20100730 新橋交差点の会敵
二軒目のバーを出た時、コリドー街の空気は湿った熱気とアルコールの匂いに完全に支配されていた。時刻は午後十一時十五分。終電という名の現実が、享楽の街に音もなく忍び寄り始めている。
「じゃあ、私たちは有楽町線の方から帰るわね。正博さん、今日はありがとう。意外と……楽しかったわ」
石川美咲が、少しだけ赤くなった顔で悪戯っぽく微笑んだ。
江藤と山川は「また連絡するから!」と鼻息荒く宣言し、彼女をエスコートするように銀座の闇へと消えていく。
中根紀子は、迎えに来た黒塗りのタクシーのシートに滑り込む際、品のある会釈だけを残して港区のタワマンへと去っていった。
後に残されたのは、小林正博と馬場澪の二人だけだ。
「澪さんは、大井町でしたっけ。僕も同じ方向だから、新橋駅まで歩きませんか?」
正博の提案に、澪は「いいですね、少し風に当たりたいし」と軽やかに応じた。
駅へと続く道を、二人は適度な距離を保ちながら歩く。
たわいもない会話。仕事の愚痴や、さっきの合コンでの江藤の空回りっぷり。そんな何気ない言葉のやり取りの中に、妙にリズムが合う感覚があった。
「小林さんって、真面目そうに見えて、時々すごく鋭いこと言いますよね」
「そうですか? 多分、変なことばかり考えてるからですよ」
笑い合う二人の背後には、彼らと同じように寄り添って歩く将吉と凜の姿があった。だが、霊体である二人の顔に、先ほどまでの穏やかさはない。
将吉と凛の視線は、前方の新橋駅前交差点、そこから漂い始める不穏な「瘴気」に釘付けになっていた。
――――――――――
新橋駅前、汐留側の銀座口前の交差点。
本来なら家路を急ぐ人々で流れるはずの場所が、奇妙な人だかりで滞っていた。
「何だろう、事故かな?」
澪が首を傾げる。
人垣の向こう側には、工事現場から引き抜いたのであろう黄色と黒のバーを、狂ったように振り回す一人の男がいた。
ヨレヨレのスーツ、ひしゃげたネクタイ。かつてはどこかの企業の重責を担っていたであろう五十代半ばの男だ。リーマンショックから二年。冷え切った経済の底に沈み、すべてを失った者の「絶望」が、その男の形を借りて叫んでいた。
「ふざけるな! 俺が何をした! 会社を、社員を守るためにどれだけ駆けずり回ったと思っている! 国も、銀行も、誰も助けちゃくれない……全部、死んじまえ!」
男が叫ぶたびに、振り回されるポールが風を切る鋭い音を立てる。野次馬たちは、半ば嘲笑するようにその光景を眺めていた。
「警察、まだ来ないのかよ」
「酔っ払いの末路だな」
……呑気な声がそこかしこで上がる。
だが、正博と澪には見えていない真実を、背後の守護霊たちは「視て」いた。
「……来るぞ、凜殿」
将吉が低く、地を這うような声で言った。
ポールの男の背後。そこには、男の肩に黒い爪を立て、その耳元で絶望を囁き続ける異形の影があった。
色褪せた軍服。帽子には、かつてアムールの流氷を血で染めた、あの忌まわしい赤軍の階級章が光っている。だが、その顔はもはや人間ではない。青白く腫れ上がり、吊り上がった目は憎悪に燃える炎を宿した、正真正銘の「鬼」の形相だった。
鬼は男の心の闇――事業の失敗、倒産、裏切りという深い傷口に付け込み、その魂を燃料にして現世への復讐を果たそうとしていたのだ。
将校の周囲には、同様に異形と化した小鬼たちが、獲物を狙う獣のように身を構えて湧き出ている。鬼たちは、日本の中に飽和した「負の感情」を苗床にして、かつての戦場での狂気を再現しようとしていた。
「あの男を依代にするつもりですね……。
かわいそうに。あの男の人。先祖会との縁が浅いお人なのでしょう。ただ、鬼たちをここで暴れさせれば、現世の子供達の被害がでる…。」
背広姿の男に慈愛の念を抱きつつも、凜は鋭い視線で鬼たちを射抜いていた。
その手には、白銀の光を放つ霊的なメスが握られている。看護師としての慈愛はそのままに、彼女の全身からは、一族を守り抜く戦士の気迫が溢れ出している。
異変に気づいたのは、将吉たちだけではない。
野次馬として呑気に眺めていた群衆。その背後、あるいは傍らから、ポツポツと「光」が立ち上がり始める。
それは、街ゆくサラリーマンやOL、老若男女の背後に控える守護霊たちだった。
ある者は戦後を生き抜いた祖父の姿で。ある者は一族を支え抜いた肝っ玉母さんの姿で。彼らは主人の呑気な様子とは対照的に、一様に厳しい表情で、自らの「武器」を手に取った。
老練な兵士の霊は、白金のサーベルを抜き払い。
職人の霊は、巨大な玄能を肩に担ぎ。
ある母親の霊は、守護の結界を張るための数珠を構える。
夏の夜、新橋の駅前交差点。
現代の喧騒と、九十年前の怨嗟、そして千年続く血脈の守護。
それらが一つに重なり、目に見えない「聖域」と「魔域」が激しく火花を散らし始めた。
「正博、そこから動くな。……ここは、俺たちの戦場だ」
将吉は、子孫には聞こえない声を残し、かつて尼港で鉄の壁となって子供たちを守ったあの張福海のように、力強く一歩を踏み出した。
赤軍将校の鬼が、耳を裂くような咆哮を上げる。
それに応えるように、将吉たちの「守護霊軍団」が、静かに、しかし圧倒的な圧力を伴って間合いを詰めていく。
「はあ~早く帰りたいよお~」
現代の子孫たちがのんびり会話を交わすその頭上で、時空を超えた血脈の会戦が、今まさに幕を開けようとしていた。
将吉は、使い慣れた九九式短小銃を肩に引き寄せ、照準を固定する。その銃身には、彼の魂から溢れ出る霊的な弾丸が装填されていた。
「……まずは貴様らからだ」
ボルトを引く乾いた音が精神の静寂に響く。
ガシャリ。
ボルトハンドルを叩き込み、一発目の霊弾を薬室へ送り込む。指先が引き金を絞り込むと同時に、夜の静寂を切り裂く重厚な破裂音が響いた。
――パァン!
吸い込まれるように放たれた弾丸が、一体目の小鬼の眉間を正確に粉砕する。即座に、将吉の右手が流れるような円運動を描いた。
――ジャッ、カコン!
ボルトハンドルを跳ね上げ、後方へ引き抜く。薬室から熱を帯びた霊的な空薬莢が弾け飛び、金属質の高い音が響く。間髪入れず、ハンドルを前方へ突き出し、二発目を装填。
――パァン!
返り血のごとき黒い霧を撒き散らして二体目が崩れ落ちる。将吉の視線は微動だにせず、銃口の跳ね上がり(反動)を、かつて戦場で培った鋼の筋力で押さえ込んでいた。
――ジャッ、カコン!
再びボルトを引く乾いた音が交差点に響く。指先の感触、バネの反発、装填される弾丸の重み。そのすべてが将吉の神経と同期していた。三度目のハンドル操作。掌に伝わる確かな機械的振動とともに、最後の一体を仕留める。
――パァン!
ボルトアクション特有の、この「一発ごとに魂を込める」儀式のような三連射。
わずか数秒の間に、赤軍将校を守っていた肉の壁は、正確無比な銃身の旋律によって跡形もなく消し去られた。断末魔を上げる暇もなく、鬼たちは黒い霧となって霧散する。
銃声を合図に、群衆の背後に控えていた守護霊たちが一斉に蜂起した。かつての戦場を知る者、一族の誇りを守る者たちが武器を手に鬼たちへ襲いかかる。
乱戦となった今、不用意な射撃は味方を射抜く。将吉は即座に銃剣を小銃の先端へ固定した。
「景隆様、次郎左衛門様……お借りします!」
将吉は、かつて先祖たちから伝授された槍術の理を銃身に乗せた。小銃を単なる火器ではなく、長槍として扱うその動きは、無駄のない鋭い突きとなって鬼たちの急所を穿つ。
傍らでは、凜が舞うように動いていた。その指先から放たれるのは、白銀に輝く手術用のメス。投げナイフのごとく空を裂くそれは、正確に鬼たちの頸動脈を断ち切っていく。
‥‥
そこに志乃が、二振りの短刀を両手に、風のような速さで戦場を駆け抜けてきた。
「将吉殿。助太刀いたす。」
志乃の流麗な二刀流が、襲い来る鬼を紙細工のように切り裂く。将吉は背中を預ける安心感に「かたじけない!」と短く応じ、さらに奥へと踏み込んだ。
一方、赤軍将校の陣営は、かつて尼港を蹂躙した際と同様、統制を欠いていた。狂気と略奪の記憶で繋がっただけの鬼たちは、個々の守護霊たちの気迫に押され、烏合の衆と化している。中核にいる将校は、いら立ちの表情を浮かべながら指揮を執ろうとするが、その声は混沌の中に消えていく。
霊的な激闘が繰り広げられている真下で、正博と澪は、依然として工事現場のポールを振り回す男を遠巻きに眺めていた。
「すごい人だかりだね……」
澪が少し不安そうに正博の袖を引く。
「大丈夫、もうすぐ警察が来るはずだよ。それまでここで……」
その時、人混みの向こうから聞き慣れた、しかし今は少し聞きたくなかった声が響いた。
「あ、小林先輩! お疲れ様です」
正博が驚いて振り返ると、そこには息を切らした由梨江が立っていた。彼女は正博たちが合コンに向かった後も一人残業をこなし、ようやく帰路に就いたところだったのだ。
「山岡さん……お疲れ様。まだこんな時間まで?」
「はい。データの整理が終わらなくて。……あ、そちらの方は?」
由梨江の視線が、正博の隣に立つ澪に固定される。その瞳の奥には、残業明けの疲労を瞬時に吹き飛ばすような、鋭い対抗心の火が灯っていた。
「初めまして。馬場澪です。今日は正博さんに、とってもお世話になりました。同僚の方ですか?」
澪が柔らかく、しかしどこか隙のない笑みで問いかける。
「ええ、同じ部署の山岡由梨江です。正博さんは、いつも私が支えてあげないと……いえ、私がお世話になってるんです」
未婚の若者男女たちの、ささやかでいて深刻な「権力闘争」。正博は二人の間で流れる火花に背筋を凍らせたが、本当の脅威はその背後から迫っていた。
守護霊たちの猛攻により、追い詰められた赤軍将校は、ついに最期の暴挙に出た。
彼は男の脳髄にどす黒い念を流し込み、無理やり交差点の中央へと走らせたのだ。
「死ね! 全員、道連れだ!」
背広の男が絶叫と共に、青信号の車道へと飛び出す。
そこへ、交差点に侵入してきたのは一台の大型トラックだった。
「っわわ! 馬鹿野郎!」
運転手は急激な飛び出しに叫びながら、必死にハンドルを左へ切る。
キィィィィィィィィッ!!
アスファルトを削る不快な金属音。
制御を失った数トンの鉄塊が、物理的な重力を伴って、歩道にいた群衆――正博、由梨江、そして澪のいる場所へと、逃げ場のない速度で突っ込んできた。
「しまった、間に合わない!」
将吉が、志乃が、凜が、必死に霊的な念動力を送る。だが、実体を持つ物理現象のエネルギーは、霊魂の干渉を超えていた。
トラックのヘッドライトが、三人の顔を真っ白に焼き付ける。
「危ない!!」
正博の叫びが夜空を裂く。
彼は反射的に、隣にいた由梨江と澪を、その両腕で力強く突き飛ばし―――
――ドンッ、という鈍い衝撃音。




