20100730 事件現場
衝撃は、音よりも先に「無重力」として正博を襲った。
数トンの鉄塊に弾かれた身体は、夜の闇を裂いて一瞬だけ宙を舞う。
アスファルトが、街の灯りが、スローモーションのように回転しながら遠ざかっていく。
(ああ、ここまでか……)
諦念が脳裏をよぎったその瞬間、正博の身体を「目に見えない熱い奔流」が包み込んだ。将吉が、自らの霊的エネルギーのすべてを注ぎ込み、正博の着地を柔らげるべく念を送ったのだ。将吉の咆哮が、霊界の深淵で響き渡る。
「死なせはせん! 小林の血を、絶やさせてたまるかッ!」
将吉の祈りにも似た干渉により、正博は致命的な頭部への直撃を免れた。だが、物理的な質量までは完全に相殺できない。正博の腰が、逃げ場のない硬度を持ったアスファルトに激しく叩きつけられた。
「ぐ、はっつ…!」
鈍い衝撃音と共に、正博の視界が火花を散らす。
肺から空気が絞り出され、背骨を突き抜けるような激痛が走った。
「先輩……! 正博さん!、嘘でしょ!?」
耳元で、絶叫が聞こえる。由梨江だ。
彼女はなりふり構わず駆け寄り、正博の肩を震える手でさすった。
涙でぐちゃぐちゃになった彼女の顔と、ほのかに漂う石鹸のような香水の香りが、正博の薄れゆく意識を辛うじて繋ぎ止める。
その背後で、澪は震える指先を必死に抑え込み、携帯電話を握りしめていた。
由梨江がなりふり構わず正博に駆け寄り、その名を呼びながら泣きじゃくる中、澪の瞳にも絶望の涙が溢れていた。
だが、彼女は奥歯を噛み締め、逃げ出したくなるような恐怖を「今すべきこと」へと無理やり転換させる。
「……119番。」
「あ、はい事故です…新橋駅前、銀座口の交差点です。トラックとの衝突事故……負傷者は、男性一名……!」
状況を、場所を、震える声を絞り出して的確に伝える。
だが、路面に横たわり動かない正博の姿を視界に捉えるたび、その冷静な言葉はだんだんと湿り気を帯び、最後には制御の利かない嗚咽へと変わっていった。
「お願いします……早く、一刻も早く、助けに来てください!」
最後は叫ぶように受話器に縋り、澪はその場に膝をついた。
由梨江の泣き叫ぶ声と、澪の必死な通報の叫び。二人の女の、形は違えど等しく深い「生」への祈り。
その声を遠い残響のように聞きながら、将吉たちは「戦場」へと意識を引き戻す。
将吉は、正博が致命傷を免れたことを魂の繋がりで直感したのだ。
その安堵が、即座に氷のように冷徹な「殺意」へと転じる。
自らの依代であった男をトラックの前に突き飛ばし、最後の一線を超えた赤軍将校は、もはや理性を失った獣と化していた。
「ヤポンスキー……貴様らだけは、地獄へ連れて行く!」
将校が、怨嗟の塊となって将吉に突進してくる。
将吉は慌てることなく、一歩引いて半身に構えた。手元にあるのは、魂の重みを湛えた九九式短小銃。
ふっと短く息を吐き、昂ぶる感情を銃口の先へと収束させる。意識の深淵で、正博の「守りたい」という意志と、将吉の「断ち切る」という使命が、完璧に同期した。
カチリ、と霊的な撃鉄が落ちる。
――ターン!
夜の静寂を切り裂く、一筋の清冽な火花。
放たれた弾丸は、突進してくる赤軍将校の眉間を違わず射抜いた。
将校の動きが止まる。
眉間に刻まれた「光の孔」から、彼を構成していたドス黒い瘴気が漏れ出し、夜風にさらわれていく。
「ぐ……は……。だが、喜ぶのは今だけだ……」
将校は、霧散する間際、氷のような薄笑いを浮かべた。その吊り上がった目は、将吉を越えて、さらに遠い「北の地平」を見据えているようだった。
「俺だけではないぞ。……あの方たちが、いずれやってくる。楽しみにしておくがいい、ヤポンスキーの霊どもよ。貴様らの血脈が、いつまでこの『平和』を享受できるかな……」
意味深な言葉を呪詛のように残し、赤軍の亡霊は塵となって消えた。
後に残されたのは、夏の夜の生ぬるい風と、トラックのアイドリング音、そして野次馬たちの断片的な叫び声だけだった。
――――――――――
戦いは終わった。
だが、将吉の胸には、将校が最期に遺した言葉が、抜き去ることのできない刺のように突き刺さっていた。
「……あの方たちだと?」
志乃と凜が、将吉の傍らに駆け寄る。二人の表情もまた、勝利の喜びよりも先に、言葉にできない不安に翳っていた。
アムールの凍土から始まった宿命は、まだ終わってはいない。むしろ、さらに巨大な悪意の「胎動」が、現代の日本の足元で始まろうとしているのではないか。
将吉は、アスファルトの上で意識を失っている正博の姿を見下ろした。
血を流し、痛みに耐えながらも、二人の女性を守り抜いた男。
「しっかりしろ、正博。……本当の戦いは、これからかもしれないぞ」
遠くから、救急車のサイレンが近づいてくる。
――――――――――
新橋の喧騒を切り裂くサイレンの音が近づく中、由梨江と澪は、足がすくむような恐怖を必死に抑え込み、それぞれの「役割」を瞬時に定めた。
それは、一九二〇年のあの日、江亨の船上で軍人たちが示した、極限状態での規律にも似ていた。
「山岡さん、あなたは正博さんと救急車に乗って! 病院側の対応は、普段をよく知っているあなたの方が絶対に確実だから」
澪が震える声で、しかし毅然と言い放つ。
由梨江は一瞬目を見開いたが、即座に頷いた。
「……わかった。後のことはお願いできますか?」
「ええ。江藤さんと山川さんには、今から私が連絡する。それと、警察の事情聴取……現場の目撃者として、私がきっちり説明しておく。落ち着いたら、すぐに私もそっちへ行くから」
救急隊員が正博をストレッチャーに乗せ、車内へと運び込む。
血の気の引いた正博の顔を視界に入れながら、由梨江は彼の冷たい手を握り、救急車へと飛び乗った。
後に残された澪は、遠ざかるサイレンを見送りながら、現場検証を開始する警察官に向けて深く頭を下げた。手元の携帯電話で江藤たちを呼び出し、淡々と、しかし必死に現状を伝える。
二人の女性。
一人は最前線の「生」を繋ぐために、もう一人は混乱した「現実」を整理するために。彼女たちの揺るぎない覚悟が、正博という一人の命を、この世に繋ぎ止めるための最初の礎となった。




