割」を瞬時に定めた。

 それは、一九二〇年のあの日、江亨ジャンハンの船上で軍人たちが示した、極限状態での規律にも似ていた。


「山岡さん、あなたは正博さんと救急車に乗って! 病院側の対応は、普段をよく知っているあなたの方が絶対に確実だから」


 澪が震える声で、しかし毅然と言い放つ。

 由梨江は一瞬目を見開いたが、即座に頷いた。

「……わかった。後のことはお願いできますか?」


「ええ。江藤さんと山川さんには、今から私が連絡する。それと、警察の事情聴取……現場の目撃者として、私がきっちり説明しておく。落ち着いたら、すぐに私もそっちへ行くから」


 救急隊員が正博をストレッチャーに乗せ、車内へと運び込む。

 血の気の引いた正博の顔を視界に入れながら、由梨江は彼の冷たい手を握り、救急車へと飛び乗った。


 後に残された澪は、遠ざかるサイレンを見送りながら、現場検証を開始する警察官に向けて深く頭を下げた。手元の携帯電話で江藤たちを呼び出し、淡々と、しかし必死に現状を伝える。


 二人の女性。

 一人は最前線の「生」を繋ぐために、もう一人は混乱した「現実」を整理するために。彼女たちの揺るぎない覚悟が、正博という一人の命を、この世に繋ぎ止めるための最初の礎となった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ