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En-Ishi~縁~  作者: 代々木のぶ
1920年 シベリア編
22/54

19200605 千里共嬋娟

 一九二〇年、五月。

 アムール川を半年間にわたって閉ざし続けた分厚い氷塊が、春の陽光に焼かれ、断末魔のような悲鳴を上げながら砕け始めた。黒竜江ヘイロンジャンの名が示す通り、どす黒く深い川面を流れる巨大な氷の礫は、尼港ニコラエフスクで理不尽に命を散らした者たちの魂が、堰を切ってオホーツクの海へ流れ出そうとしているかのようだった。


 赤軍の執拗な監視をかいくぐり、凍てつく波間に停泊する砲艦『江亨ジャンハン』。その鋼鉄の船倉には、奇跡的に救い出された日本人と中国人の婦女子たちが、息を潜めて身を寄せていた。

 外気は依然として氷点下になる日もある。石炭の煙と、人々の怯えが混じり合う閉塞した空間。絶望に沈みそうになる避難民たちの心を、一本の細い糸のように繋ぎ止めていたのは、十一歳の少女、リンの存在であった。


 馬先生から受け継いだ怜悧な知性と、日本留学経験のある父から授かった流暢な日本語。彼女は言葉の通じない中国兵と日本人避難民の間に立ち、時には通訳として、時には小さな看護師として、甲斐甲斐しく立ち回った。


「平太君、明子ちゃん。もうすぐ、日本軍が助けに来るよ。張さんが言っていたわ。赤軍の連中が、外で慌てふためいているって」


 凜の毅然とした振る舞いは、司令官・陳世英チン・セイエイ少将の目にも焼き付いていた。

「……あの娘の瞳を見てみろ。地獄の底を覗いたはずなのに、その光は一層強く、澄んでいる。あれこそが、我々が血を流してでも守り抜かねばならぬ『未来』そのものだな」

 陳が静かに呟くと、傍らに立つ副官の趙、そして若き水兵の劉も、深く、自らの魂に刻み込むように頷いた。軍人たちは、一人の少女の姿に、混乱の極致にある自らの任務の正義を再確認していたのである。


 だが、尼港の街は真の地獄へと突き進んでいた。

 冬が明け、体制を整えた日本軍の正規師団が、雪解けの大地を蹴って各所で猛烈な反撃を開始していた。尼港の上空には連日、日本軍の複葉機が飛来し、投降を促すビラが、降り止まぬ雪のように街を白く染めた。

 三月の事件では圧倒的な戦力差で日本軍を蹂躙した赤軍だったが、復讐心に燃える日本陸軍の軍勢2万の接近を前に、その組織は内側から腐敗し始める。

 馬賊上がりの混成部隊からは脱走者が相次ぎ、指揮官たちの狂気はついに臨界点を超えた。


 そして、五月二十四日。

 撤退を余儀なくされた赤軍は、地下牢や焼け跡に囚われていた日本軍や白軍の将兵、そして無辜の市民たちを、最後の一人に至るまで虐殺し始めた。

 第二の惨劇。

 アムールの水面は、春の息吹を祝うはずの季節に、再びどす黒い鮮血で塗り潰されたのだ。


 その阿鼻叫喚の煙が天を突く中、陳世英は『江亨』の錨を上げた。

 国際法を楯に取り、赤軍の脅迫を武人の威厳と知略で跳ね除け、彼は預かった「命」という名の重荷を背負い、霧深い北の海へと舵を切った。


―――――――――――

 六月、デカストリ湾。

 海を覆う深い霧の向こうから、軍艦特有の重厚なマストが、亡霊のように、しかし確かな力強さを持って姿を現した。

 『江亨』よりも一回り大きく、重厚な灰色の船体。日本海軍の巡洋艦『千歳ちとせ』である。


 日中両軍の間で交わされた沈黙の合意に基づき、ついに日本人避難民の引き渡しが行われることとなった。


 『江亨』の甲板には、数ヶ月の辛苦を共にした日中の人々が、それぞれの思いを胸に並んでいた。

 日本の将校がタラップを上がり、陳少将と正対する。両者は無言のまま、互いの人道的な献身を讃えるように、深く、鋭い敬礼を交わした。


「さあ、行くんだ。お前さんたちの国の誇り高い軍人たちが、迎えに来てくれたぞ……」

 老練な下士官、張福海ジャン・フハイが、平太と明子の背中を、その大きな、しかし温かな掌で優しく押した。


「……凜ちゃん、さよならなの?」

 七歳の明子が、凜の裾を掴んで泣きじゃくる。九歳の平太もまた、唇を真っ白になるまで噛み締め、溢れそうな涙を必死に堪えていた。

 家族を失い、すべてを焼かれた二人にとって、凜や、この「鉄の城」とそこに集う人々は、世界で唯一の居場所だった。この別れは、幼い彼らにとって世界の終焉にも等しい断絶に感じられた。


 凜は膝をつき、二人の小さな手を、自らの体温を移すかのように強く握りしめ。

「大丈夫よ。平太君、明子ちゃん。お父さんとお母さんの分まで、強く、強く生きるの。……私たちは、どこにいても空で繋がっているんだから」


 そこへ、一人の日本の下士官が近づいてくる。

「さあ、行こう。もう大丈夫だ。よく頑張ったな……」

 その下士官は、平太たちの前に膝をつき、震える手を差し伸べた。彼の目元は、隠しきれぬほど赤く、潤んでいた。故郷に残してきた我が子の姿が、目の前のボロボロの子供たちに重なったのだろう。尼港の地獄を耳にしていた彼にとって、二人の生存は、神が与えた奇跡そのものに見えたのだ。


 凜は、その下士官に二人を託すように、優しく背中を押し。

「……ねえ、平太君、明子ちゃん。私の国にはね、『千里共嬋娟せんりきょうせんけん』という言葉があるの。たとえ千里の道を隔てて遠く離れても、私たちは同じ空に浮かぶ、この美しい月を分かち合っている……という意味よ」


 凜は、まだ夜の気配を孕んだ北の空を見上げ、震える声で、しかし言い聞かせるように言葉を継いだ。


「だから、寂しくなったら月を見て。お父さんとお母さんの分まで、強く、強く生きるのよ……。私たちは離ればなれになっても、同じ月を見ている。空はどこまでも、私たちを繋いでいるんだから」


 凛との誓いは、古の詩人の祈りとなって、平太と明子の幼い魂に消えない灯火ともしびを灯した。


 やがて、汽笛の合図が響き渡る。

 『江亨』と『千歳』。

 異なる旗を掲げた二隻の軍艦が、別々の航路へとゆっくりと離れていく。

 甲板には両軍の将兵が整列し、互いの姿が水平線に消えるまで、精一杯の敬礼を送り続けていた。

 鉄のような規律。その奥底にある、人種や国家を超えた慈愛。平太はその光景を、瞬きも忘れて目に焼き付けた。


(僕も、あんな大人になりたい。自分の命を懸けて、誰かを守れる人に……)

 その誓いは少年の魂に深く刻まれ、戦後、灰燼に帰した日本を立ち上がらせる不屈の精神へと昇華していくことになる。


――――――――

 尼港を脱出した後、凜の人生もまた、激動する中国大陸のうねりに飲み込まれていく。

 身寄りのない彼女を家族として迎え入れたのは、あの張福海であった。

 張の妻もまた老齢であり、実の子供たちはすでに成人していたが、彼らは凜を「尼港の奇跡」として、本当の娘以上に慈しんだ。


 しかし、凜の志を支えたのは張一人ではなかった。

 彼女が亡き父の跡を継ぎ、看護師となるために医科学校への進学を希望した際、その莫大な学費を匿名で工面し続けたのは、かつての司令官・陳世英と、その副官・趙景瑞であった。


「尼港の暗闇の中で、私に『未来』を見せてくれたのは、あの娘だ。教育という翼を授けるのは、私に課せられた最後の任務なのだ」

 陳と趙は、自らの俸給を削り、一度も恩着せがましい顔をすることなく、凜を医学の道へと押し上げた。


 そして、かつての若い水兵、リュウもまた、凜の揺るぎない守護者であり続けた。

 凜が学校の寮で生活していた頃、親のない出自を揶揄する心無い同級生たちがいた。それを聞きつけた劉は、当時すでに将校へと昇進し、海軍軍人としての風格を備えていたが、軍服に威厳を纏わせて学校へと乗り込んだ。


「聞け、愚か者共。この凜という女性が、あのアムールの極寒の中でどれほど多くの命を繋ぎ、どのような地獄を超えてここに立っているか、貴様らには想像もつくまい。……人の苦しみに寄り添えぬ者に、医学を語る資格などない!」


 劉の雷のような一喝に、いじめていた者たちは顔を青くして散り散りになった。凜は、その劉の背中を見ながら、かつて『江亨』の甲板で自分を守ってくれた、あの鋼鉄の温もりを思い出していた。


―――――――――

 月日は流れ、凜は一人の女性として、そして熟練の看護師として自立した。結婚し、新しい家族にも恵まれた。


 しかし、歴史の歯車は無慈悲にも再び回り出す。

 かつて命を救い、救われた関係であった日本と中国が、泥沼の戦争へと突入したのである。

 凜は主婦でありながらも、志願して最前線の野戦病院での看護にあたった。

 担ぎ込まれる負傷兵たちを看病しながら、彼女の脳裏を過るのは、常に平太と明子の面影だった。


(あの子たちも、今頃は立派な青年になっているはず。もしや、この銃声の向こう側に、平太君がいるのではないか……。もし、彼が私の前に担ぎ込まれたら……)


 敵と味方。

 国家という虚構の枠組みが、かつての純粋な絆を分断しようとする。だが、凜の手は、目の前の負傷兵がどの国の人間であろうと、決して止まることはなかった。彼女にとっての医療とは、国を守ることではなく、剥き出しの「人間」を守ることだった。それは、父・馬先生が命を懸けて娘に遺した、たった一つの真理であった。


 日本の敗戦により、ようやく長い戦乱が終わったかと思われたのも束の間、中国は国民党と共産党の内戦という、さらなる混迷へと突き進む。

 国民党側に近い立場にいた凜の一家には、暗い影が忍び寄っていた。だが、そこでもまた、かつての「江亨」の縁が彼女を救うことになる。


 共産軍の包囲が迫る中、国民党海軍の中で影響力を残していた陳や趙たちの秘密裏の計らいにより、家族一同で台湾へ逃れる国民党の最後の船に乗船することができたのだ。

 波に揺れる避難船の中で、凜はかつてアムール川を脱出したあの日を思い出していた。


(また、私は誰かの慈愛と縁によって、海を渡る……)


―――――――――――

 台湾の地で、凜は一族の長として、大地に深く根を張った。

 彼女が遺した物語は、家訓のように子孫たちへと語り継がれる。

「日本人は敵ではない。私たちは、かつて手を取り合って地獄を生き延びた仲間なのだ」

 その教えは、戦後の情勢が改善される中、一族の若者たちが日本へ渡り、学問やビジネスの世界で躍進する原動力となった。

 中には、日本に帰化し、先祖のルーツを胸に刻みながら新しい日本社会の一員となる者も現れた。


 二〇一〇年。東京、新橋。

 合コンの喧騒の中、馬場澪みおが小林正博に向けて放った、一点の曇りもない明るい笑い声。それこそが、あの日、凍土の下で芽吹いた命の連なりが咲かせた、九十年後の花であったのだ。


 九十年の歳月。

 アムールの砕ける氷、シベリアを焦がす硝煙、大陸を揺るがす動乱、そして台湾の海風。幾多の境界線を越えて、血脈は今、再び東京の片隅で交差する。

 それは、単なる偶然ではない。あの日、絶望の淵で誰かが差し出した「手」が、時空を超えて編み上げた、一本の太い鋼の糸だったのである。


 将吉は、澪の背後に浮かぶ凜が、優しく微笑むのを見つめていた。

 その微笑みは、現代の喧騒を浄化するように穏やかだった。

 将吉は、静かに、そして誇らしげに胸を張る。

 自分の父・善吉が、そして多くの名もなき軍人たちが守り抜こうとした「未来」が、今、目の前で笑っている。

 守られた命が、次の命を慈しみ、その命がまた、誰かを笑顔にする。


「……おとうさんの戦いは、決して負けじゃなかった。今、ここに……こんなに綺麗な花が咲いている。」


 新橋の夜空には、

 九十年前の尼港にはなかった、穏やかで眩いばかりの夜景が、どこまでも優しく瞬いていた。

 シベリア編は以上となります。

 本編に登場する人物のうち、榊原大尉、石川少佐、石田領事とそのご家族、そして陳世英少将につきましては、深い哀悼と敬意を込めて実名で登場していただきました。劇中、石田領事の奥様が愛娘に晴れ着を着せるシーンがありますが、これは様々な記録に残されている史実であり、本作にも大切に組み込ませていただきました。

 また、作中で歌われる唱歌「故郷」は1914年に発表された曲であり、当時尼港事件に遭遇した日本人の多くも耳にしていたはずの曲です。主人公の将吉や善吉たちが信州出身であることから、同郷の偉人である高野辰之が作詞したこの曲を、彼らと故郷を繋ぐ象徴として選んだ次第です。

 「尼港事件」は、現代の日本社会ではあまり耳にすることのない言葉かもしれません。しかし約100年前のシベリアでは、理不尽な暴力によって多くの日本人、中国人、ロシア人が無残に命を奪われました。決して風化させてはならない歴史の真実であると考え、今回の執筆にあたって深く取り上げさせていただきました。

 改めまして、あの極寒の凍土で犠牲となられたすべての方々に、心より哀悼の意を表します。

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